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サウンドが次の展開を導き入れる――アナトール・リトヴァク監督『リラの心』(Coeur de lilas,1932)

 兵士たちが姿勢を正し、整然とした隊列を組んで歩く。キャメラは斜めの位置から正面にその様子を捉えている。やがて隊列はキャメラを追い越していき、キャメラもパンし、子どもたちがその隊列を真似るように兵隊ごっこしている様子を捉える。しかし、子どものひとりが戦争はいやだというと、警官ごっこに切り替えて泥棒と警官に分かれて追いかけっこに興じる。そこで子どもたちは、土手に倒れる男の死体を発見してしまう。辺りはにわかに活気づき、野次馬たちが集まり始める。そこへ笛を鳴らし、警官たちも駆けつけることになる。 その後ひとりの男性が尋問にかけられるのだが、ひとりの県警の刑事がその男が無罪であると確信し、ひとり調査に乗り出すことになる。


 さしあたりそのように始まった『リラの心』(Coeur de lilas,1932)であるが、この導入部にアナトール・リトヴァクAnatole Litvak監督の出自、つまりナチスが台頭しつつあったドイツを逃れフランスで活動しているという点に注目することもできるかもしれないが(戦争はいやだという子どもの描写がそれである)、重要なのはそこではない。重要なのは、サウンドが次の展開を招き入れているという点である。
 1932年というトーキー初期の映画ということもあり、『リラの心』はサウンドにきわめて敏感な映画であるということができる。兵士たちの隊列、子どもたちの「1、2…」という声、警官を導き入れる警笛、尋問における警官のほとんど怒声に近い厳しい声色というように、音声が次の展開を導き入れていることはほぼ間違いない。実際この映画では、喧嘩の様子を直接描写することなく、音声と、画面外から物が飛んできたり倒れたりする様子で表現したり、深刻な話し合いになる男女(これが誰かは明言せずにおこう)と結婚式の賑やかで楽しげな画面外の音声とを共存させ、男女のシリアスな雰囲気を際立たせている。

 このようなサウンドへの感度の高さというか、音声の氾濫に対し、かなり音声が抑えられた画面の充実もいっぽうで指摘しておかねばなるまい。警官の突然の一斉摘発を逃れた男女が、駆け込んだバスで何度も始点と終点を往復するシークエンスは、雨音がわずかに聞こえるだけで、それ以外はほとんど無音で演出されている。このシーンは、これまでのサウンドの氾濫に対する静寂と、キャメラポジションと役者の佇まいだけで勝負した簡潔さゆえに心にしみるものがある。

 ところで前回の『サンタクロース殺人事件』(L'assassinat du Père Noël,1941)同様、この映画においても真犯人を探すという導入部を持ったにもかかわらず、ミステリ部分は横滑りし、恋愛物語に変貌する。フランス人というのは、謎解きには興味を持っていないのであろうか。


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