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真の理想主義者は徹底して現実主義的に振る舞い、真の現実主義者は徹底して理想主義的に振る舞う

倫理とは本来絶対的なものだが、敢えて言うと、「第三者から倫理的に「見える」ように振る舞うべきだ」という主張は成り立つ。この場合むしろ、「倫理」は至極功利的な観点から「手段」として求められる。「正統性」もまた然り。

絶対性に訴えるべきか、功利性に訴えるべきかは極めて難しい問題だが、つまるところ自他の関係性に依っていずれが有効かは決まってくる。少なくとも、自身の絶対性の限界と、他者の功利性の射程には敏感であるべきであろう。

倫理性の土俵の上であっても(だからこそ)功利的に振る舞うことは可能であるし、実際多くのプレイヤーがそれを選択している。相手が(こちらの受け入れがたい種類の)倫理性を押し出してきている時、その具体的な内容はともかく一旦相手の「倫理性という土俵」に乗った上で、倫理性という同じ概念カテゴリにとどまりながら別の具体的内容を持ってして相手の主張内容に対抗するということは十分有効である。

ナイーブに相手の倫理性の「内容」を批判するのではなくむしろ相手が「倫理性という土俵」を採用していることを利用し、相手の使うのと同じ武器をそのまま使って対抗するのである。

不用意に「リアリズム」を標榜して倫理性に対して功利性をぶつけるのではなく、同じ倫理性の土俵で戦うという、より冷徹なリアリズムを選択するのである。

これは、SNSでよく見かける「ブーメラン」を指摘するような論法ではないし、それによって相手を「論破」しようとするものでもない。それがそのように観測されてしまうこと自体、「冷徹なリアリズム」が欠けているとしか言いようがない。

理想主義は現実主義者の武器であり、現実主義は理想主義者の武器である。従って真の理想主義者は徹底して現実主義的に振る舞い、真の現実主義者は徹底して理想主義的に振る舞う。

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