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コロナ時代の演じられた世界に目を凝らすこと――アベル・フェラーラAbel Ferrara監督『ゼロズ・アンド・ワンズ』(Zeros and Ones,2021)

 リュミエール兄弟frères Lumièreからの伝統であるかのように、ローマに列車が到着することからもの語りはじめる。列車には兵士が乗り込んでおり、その身支度の様子をキャメラは捉えているが、われわれはそのとき、彼の口元をマスクが覆っていることを見逃すことはない。やがて兵士が列車を降り歩き始めると、その背後には消毒をしている男性の姿も見えるだろう。フィクションの世界ではあるが、2020年代に突入して以降の、いわゆる「コロナ禍」と呼ばれる現在を反映している。とはいえ、すぐさまいいそえておくと、映画の中で新型コロナウイルス感染症への言及はない。この後も画面上に現れる多くの人物が口元をマスクで覆い、手指消毒のためのアルコールも画面に映し出されるが、彼らがなぜそれらを必要としているのかは、必ずしも明らかではない。
 よろしい。なぜ彼ら/彼女らが口元をマスクで覆い、手指消毒のためのアルコールを必要としているのか、それはさしあたり不明であるとしておこう。イーサン・ホークEthan Hawke演じる兵士は、やがて駅を出て街道を歩くことになるが、このとき彼の周囲に人影は見当たらない。やはり、これも「コロナ禍」を思わせぬでもない。日本においては、2020年4月から5月の約2か月間でよく見られた、緊急事態宣言の発出に伴う外出自粛下における街のように、あたりは静まり返っている。物語はしかし、「コロナ禍」を思わせる事態とは、一見なんの関係もなく進むかのように見える。テロの危機にさらされたヴァチカンを兵士であるイーサン・ホークらが守る、あるいは事態にしかるべく対処することにすぎない。だが、物語はあくまで映画を映画として成り立たせる最低限の要素として保持しているにすぎず、滑らかなナラティヴははじめから無視されているかのようだ。では、『ゼロズ・アンド・ワンズ』(Zeros and Ones,2021)は何を語っているというのか。

 アベル・フェラーラAbel Ferrara監督の近作『トマソ』(Tommaso,2019)や『シベリア』(Siberia,2019)がそうであったように、この『ゼロズ・アンド・ワンズ』もある種の心象風景のドラマ化ということができる。現在の、実際の「コロナ禍」を経た上での心象風景、それはそのような状況との内省的な闘争ということができる。そうであるとするならば、ヴァチカンを襲わんとするテロリストたちは、あの感染症そのもののカリカチュアということができるかもしれない。そして、このとき、テロリストのひとりを、兵士を演じるイーサン・ホーク自身が演じていることにも注目すべきなのかもしれない(つまりはひとり二役ということだ)。実際この感染症というやつは、防止・予防に努めてなお自らがキャリアーとなり、それを広めてしまう可能性がないとはいえない、厄介この上ない不可視の脅威ではあるが、はたして本当にその脅威を意味しているのかどうか、答えは映画の中にはない。

 映画が終わるとき、夜が明け、ひとびとが街に現れる。そのとき彼ら/彼女らの口元にマスクはない。現実の脅威は去ったというのだろうか。そうではない。最初に、この映画は列車の到着でもの語られはじめると書いたが、映画のファースト・ショットはそのような画面ではない。映画は、イーサン・ホークが自身としてキャメラに向かって話すことからはじまるし、まるでスーパーヒーロー映画のようにエンドクレジットのあとにもショットがあり、ここでもイーサン・ホークがキャメラに向かって語りかけている。このふたつのショットで映画を挟むことによって、映画はあくまで演じられた世界にほかならぬことを宣言しているといってよい。演じられた世界での闘争の結果が現実に穿孔することなどあるというのだろうか。あくまで内省的な闘争の表象として『ゼロズ・アンド・ワンズ』は存在しているにすぎぬ。この演じられた世界、つまりその虚構性は、たとえばヴァチカンを襲う爆破シーンにも見ることができる。いまやVFXである程度のリアリティをもって描くことも不可能ではないにもかかわらず、ここで描かれる爆破シーンは、まるでVFXで作られたものであることを自ら暴露するかのような安っぽさだ。

 いまや、アベル・フェラーラ監督による『ゼロズ・アンド・ワンズ』のもっとも挑戦的で冒険的な試みについて語らねばならない。もちろんそれは、現実の「コロナ禍」を反映していることではない。そうではなく、このコロナ時代の演じられた世界を映し出すデジタル撮影の画面の驚くべき暗さである(共犯者ショーン・プライス・ウィリアムズSean Price Williams!)。フィルムのなまめかしさとはことなるざらついたデジタルの画面は、どの程度まで少ない光量でデジタル撮影が成り立つかという試みのように思える。コロナ時代の演じられた世界を映す非官能的な不可視の画面に目を凝らすこと、ざらついた暗闇の中で、身体の震えや切実な息遣いを見逃したり聞き逃したりしないことが、困難な世界に立ち向かうことにほかならないと、アベル・フェラーラは呟いているかのようだ。

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