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「仮想平衡点」という擬似的なゴール

30年ぐらい前の話。
ヒトの上腕の運動制御の研究でvirtual trajectory controlという理論があって、これはヒトの上腕をバネと質点から成る単純なモデルで近似した上で、ヒトの脳が「仮想的な平衡点」を刻一刻とずらしながら上腕を目標位置に導くような運動指令を計算している、というもの。

イメージとしては鼻先にニンジンをぶら下げられた馬をニンジンを巧みに動かすことでうまく操る感じ。このモデルの欠点は、そのような平衡点の時間軌道は実際には極めて複雑なものになり、計算負荷が高すぎて運動反応が遅れる、という点。一方利点は、バネと質点という極めて簡単なモデルであること。

これは、メタファーとして非常に面白い。複雑な対象に働きかける時、簡単なモデルを立てて「仮想平衡点」という擬似的なゴールを与えてそれを常に動かし続けることで最終的な目的を達成しようとする代わりに、極めて複雑な「仮想平衡点」の軌道計算を引き受けるか。

あるいは、なるべく対象の正確なモデルを構築することで「仮想平衡点」など使わずに初めから最適な軌道を計算するか。後者の場合はモデル構築が妥当な時間内に終わるのか、構築が終わるまでの試行錯誤がどこまで許されるのかが制約条件になる。

前者の場合、対象が目標状態の手前で止まってしまわないように仮想平衡点は常に「行き過ぎた」場所に設定される。一方、制御主体が軌道計算の負荷に耐えられなければ対象は目標状態に到達できない。しかし現実の社会を見渡すと、多くの場面で前者の方略が採用されているのではないかと思う。

後者を提唱する研究者は、「そんな複雑な軌道計算なんかできない」と言う。前者を提唱する研究者は「そんな複雑な対象のモデルなんか作れない」と言う。しかし後者は「こういう方法(例えば2つの座標空間の間の座標変換と相互最適化)を使えばわりと簡単にモデルを作れるよ」と返す。

ヒトの上腕はともかく、残念ながら我々の社会は、ほとんどの対象について未だ「こういう方法」を見出していないのだと思う。

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