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人生のトリミング

こないだ、同い年の人に偶然会って、「春からどうするの?」と問われた。
笑いながら暫定の予定を言ってごまかしたけど、苦しいな。
笑うしかない自分も、笑うしかない相手も。
将来は、あんまり考えないようにしていたことだ。時々電話する人たちも、遠慮し避けている話題。
きっと問うた人は来春の予定を胸張って言えるのだろう。私には苦しいから聞けない。
会えて嬉しいだけなのに、あの場面が返しのついた針のように抜けにくい。

基本人と会わない生活で、同い年の人とも会う機会が減っているけれど、同い年の姿を見ないという点では救いだったかもしれない。
簡単に社会から隔離されて生きることができてしまう。
関わりをもつ人が限られていて、「最近どう?」を聞くのも聞かれるのも減っている。
だから、ある意味では安心してるな。
人に会いたいが、同い年の人には会いにくい。春に感じてた予期不安が悪い形で的中してしまった。

3月の自問自答と自己嫌悪ばかりの日々が過ぎて、将来への関心を減らし課題でいっぱいいっぱいになってるうちに息ができるようになっていた。
けれども、やはりいつかは将来に向き合うべきなのか。

* * *

帰り道、久々にぼんやりと歩きながら、長生きしようと思うから苦しいのかなと思う。
あと20年で死ぬなら、いや長いか、あと7年で死ぬなら、そんなに計画性なんていらないかもしれない。
その日暮らしでも、自分が満足するならいいだろう。
長生きしようと思うから、安定とか条件とか、求めてしまう。人生の長期的な正解なんてことまで。

仮想的に死ぬというのを新しい形で使うときかもしれない。

仮想的に死ぬというのは、私のライフハックの中でも最終手段的なものの一つだ。
今までは、過去を終わらせるために仮想的に死んできた。
「はいここまで、一旦自分は死にました!」という脳内ナレーションを流して、生まれ直す。
中学までの自分に区切りをつけるために、「死ぬ」。
高校までの自分に区切りをつけるために、「死ぬ」。
20歳までの自分に区切りをつけるために・・・

そうやって、儀式やら創作活動やら決意やらをすることで「死んできた」。
新しい自分を過去が邪魔しないように。過去が足を引っ張ることなく、まるきり違う自分になれるように。
汚れた嫌いな過去から自分を切り離せるように。ある意味では、昔の自分を「殺す」。

肉体の自死はすべての可能性を失ってしまうのでもったいないと、大学合格したときに思った。だから人生のリスタートには、精神の自死がベストだと今のところ思っている。
借金や身体的コンプレックス、戸籍などは消えてくれないけど、持ち物と友人は引き継げるし、義務教育はすっ飛ばせる。覚えておきたいものがあれば、前世の記憶として持ち出すのもいい。

* * *

今ここを生きることが大事だと、アドラー心理学を読んでいたとき知った。その時々にダンスをするように生きて、いつのまにか着いているところが未来だ、と。そんなニュアンスで理解している。

けれども、私には未だダンスが上手く踊れない。切り離したはずの前世は思い返すし、受験期の山登りのような歩み方を引きずっている。
自分の登る山も見えず、ダンスも踊らず、地中でうずくまったまま。
地中では好きなものがわかってきた。でも、それを携えて登山する覚悟はないし、ダンスのパートナーには不安すぎる。

地中から出る踏ん切りがつかない。土の中にいたって虚しいのに、休んでいる。
私が7日で死ぬ蝉の成虫なら、迷わず土の中から這い出て、羽化して、命の限り鳴くだろう。
期間限定の命だってことは誰もが同じだけど、その短さを当人は自覚しにくい。
蝉の一週間は人間の80年かもしれないが、当事者からすると見通せないくらい長い。

あと7年で死ぬと思って人生をトリミングしようか。
そしたら焦って自分は地上に出るのだろう。きっと。
たられば考えながら潜る布団の地中、まんじりともできずに、羽化するのは夢のまた夢。


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