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『伝染する劇』鑑賞での症状記録

演劇実験室◉万有引力『疱瘡譚または伝染する劇』を下北沢スズナリで観劇し、自分の体に現れた反応を記録します。

どんな公演であったかはこちら↓にできる限り詳しく書いたつもりです。
このnoteに載せなかった観劇を通して起きた超個人的な症状を書き残しています。自分でもなぜこんな反応がおきるのか不思議なので。

開場中

劇場に入る前から白塗り二人に出会い、検温と消毒を無言のうちに行なったのは本当に不意というか、予期していなかったというか。
入場前から、ここに安心安全な劇場なんてものはない、ここは戦場の第一線なんだって心が緊張した。
私には戦士である覚悟がなかったから一層ビビり倒した。丸腰で戦場に出向いちゃいかん。

劇場の扉の中に入ればそこは異世界。ぴちゃんという音が響き、人が蠢く。扉が一枚間にあるだけなのに、音波による異世界の圧力はすごくて、チケットを自らもぎることすら怖く感じた。
昼の世界から一変した暗さに震え、席がどセンターであることに戦き、戸惑った挙句、横の列からお邪魔して座った。今考えれば正常な判断ができてなかった。
しかし、舞台と客席を隔てる道を歩いて行くの怖かったのだ、比較的安全そうな客席を行こうとしてしまった。

上演中

何より劇場は音響がいい、劇場と野外は全然体験が違うんだって思わされた。やはり劇場は劇場で最高だ。音に支配されたような、腹に響いてくる感覚。音波で打身して内出血してあざだらけになったかのような。
自分に侵入してくる、これが感染ということか。
J・A・シーザーさんの音楽を聴きながら今も書いている。

場転中など、大きく音楽が鳴ってる時は、本当に叫びたくなるような感じだ。実際「あああー」とか言ってた気がする。呼吸が乱れ、マスクの中で過呼吸気味になる。
体に刺激を受け取りすぎて、跳ね返すなり吐き出すなりしないと、破裂しそうな感覚になる。

舞台上にいる人の気配、響く音に体が反応した。
内臓を病原菌の付いた手でかき回されるような感覚、体の内側が痛い。
気づいたら、腕を組んだり胸に当てたり体に引き寄せたり、自然と胴体を守るポーズをしている。こちらに向かって威圧されてるわけではないのにパワーに押しまかされ、腕でガードしなければ内臓に抉りこまれるぞ、という感覚があった。寄生虫に腹を食い破られるんじゃないかと。
しかも一人一人区切られた座席だから一層自由に動き回ってしまう。
隣の人の目を気にしないぶん、自分の体が異常へ変わっていくのを冷静に見ている自分がいた。

スクリーンに映し出される文章のどれもが磨かれていて、金属のようになめらかな強さを持っている。「演劇もまた疫病」
「疫」病という言葉と「役」者という言葉には、同じつくりが使われているなと思う。ほこづくり、るまた。手に木の枝を持つ象形だという。そういえば木の板を持った役者を何人か見ましたな……考えすぎだけど。

役者がマスクをしていると、たとえ会ったことのある友人でもわからなくなる。声と目の感じだけで判断しなくてはならなくて、私は出演していた友人をそうと認識せずにいた。
ただマスクがあるからこそ個人性というものが失われ、一層舞台に何人もの人が入れ替わり立ち替わり現れたような気もする。
終演後もらった配役表を見、こんなに少ないメンバーで上演していたのかと思った。予想よりも、地獄(いい意味で)の構成員は少なかった。

終演後

観劇後、久しぶりに後遺症が出た。後遺症というか、観劇のムードに酔っているというか。酔っ払いかのように自分の身体に不如意の反応が出ているというか。劇場の階段を駆け下りれなくなったり、足がふいに脱力したり、「うあー」と呻かずには歩けなかったり、フリーダンスしたかったりした。こういう怖さに浸る感覚は覚えがあった。

今まで感じたことがあるのは、北千住での 飴屋法水たちによる「スワン666」と下北での範宙遊泳「うまれてないからまだしねない」の二つのみ。主に前者は殺人事件の現場を目撃したような戦慄で、後者は自分が病で死ぬ間際のような不安であった。

学生演劇を中心に2017年から観劇を続ける中、2回しか出会ったことがない。自分にとっては年1回出会うかどうかの感覚をもたらす演劇なのだ。そんなものに、ブランク明け早々遭遇してしまった。
滅多にないからこそ、長く浸りたいと思ってしまう。悪夢から目覚めた時のような夢うつつの感覚。もう現実に戻っているのに、体だけ悪夢に取り残されている。金縛りのような不自由さ。

この感覚に再会したいと、も一度酔える芝居に出会いたいと、観劇を繰り返している節すらある。
身体ごとプレス機で押し潰される、目から体液が滲みそうな感じ。

気づけばスズナリの階段を一段一段踏みしめており、手すりをぎゅっと握らずにはいられない。
足に力が入らず「あー」とか言ってしまう。
今回感じたのは過去へのフラッシュバックなどが起きていて怖い、というわけではなく、「今ここ」で起きていることがそれだけで怖い。
白塗りの人たちが今あそこの角から出て来たら飛び上がって気絶してしまいそうだ。

フリーダンスしたり叫んだりしたくて場所を求めてゾンビのように歩き回った。昼の回にしたばっかりに、堂々と呻くには人が多すぎる。「うまれてないからまだしねない」の時は下北沢の駐輪場の小道を落ち着くまで呻き歩いたのだけど、昼は叫びにくい。「スワン666」の時だって劇場から駅まで「う゛あー」って言いながら住宅街を回り道して帰れたのに、昼の下北は、なんて人が多いんだ!
人のいない場所を求めて、スズナリ近くの教会にたどり着くも、原っぱで蚊に刺されまくり退散した。本当は踊りたかった。体に電気がたまりすぎていて、今放電しなくては、体が壊れてしまいそうだった。現に体は暴走していた。
脳内に響く寺山修司の言葉が強すぎる。

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もしも役者挨拶があったら誰かの手に触れたくなるような、思わず人肌を感じて安心したいような感じだった。よかった体温ある人間だ、って泣き崩れたかった。そしたら夢からはっきり醒めて地に足をつけられる。
しかし役者面会はないのだ。

別段ホラーを目指してるわけではないはずなのに、刺激が強い。
部屋に閉じこもると予期せぬ恐怖を感じる瞬間が減るので、一夏分、いや半年分の恐怖を味わった感じだった、濃い。

観ながら、必死にこの感情はなんと表現されるのだろうかと考えていた。恐れ慄き?畏怖?生命危機?当てはまる言葉を見つけられれば、症状が落ち着く気がした。
泣きべそをかきながら、いや実際涙が出たわけではないのだけど、泣きたくなるような恐怖だった。私の脳みそではその程度でしか言い表せない。泣きたくなるようだ、としか。泣いてる気もしたのだけど涙だけでてなかった。精神的号泣。こども心の夜が怖い、おばけが怖い、暗闇が怖い、の理屈抜きの恐怖というか。

舞台上にいるのは、役者の人間で、演じている役でさえ人間なのに、それでも人ならぬように見てしまう。なぜか不安に襲われる。だから面会等で素を見てホッとしたがる。不思議だ。
面会がないから、魔術にかかったまま、催眠解かれぬまま、私は街に放たれてしまった。


次の日、ゆっくり寝たはずなのに、なぜか足が痛い。疲れてるというか、なんかだるくて重い。


もしや、感染したかもしれない、芝居に。
いや元から感染者だったか。

こんな演劇に出会ってしまうから、観劇をやめられない。
こんな感覚に気づいてしまうから、演劇をやめられない。
今日も私は患者です。

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