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科学者・専門家の動作保証範囲

(2011年4月9日)

科学者が科学の手続きの範囲内に厳密に限って発言しようとすると「~という条件で~という実験・測定をしたら~という結果が得られた。~を仮定するならば~である可能性がある。」ということしか言えない。

かろうじて論文のimplicationの部分でその範囲外のことに言及するが、それは厳密には「科学の動作保証範囲」の外側。もちろん、他の複数研究のメタアナリシス的観点から、蓋然性の高いと思われる仮説を立てることはできて、実態としてはその行為も含めて科学者の専門性が信頼されている。

科学者が厳密に「動作保証範囲内」での発言を堅持してしまうと、ほとんど一般社会とのコミュニケーションが成立しない。むしろ社会の側が、「動作保証範囲外」の言動を要求してしまうという側面があり、それを時には「科学者の説明責任」と言ってしまったりすることがある。

動作保証範囲内の知見に基づきつつ、保証範囲外の判断をすること。しかし、例えば医者などは、日常的にこれをやっているし、やらざるをえない。むしろそれが医者の引き受けている責任だったりする。

他人の判断の代行は誰にもできないにも関わらず、判断の代行の需要は非常に高い。そして、それを求める方も、応える方も単純に「悪い」とは言えない。

専門家が自らの「動作保証範囲」に対して自省的であればある程、「それを越える社会の要請」や「有無を言わせずそれを越えさせてしまうメディアの「編集」」を拒み、結局そうでない専門家の露出頻度が高くなるという問題がある。専門家の発言の有無と善悪を単純に結びつけているのではなく、それとは無関係に「淘汰メカニズム」が働くということ。

今回の件に関して、専門家の発言が「わかりにくい」から「わかりやすく説明する役割を」という声があったが、これは文字通り「わかりにくい」という面(ももちろんあるがそれ)以上に、「判断を代行してくれていない」という意味ではないのだろうか。

「専門家が判断の代行をせずに当事者に判断を委ねる」というと、「Aのメリットデメリットはこれとこれ、Bはこれとこれ、さてAとBどちらを選ぶかはあなた次第」といったシンプルなものをイメージしがちだが、実際には「Aのメリットと言われているものにはこういうものがあるが、それを支持する研究としない研究と、グレーゾーンの研究がこの程度あって、それぞれこのような前提を仮定した上での研究で、それらの研究の研究者間での評価はこのような状態で・・・・さてどう判断するかはあなた次第」というような事態である。

興味深いのは、評価の高い専門家の記事や寄稿などを見ていると、評価コメントの中に「わかりやすい」と「安心した」がセットになっていることが多いことだ。これが何を意味するか。「わかりやすい」から「安心した」のか。「安心させてくれた」から「わかりやすかった」のか。両者は独立なのか。

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