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20年前のヤンゴンでの暮らし

この頃のヤンゴンに滞在する外国人は本当に少なかったと思います。(登録在留邦人250人前後)

ミャンマーは欧米諸国からの経済制裁中ということもあってアメリカ、ヨーロッパ人の多くが大使館、国連職員などの公的機関から…

でも経済制裁しつつもしっかり?ちゃっかり?欧米の大手石油系企業なんかは進出してミャンマーの資源を押さえていたと言うから…何だかなぁと当時も思ってました。

したたかですよね。

でも日本企業も海外に出るのならばその位のしたたかさがないと駄目なんだなと、この時強く感じました。今も海外で暮らしていますがここだけは日本人は思考を意識して変えていかないと…

でもそれは決して現地の人や外国人を下に見るという事ではなくあくまでも対等に、ビジネス上の大人の対等な付き合いが必要だということ。

後から騙された、なんて通じない。

そういうものだから。世界に出るって。

それはこの後の韓国に駐在期間中に嫌という程痛感し学んだこと。

日本人感覚のふわふわした日本モードはとてもまずいと思う。

でもこれもあくまでもビジネス上の話ですが。

20年前のヤンゴンで日本人の私が1人でヤンゴン の街や市場を歩いている間に私以外の外国人とすれ違うことはまずありませんでした。私が行くところは外国人がわざわざ行かないところだったかもしれません。

どこに行っても。見事にゼロ。

外国人が宿泊するようなホテルやレストランでの知人との遭遇率もさほど高く無かった。何故ならそもそもの在留邦人の数がおそろしく少なかったから。

コロナ前の数年間。ミャンマーブームで世界中から企業や旅行者が訪れるようになってホテルも取りづらく高騰し、一時駐在員の家賃もかなり高騰した時もあったようですが、20年前のヤンゴンは正に鎖国状態にあったのでシャングリラ系の五つ星ホテルであってもガラガラ。50〜70ドルで宿泊出来ていました。駐在員の家賃はそれなりでしたがそれはどこの企業も殆どが社長か所長クラスが数人派遣されていただけなのでそれなり家賃の家、コンドに住む事になります。

今は名前が変わってしまいましたが当時のパンシーホテル(今はガバナーズかな?)もいつ行っても貸し切りでゆったり静かに気軽に食事が出来る場所でした。

ホテルのレストランもいつもガラガラでしたがメニューも豊富で今では考えられない程お得な価格で食事をいただく事が出来たのでヤンゴンの市場では絶対入手出来ない輸入食材で作った料理がその価格で頂けるのは本当にありがたかった。

特に私はメイドさんを敢えて雇っていなかったのでたまの外食は身も心も満たしてくれました。

でも日本からの出張者はタイまで来てもなかなか来ない。わざわざミャンマーへ足を運ぶ人が少なかったのは一説によるとタイの様に夜女性がいてお酒を飲む場所が無いから…なんて話もあったり無かったり。  

当時、日本からタイ出張は(人にもよりますが)男性にとっては夜は楽しみだったことでしょう。当時タイでの日本企業の勢いは凄く駐在員も元気な?豪快な人が多かったかなぁ。会社のお金で遊ぶ人も結構多かったし会社もその辺はまだ緩かったし携帯やメールで常に追いかけられる様な時代ではなかったのでのびのび夜の街に繰り出す駐在員は多かったと思います。

パッポン、タニヤ辺りのカフェで女性と待ち合わせをして一緒に店に出勤する日本人男性をよく見かけました。

日本からの出張者を接待すると言う口実で夜の街に繰り出す駐在員で賑わっていたタイの歓楽街も最近随分雰囲気が変わったなぁと感じます。

たった飛行機で1時間しか離れていないのに、ヤンゴンにはそんな場所は無いに等しかったので出張者には物足りなかったかもしれませんね。

が!早く就寝出来てゆったり朝食が食べられるゆとりもあって、ほぼ100%のミャンマー人が民族衣装を纏い生活している姿が見れるなんて!貴重なヤンゴンの景色が見れるのですから。今となっては本当に貴重な風景。

男女問わず昔の日本人が着物を着ることが当たり前だった時代の日本にいるのと同じ様なことなんですから。日本で例えるといつの時代?江戸から明治辺りの日本の風景が今見れる…と言うことでしょうか。

まぁ、でも私にはとても新鮮だったそんなヤンゴンの風景に興味を持つ人は少なかったかなぁ。

タイ在住の日本人も旅行で来る人は殆どいませんでした。わざわざビザを取ってまでね…ミャンマーって何があるの?と思っていた人も多かったでしょう。情報規制がとても強かったのでミャンマー に関する情報は本当に少なかったのです。ガイドブックも地球の歩き方のみ。ネットも無い時代だったので本当にそれだけ。だからこの国に何があってどんなところなのかイメージしづらかったでしょうから仕方ないかな。

まぁ所詮そんなもんか。

でも当時ヤンゴンで暮らしていた日本人はとても健康的な生活はしていたと思います。朝陽が昇ると共に起き、夜暗くなったら出かける場所も無いしネットもないのでやる事もないので早々に就寝。ゆっくりゆっくり時間の流れる国でした。

家族帯同の駐在員は家族との時間は日本にいる時よりも間違いなく濃く長く家族の存在はとても大きく強い絆が生まれやすい環境だったと思います。

だって頼りになるのはまずは家族だけですから。

日本から来た子供の中にはアレルギーが治ったという子もいました。

海外からの手が入ってないので当然農薬も容易に手に入らない。あっても高額。

でもだからこそ!必然的に無農薬!

野菜はどれも小さく虫がいっぱいついていたけれどそれが自然な姿なんですよね。

トマトも玉ねぎもじゃがいもも、本当に小さいんです。びっくりするくらい。

ナスを切ると中から幼虫が出てくることもしばしば。でもそれって無農薬ってことなんですよね。

素晴らしい!

しかも子供のアトピーが普通に生活していて治るなんて!凄くないですか?生活全部が汚染されていないって凄いこと。今はお金出さないとそんな環境手に入れられないのに。

空気も一年通じてとても綺麗でした。

11月に東京に一時帰国した時のこと。

朝、目が覚めると夫と私の目が開かない!!

鏡に写った自分達の目を見てびっくり!

バルタン星人に!本当に見事に!2人同時に!!両眼が腫れ上がって凄いことに!

ミャンマーの綺麗な空気に慣れていたのでしょう。乾燥した粉塵含んだ東京の空気に私達の目が敏感に反応したのです。

これから法事に出なければならないのに…急ぎ病院へ。

バルタン星人の目で写った法事の写真を見る度にその時の事を思い出し笑うと同時に世界の空気はこれから一体どうなるんだろうと不安になるのです。

人によって幸せはそれぞれですが。 

私にとって綺麗な空気と汚染されていない食べ物は生きる上で大事なこと。それが当たり前にあって常に周りにある当時のミャンマーは私からみると幸せな環境でした。

ただ自由な言論が無かった、許されなかったということは当時のミャンマーの人々にはとてもしんどかったであろうと思います。

でも人間が暮らす環境としてはとてもとても素晴らしかったと…今でもそう思っています。

私は生活上の利便性よりも汚染されていない環境で暮らせることの方が尊いと思っています。

だから何でもあって便利で物で溢れた東京よりも不便だけれど安心して過ごせる自然環境にいる方が心豊かに暮らせると本能が感じ取っていたのでしょう。だからミャンマーに帰った時にほっとしたのだろうと。

何が幸せなのか…

気づかされることの多かったヤンゴンでの生活。

続きます…












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