独り旅 三日目後半-登山

少し違うことに取り組まなくてはならなくて、最後のが書けてなかった。あとで、しかも何ヶ月も過ぎて振り返り書くのは旅の最中に書くのとまた違うね。他の旅の話はリアルタイムにスマホに打ち込んでいたから、こんな風に何ヶ月も後でパソコンに話しているのがなんだか不思議。
ここから先は、思い出話です。長いので、三日目後半は登山、山頂、下山と分けています。

「あけましておめでとうございます」と声をかけられ、足元の階段を見ていた顔を上げると二十代くらいの方がいた。「寒いですねえ、どこから来たんですか」などと続けて話しかけられた。
神奈川出身なので大山は地元だというこの人は、私が本州以外の出身だと聞いて驚いていた。私と同じく一人で登るのだという。
このまま山を一緒に登ることになったら孤独を感じるという目的は達成できないなと思っていたら、会話が途切れたあたりでずんずん階段を登っていった。「あけましておめでとう」から始まったさっぱりとした出会いだったな。ありがとうございました。
こんな風に、見知らぬ人に声をかけられるのってそれなりに条件があったりするのだろうか。正月の深夜という時間、山を登るという目的、同じ階段を登る行為、互いに会話の相手がいない単独行動。
いいなあ、「あけましておめでとう」みたいに、気軽に知らない人と袖だけでなく声を振り合わせてみたいなあ。
つくづく映画「勝手にふるえてろ」の前半で描かれていた、ちょっと遠い距離の話し相手、に憧れを持つ。

階段を登りきり、大山ケーブル駅に到着。ケーブルカーに乗り込む。
本当はケーブルカーの一番前の席に座りたかったけど、寸前で埋まってしまった。席の脇に立って景色を眺める。
今は特別にライトアップがあるらしく、窓から覗く木々が照らされ色を変えている。おそらくLEDが木の根元に設置されているんだろう。自然にはありえない色に光る枝は、テーマパークみたいで楽しかった。
野外演劇に関わった時にも木に照明を当てているのを見たけど、やっぱり木と照明って相性いいのかな、とっても綺麗に見える。


ぐせーっとケーブルカーは登ってゆく。森のトンネルを抜けて。
木々が途切れて一瞬空がひらけたとき、光る林の上に月が君臨していて、ファンタジーの挿絵のようだった。わあ、とつい口から漏れたけど、周りの人も歓声をあげていた。月。綺麗に三日月。本当に一瞬しかなかったからスマホに撮れなかったのが悔しい。
隣の一眼レフのスナフキンみたいな旅人はきっと上手く撮れてたんだろうなあ。

終点の阿夫利神社駅についてまた山の斜面を撮る。
また一眼レフの旅人がいるや。長く撮影してる。さぞかしいいのが撮れるにやあらん。写真見たいなあ。

神社駅近くにはお店が三軒ほど並んでて、おしるこなどを売ってる。座敷もあって、ストーブもあってあったかそう。杖のレンタルもあるらしい。

三日月マークの灯籠と月がお揃いで絵になる。

神社までの石の階段を登った。並んでたから参拝はしなかったはず。阿夫利神社辺りをめぐる。今日はいっぱい神社仏閣に参るなぁ。聖水もちょっぴりいただいた。酒樽や七草粥の看板が出ている。ああ正月だ。

しばらく境内を歩いていたのだけど、日の出までに山頂に辿り着くか不安になってきて登山道に足を踏み入れた。

境内の中は明るかったが、登山道は明かりがなかった。調べたサイト通りだ。
でも知恵袋で言われているほど全然きつくなかった。道もなだらかだったし。ネットでは極寒と書いていたのだけど、全く寒くなく、防寒用に巻いてたタオルはいらないほどだった。なんだか拍子抜けしていた。あれ?私意外といけるんじゃね?って。

でも山道って長いのな。しかも、途中から、これぞ山、というような斜面に変わってきた。岩ばかり。ゴチゴツ。どこに手と足をかけるか迷いながら、進む。右足を高い岩にかけるのが大変になる。

閉店間際の熱海の百均で買っておいた、ありあわせの登山グッツが活躍するわするわ。
手袋ないと岩に手をかけられないから、本当にあってよかったなー。ないと怪我してたぜ。
ヘッドライトなけりゃ懐中電灯?スマホ?無理無理。懐中電灯で歩いている人がいて、片手が死んでて大変だなと思った。
ある程度装備を揃えるのは大切と再認識。

休憩のたびに百均で買っておいたミニあんドーナツを一個食べる。あんこの糖分は脳にすぐ行くらしいとの受験期の知識を活用した。めちゃんこうまい。体が喜んでる。油と糖の黄金比。ころころしたカロリーの爆弾は口でハジける。これほど美味しいあんドーナツはない。油と糖のマリアージュ、さいこう!

登って所々の休憩ポイントから夜景が見える。神奈川の夜景。月が映える。登れば登るほど見える街が広くなって、圧倒される。ラメをバケツいっぱい振りまいたみたいだ。あと、今まで歩いて来た道が光る線になっている。街からの光が流れていく川のよう。どうやら今登っている人たちのヘッドライトらしい。すごいなぁ、私も光の一部になっていたということかな。なんだか嬉しい。

山の中腹でせらせらと白い点が地面に点滅しだした。地面に現れた点はすぐ消える。違うものだと思ったのだけど、ベンチで夜景を見る私の膝や肩にもちんまり座ってきたので、本物の雪だとわかった。私にとっての初雪だ。豪雪地帯の地元ではかみしめることのない、ちぃちゃい恵み。なんて控えめに降るのだろう。おしとやかな雪だなあ。どこかで「雪だー!」って威勢のいい声が聞こえて、微笑ましくなる。全然知らない人たちだけど、同じことに気づいて喜ぶのは嬉しい。

下調べ時に見ていた観光スポットの珍しい岩などを見つけてテンションが上がるものの、基本は厳しい岩の高低差に辛くなる。大抵右足で踏み込んでいたため、足の疲労に差が出てきた。意識的に左足から踏み込む。ひいひい。私の半分もない背のこどもが親と来ていて、しかも元気に登っていて、恐れ入った。

時々現れる何合目かの表示に行先が思いやられる。思ったより長い。まだ山頂に着かない。まだか、まだか。早くしなければ、御来光が来てしまう。

足が疲れて、いろいろな不安が顔を覗かせる。日の出に間に合わなかったらどうしよう、このまま体力が尽きてしまったらどうしよう、下山すべき?どこで体力の限界が来るだろう、休憩ポイントで太陽を待つという選択肢もあるぞ。どうする?もし一歩も動かない状態になったら帰るも進むもかなり難しい?
このままいくと…死?今なら間に合う、しかしここで諦めるのは勿体無い……ここまで来たのに。うーん。
などなど、いろいろよぎったけれど、結局足は前にしか向かなかった。休み休み、タイムアップに怯えながら、山頂を目指す。

山で初日の出が見たい。それはこの無計画ゆるふわ旅の中では珍しくしっかり決まった目的だった。ただ、旅をしていくうちに、初日の出そのものではく、待つ時間に強く惹かれだした。
なぜなら、頂上で初日の出を待つ状況は、私が孤独を感じうる条件が揃っているから。
まず、夜。これは暗いとやっぱり自分に思いを馳せるからね。太陽がないというのは大きいはず。うじうじしたり人恋しくなるのも夜が多いし。
次に、山。山は考え事に向いているらしい。修行といえば山だろう。じっと座り込んでいれば、何か孤独について思いついたり、気付いたりするかもしれない。もしかしたら悟れるかもしれないじゃん?
最後に、集団の中で、一人。グループや家族連れでいる中に一人でいると、当たり前なはずの一人が強調されるし、場違いな感じがする。
これは昔、一人で海に行った時に判明した。海を背景に写真を一枚撮ってほしくて、一人で来ている人を探したのだけど、全然いなくて驚いたね。すごく気まずい思いをしながら家族づれに頼んだ。無の顔で私の笑顔を撮ってくれた人、ありがたかった。けど、内心は惨めを絵に描いたような気持ち。
そんな風にいたたまれないな、って思うのが孤独への近道な気がする。周りは友達とかと登山してるだろうし、きっと肩身が狭くて自分の孤独と向き合えるだろう。
おまけに、スマホも使わない。SNSで気を紛らわしたりしない。そうしたら、自分と、自分だけとお話しできるだろう。

だから、この旅中、うっすらとしか孤独を嗅げなくても、山頂では強く感じられるだろうと確信していた。最後に登山があるから大丈夫だと。初日の出が見られることより、太陽を待ちながら考える時間が一番貴重だと思っていた。
さて、どんな心境になるだろう。

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