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プレ=コード的な、あまりにプレ=コード的な――ロバート・フローレー監督『スマーティ』(Smarty,1934)

 おそらく私は、この映画の面白さを充分には感じ得ていないと思う。拙いヒアリングしかできない私の耳では、会話の可笑しみを感じ取るには至っていないだろう。視覚的には、おそらくスタジオ内ですべてを撮影したであろうと思われ屋内場面ばかりであるし、ライティングに凝ったところも認められない。だが、このプレ=コード的な、あまりにプレ=コード的な映画に触れぬことには、プレ=コード・フィルムについて触れたことにはならないのではないかとさえ思われもするのである。


 ジョーン・ブロンデルJoan Blondellは、ウォーレン・ウィリアムWarren Williamと結婚生活を送っているが、穏やかさとは遠い生活ぶりである。というのも、ジョーン・ブロンデルは、まるでウォーレン・ウィリアムをからかうことを結婚生活に必須のコードであるかのように振る舞っているからである。ある日それがある一線を越えてしまったのだろう、ウォーレン・ウィリアムは思わずジョーン・ブロンデルを平手打ちしてしまう。ウィリアム・A・ウェルマンWilliam A. Wellman監督による『民衆の敵』(The Public Enemy,1931)の「グレープフルーツのシーン」に代表される、男性による女性への暴行シーンであるが、これが引き金となり、ジョーン・ブロンデルとウォーレン・ウィリアムとはその夫婦生活に終止符を打つことになる。その後、ジョーン・ブロンデルは、弁護士のエドワード・エヴェレット・ホートンEdward Everett Hortonと結婚することになるが、ウォーレン・ウィリアムを誘惑すべく露出の多いドレスを身にまといパーティを開催することとなる。そしてこの映画を観続けるわれわれは、平手打ちがどこかでまた起こるだろうと確信している。その確信は裏切られることはない。確かに平手打ちは繰り返され、またもや夫婦生活に終止符を打つことになるが、この平手打ちが、説話的に関係性の破綻という形で機能するかといえばそうではない。それを知るためには、三度目の平手打ちを見届けねばならない。だが、この三度目の平手打ちのあとのジョーン・ブロンデルのセクシャルというよりはエロティシズムあふれる表情のなまめかしさと、その後のラストカットの暗示は、プロダクション・コード下ではぎりぎりの表現であったと思うし、実際このような暗示は、翌年には許されないものになっている。このような男性から女性への暴行、過剰にセクシャルな暗示といったものは、プレ=コード・フィルムを特徴づける演出とされる。


 とはいえ、これは循環論法に陥っているといわざるをえない。われわれがプレ=コード的という言葉を使うとき、そこにはプレ=コード・フィルムとはどのような特徴が見られる映画であるかその定義を前提としていなければ取り出すことができない特色において判断しているからである。ゆえにプレ=コード・フィルムとはきわめて曖昧なものである。だが、曖昧なジャンルの誘惑というのが映画には存在する。『スマーティ』にもそのような誘惑が宿っているのである。


 ところで、『スマーティ』は、日本公開が今もってないため、邦題が存在していない。もともとの『Smarty』というタイトルはジョーン・ブロンデルの役柄を表しているが、適切な訳語が思いつかなかったので、原題のカタカナ表記に落ち着いた。


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