独り旅 三日目前半

ジョナサンで、するすると筆が進んで日記は書けるけど、思ったより時間がない。
一年を締める日記って何書けばいいんだ?決めきれないまま、「いい年だった。」と紙面の隙間に滑り込ませてからリュックにしまう。うー、若干書き足りない。本当は「いい」なんて簡単な形容詞じゃくくれないよ、この一年。でも「いい」とまとめておきたいんだよな、私は。
十一時四十分ごろになったので、ジョナサンを出てお寺に向かう。

ぼーん……

しまった!向かう途中で一回目の鐘が打たれちゃった。見逃したなあ。
着くと、すでに鐘には行列ができていた。一時間前までお寺にはぽつぽつとしか人がおらず、道でも滅多にすれ違わなかった静かなところに、こんなに人が潜んでいたのか。厳粛さはかわらずとも、人がいるかいないかでお寺の雰囲気が大違いだった。

ぱちぱちと火の粉を上げてお札を燃やすドラム缶を横目に、並ぶ。

寒いなあ……
お札を燃やす火のほうについ手を伸ばしてしまいそうになる。

色々な人が、一つの鐘のために列をなす。
子供からお年寄りまで、これぞ老若男女。当たり前だろうけど、どうやら地元の人が多いみたいで、挨拶を交わしていたり、あ!って遠くから知人に気づいたりしている。

高校頃の娘さん二人のいる家族と列が隣になった。
娘さんたちは次々と鐘がなっている中、スマホに夢中でいる。だから私はスマホを意固地になって見ない。
一人の娘さんは年内に鐘をつくのは間に合わなさそうと気づくと「私の煩悩を託して鐘ついてもらいたいな」なんて発言も飛び出してた。その発想はなかった。周りの人たちも苦笑してる。でも、こうやって直に鐘の音の音波にあたっているだけでも、結構欲が静まりそうな気もするんだけどな。どうなんでしょ。

新年は列に並んだまま迎えた。
「小さい頃はもっと年越しって大切だったよね」「ね、カウントダウンとかしてさ」「ジャンプしたりね!」
と娘さんたちが話している。確かに、なんだかあっけない。年越しの瞬間に劇的な変化はないからな。そして別段それが悔しくない。
変化といえば、年を越してから、ほうぼうで「あけましておめでとうございます」の声が飛び交ったことくらい。挨拶されたから私も挨拶し返した。並んでいる間、地元民でないことに、少しだけ場違い感を思わないわけではなかったのだけど、声をかけてくれたのは嬉しい。

だんだん列が鐘に近づいてくる。慌てて鐘をつく作法などを検索したりして。とりあえず、最初の一礼と最後の合掌はしっかりしよう。ほうほう、鐘が響いてるうちにつくと、鐘の劣化につながるのね。だから、余韻が落ち着くまで鐘の前に人を立たせないのか。じゃあ、鐘を打った後、落ち着くまで鐘の前に居続けよう。打ったらささっと鐘の前を去る人が多いのだけど、私は音を聴いてたい。

去年も鳴らしたのだけど、鐘を前にすると、ちょっと緊張する。かすらせないか、強く打ちすぎないか、加減が難しい。

ぎゅ
すうっ

ヒュういッ

ぼぉうわおおぉぉ ぉ ォ ォ おん...

ン..n..n....n......

合掌。鐘の音波を間近で浴びる。つい、願い事をしてしまった気がする。
鐘前の台から階段を降りると、記念の札がもらえた。 百八つのうちの八十四番らしい。うーん、私的には好きでも嫌いでもない数字。でも記念のお札がもらえるなんて、嬉しいなあ。

「鐘をやった人の初詣はこの列に〜」
と、まっすぐ進んで本殿に続く、初詣の列に入る。
「カネって呼ぶの、なんか金に聞こえるね」
と、またも列の近い先ほどの娘さんたち。わかる、同じことを思ってた。煩悩を消す鐘と煩悩の象徴のような金が同じ音の呼び名なんて不思議なことよなあ。

「月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ」
本殿の仏像を挟んだ柱に書かれていた文字。調べたら法然上人の言葉らしい。二重否定を理解しようとするときまって頭が混乱する。

初詣のすぐ隣で、福引をやっていて、煩悩捨てようとしたばっかりなのに〜〜!と思った。初詣をしたら交換券をもらい、数歩歩いて同じ本堂の中で抽選して、商品をもらう。
願い事を神仏に伝えようとする真横で、「一等!」「ティッシュかあ〜」などの声が上がる。さっきまでの信心深そうな顔をつい忘れて目の前の商品に一喜一憂するの、いくら鐘をついても捨てきれない煩悩を象徴してるみたい。

大きなお菓子の袋を抱える人たちを見て、登山もあるのに大きいの当たったらどうしようかな、と思った。
私は末賞で、手のひらサイズの箱をもらった。災害時に使えそうなアルミ毛布とハンドルを回すと充電できるライトだった。

多分消防署とかからの物かな。神様仏様はよく見てくださるもんだな、どっちとも登山にすぐ使えそうだ。
でも、お菓子、いいなあ。

……という煩悩。
そういう戒めをこのお寺は新年早々人々に伝えてるのかなあ。

豚汁を一杯、漬け物をたくさん頂く。

炭火で焼いてるお餅入りのおしるこも一口食べたくなっちゃったんだけど、目の前で「豚汁二杯目なんてダメよ!みんなの分なくなっちゃうでしょ!」って怒られてる小学生の子を見て、煩悩のことを思って、踏みとどまれた。危うい、危うい。

鐘を見れるベンチに座って体に音を染み込ませる。
除夜の鐘って、音をグラフ化したら心拍音とおんなじじゃないかな。色々な人が打つ音が、一つ一つ、鐘の鼓動となっている。私たちがつくことで、鐘が生きる。誰一人として関わらなければ鐘は死んだも同然だし、音の響き方に違いはあれど、どんな人とも関わっている。もらって与え、相互に響かせあって、夜は更ける。

まだ時間はあるけれど、おしるこ欲が広がりそうだし寒いので、駅に向かう。

去り際に穏やかな顔を見つけた。

装備を済ませ、バス停に向かう!
「Lonely Boy」のオー、オッオッオオー、がまだ頭から離れない。
伊勢原駅から大山へ向かうバスの中で、ここの出身らしい落語家によるアナウンスが流れている。小噺を披露したり、豆知識を話したり、ただの地名を呼びかける味気ないアナウンスじゃないから楽しいな。ラジオみたい。落語家はしゅんげんていわぎょくって聞き取れたんだけど、あとで調べたら金原亭馬玉(きんげんてい ばぎょく)さんだとさ。 私の耳大丈夫かな。

バスにはしっかりした登山用のリュックを背負っている人もいれば、身軽な人もいる。頂上に行かない人もいるんだな。
バスを降りて、ケーブルカーまでの階段をのぼる。そこまで寒くもないし、みんなヘッドライトしてない。なんだ、ネットの情報は大げさだったんじゃないかと思って、慌ててつけてたヘッドライトをリュックにしまう。 階段の段数を表す駒の絵が踊り場に描かれている。これはネットで調べた通りだ。

いよいよ本当に山登りか。初めて一人で山に登る。それも深夜、初日の出を拝みに。登りきれるかな。ちゃんと初日の出見れるかな。孤独を感じられるといいな。
期待と不安が入り混じりつつ、ケーブルカーに乗りこむ。

三日目後半→https://note.mu/fmk27/n/n1d269fc5dc4b

つくることへ生かしてゆきます お花の写真をどうぞ