山奥で10日間ひたすら瞑想した話②
-プログラム前半(1日目-5日目)-
4:00
「チリンチリン」
優しい金属音が宿舎に鳴り響いた。
奉仕者が起床の合図の鐘を鳴らしながら宿舎を巡回する。
奉仕者とは参加者を取りまとめるリーダーの役割を担っている人物だ。
朝4:00に起きるなどいつぶりだろうか。
鉛のように重い体を無理やり動かし部屋を出た。
体育館のような建物の瞑想ホールに移動する。
その道中、周りの参加者と目を合わせないよう斜め下を向いて歩いた。
ここでは一切のコミュニケーションが禁止されているからだ。
きっと他の参加者も同じように移動した。
瞑想ホールに着くと、油揚げくらいの薄さの座布団が1枚ずつ支給され、瞑想を行うために座禅を組む。
ホール前方には教祖様的な年配の3名が横並びでこちらに向かいあって、一段高いところで座禅を組んで鎮座している。
明らかにレベルが違う、一目でそうわかった。
落ち着きのオーラが体から滲み出ており、後光が差しているように見えた。
後ろからいきなり驚かしたとしても微動だにしなさそうだ。
早速、瞑想プログラムが始まった。
最初は一切の思考を取り払い、意識を鼻の呼吸に全集中させるという方法で進められる。
鼻を通る空気の感覚
その空気の温度は冷たいか温かいか
その空気は鼻のどの部分に当たっているか
これらを観察する。
さらに、座禅を組んだ状態から体を動かしてはならない。
つまり、体の一部が
痺れようと
痛かろうと
痒かろうと
動いてはならないのだ。
わけがわからないほど辛い。
余裕で想像以上の苦痛だった。
気付かぬうちに考え事をしてしまっており、体を動かせないというストレスが半端ではない。
容赦なく押し寄せてくる眠気に耐えながら座禅を組み、目をつむり、思考を取り払い、呼吸に集中し、体を動かさない。
このまま寝てしまいたい
足を組み直したい
お腹が空いた
友人は何をしているだろうか
ポーカーがしたい
様々な煩悩に頭が支配された。
もはや10日間の瞑想を行うプログラムが辛いとかいう次元の話ではない。
初日1発目の瞑想タイムが既に限界であり、抜け出して帰りたくなった。
-朝食-
発狂寸前の中、最初の瞑想タイムをなんとか耐え抜き、6:30の朝食の時間となった。
受付をした建物の中の食堂に移動する。
足の痺れで立ち上がれず、しばらくその場で静止した。
食堂では参加者がお盆に食器を乗せ、配給エリアに行き、奉仕者に食べ物をよそってもらう方式だ。
「ありがとうございます」
奉仕者にそう伝えた参加者は、注意されていた。
一切のコミュニケーションの禁止が徹底されているからだ。
食事を受け取るのに感謝の言葉も伝えず、会釈もしないというのは、なんとも言えない罪悪感と違和感があった。
受け取ったメニューは、
玄米、みそしる、おしんこ
以上だ。
『まあ修行僧の朝食といえばこんな感じだよな』
と自分に言い聞かせ昼食に期待した。
しかし、昼食も朝食と特に変わりはなかった。
しかも、この11:00の昼食が1日の最後の食事である。
果たして、この食生活で人間の生命は維持できるのだろうか?
シンプルに心配になった。
無慈悲にも地獄の瞑想タイムは次々にやってくる。
ただただ、苦痛でしかない時間を耐えていた時、2名の参加者が瞑想ホールから退出した。
脱落者が出たのだ。
無理もないと思った。
自分は今まで世界10ヵ国程を訪れ、中々に厳しい環境で生活したこともあった。
それでも、これまでの経験とは比にならないほどの耐え難い時間だった。
参加者が38名へと減りこのプログラムは続いていく。
-講話-
19:00
教祖であるゴエンカ様の講話を聴く時間がある。
妙に落ち着き、優しさに満ち溢れ、なお力強い声で録音された音声が静かな瞑想ホールに響き渡る。
ヴィパッサナー瞑想では、あらゆる事象を
"受け入れる"
このマインドをインストールされる。
瞑想を極めると火炙りにされようが、体を矢で打ち抜かれようが受け入れることができるらしい。
究極、死を受け入れられるという教えだった。
やるからにはその境地にほんの少しでも近づくことを目指す。
思考の排除と呼吸への集中、そして全てを受け入れること。
ひたすらこの修行に向き合い励んだ。
-プログラム後半(5日目-10日目)-
今までの現実への執着は無くなっていた。
ただ黙々と日々の瞑想タイムを乗り越える。
その作業の繰り返しだ。
後半からは瞑想の方法が変わった。
直径1cm程の点をイメージして、体の表面の全てをゆっくりと移動させて、その感覚を捉える。
意識するポイントが鼻の呼吸から体の表面へと変わったのだ。
自分はこの直径1cmの点のことを"聖なる点"と名づけた。
聖なる点で、体の感覚を捉える行為は鼻の呼吸とは一変して難易度が高い。
指先など、普段の生活の感覚として認識しやすい部分はなんとなくできるが、背中や足の裏などの感覚はぼんやりと不確実なものになってしまう。
さらに瞑想が進むと、この聖なる点を体の内側に移動させ、全ての箇所を調べなさいと教えられる。
体の内側の感覚など意識しようと思ったことはない。
精々腹痛の時に
『頼む!おさまれ!』
と祈ったことがあるくらいだ。
このレベルになると、こなせているという確信はなく探り探りの日々だった。
それでもなんとかその境地に辿り着けるよう1日10時間の修行を重ねた。
この日の夜。
宿舎のベンチで空を眺めていた。
女性宿舎のベンチに黒いシャツの女の子が来た。
プログラム前日に同じ場所で手を振りあった参加者だ。
お互いに存在を認識したが目を合わせることはなく、無視した。
ネガティブな雰囲気はない。
それぞれが本当の意味で自由を尊重し、空や木々を眺めた。
"お互い頑張ろう"
ただ、その気持ちだけを抱き、
プログラムは終盤を迎える。
ある日の瞑想タイムで異変が起きる。
体が地面と一体化しているような感覚を覚えたのだ。
もっと言えば、この現実に自分の肉体が存在しているという概念が取り払われたような感覚だ。
精神世界に飛ばされたような体験で、体が痛くても痺れていても、
痛いと感じているな
痺れているな
と、まるで他人事かのように自身の体を認識している状態に気づく。
『これが悟るということか、、』
全くもって違うのだが、この瞬間から肉体と精神、ものごとへの捉え方に大きな変化が起きた。
休憩中のことである。
水筒に水を入れようと食堂に向かった。
"今日は熱湯2冷水1の割合で白湯にしよう"
腕に小さな虫がとまった。
"この虫も精一杯生きているのだな"
雨が降った。
"自然は循環しているんだな"
普段は気にもとめない些細な出来事に深い喜びや美しさを感じるようになった。
大人になるにつれ忘れていた興味、関心が蘇っているようだった。
最後の瞑想タイムを迎えた。
やっと終わるという安堵で胸がいっぱいになると同時に、これで最後かと少し寂しい気持ちになった。
全身全霊で最後の瞑想タイムを終えた。
こうして超絶ストイック瞑想プログラム、
ヴィパッサナー瞑想を完遂したのだ。
本当に大変な10日間であった。
周りの参加者も同じ気持ちだろう。
もはや彼らは同志だ。
翌日ようやくコミュニケーションの解放がされ、共に乗り越えた30名あまりの戦友たちと話す場が設けられた。
続
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?