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「遊びと素粒子と慈悲」(2019年10月)

●10月4日/4th Oct
7日間の山中での瞑想行を終えて銭壺山を下りる。
人に「まなざしのデザイン」などを説いているが、己のまなざしを整えることが最も大切だと知っている。だからこうして集中的に瞑想する時間を最優先させて、年のスケジュールを立てねばならない。
「まなざしのデザイン」の一つのアプローチは瞑想であると言ってもいいが、瞑想とは目をつむってじっと座っていることではない。事実をありのままに観察することであり、己という生命の真実を観察することである。その事を身を以て改めて意識する。
我々は世界を見たいように見ていて、ありのままには見ていない。同様に自分自身についても都合のよい部分しか見ようとしない。しかし生きるということは、そう都合よくは出来てはいない。
瞑想することは自分の都合を外して真実を見ることへのプロセスだ。その道のりで自分が見たくなかったものと向き合わねばならない時がやってくる。生きること、生命の真実を探求することとは、そうした矛盾に気づくことだ。
科学者や医者は外から生命を観察する。だが生きることはどういうことなのかを、本当に探求しようとすると、生きている自らの身体で確かめねばならない。しかしそれを身を以て実践する者は科学者の中には多くはいない。一部の芸術家がそれに似たチャレンジへと踏み出すが、その多くは表現することに固執して歩みを止めてしまう。
見たいものに囚われ、それ以外に目を向けないでいると、自分が見ているものと事実との乖離がどんどん進む。そしていつか突然崩壊する時を迎えて、なすすべがなくなる時まで気がつかない。その最も分かりやすいのが「死」の今際かもしれない。全人類がほぼ全員陥っている、"生きる"ということのカラクリに僕らは気づけるのだろうか。
想像力が過剰な我々人類は、事実にありのままのまなざしを向けることが難しい。そしてその傾向さ今世紀に入ってますます加速している。問題を直視せずに、見たいものだけを見たいようにこのまま見ていると、そう遠くない未来に終わりを迎えそうだ。
僕が「まなざしのデザイン」の講演で伝えたいメッセージとは、人のまなざしをデザインすることに本質があるわけではない。話の前半や本の入口では、人のまなざしがいかに騙されやすいかを説明して、敢えて欲望や期待を煽るように話をする。しかしその部分にだけに反応して、人のまなざしをデザインしたいと思うのは、欲と自我を増長させる愚かなことだ。
自分のまなざしは自分でデザインせねばならない。そしてデザインである以上、美しくあらねばならない。そのことの大切さを説いているだけだが、それは本来は当たり前のことなのかもしれない。しかし我々は愚かなものなので、それをすぐに忘れて道を間違える。だから戒めも含めて自らも瞑想と修行を続けることが必要だ。
7日間に命を支えてくれた全ての方々、生命のネットワークに心より感謝を。生きとし生きるものが幸せでありますように。

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●10月5日/5th Oct
本日から2日間はマネジメント学類のハナムラゼミの学生たちとフィールドワーク。現在開催中の瀬戸内国際芸術祭を巡り、直島や犬島などを訪れる。全て学生達が旅程や予約などをマネジメントすることだけでなく、地域と芸術との関わりのアートマネジメントについて一緒に考えていく。岡山駅からスタート。

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●10月6日/6th Oct
瀬戸内国際芸術祭のフィールドワーク1日目終了。直島で地中美術館や家プロジェクトなどいくつかの作品を巡り、再び岡山へ。
アートなど一度も触れたことのない学生たちに、作品や建築の見方を解説しながら旅する。まなざしが随分と変わってきたようで、最後の方には自分なりの見方が出来るようになってきた。
アートそのものを味わって見ることも必要だが、それを通じて、この美しい自然を見るフレームを養って欲しい。
これまで見過ごしていた周囲の見方、環境の見方、世界の見方を豊かにして、次の世界に慈しみを傾けるような人に育っていく事を願っている。

●10月6日/6th Oct
ハナムラゼミのフィールドワークを終えて、学生たちと別れる。僕らはこれから博多へ。
本日は犬島精錬所美術館へ訪れた。本日は課題を与えてフィールドワークさせたので、昨日の旅行モードとは少し違う面持ちになっていた。
特に、犬島で育ちここで地元ボランティアガイドとして活動される次田さんのお話を聞いている時の学生の目は真剣だった。
今の学生たちからすると、87歳の彼女は曾祖母ぐらいの年齢かもしれない。しかし戦争を通り抜け、モノが無かった時代に自然を相手に培ってきた彼女の智恵とリアルな言葉は、今の何でも手に入る、一見「自由」に見える社会の矛盾を鋭く突いている。1人の人間が嘘のない言葉で懸命に語る姿は学生の中の何かを動かしたに違いない。
次田さんの力強いメッセージこそ今の学生に本当に必要な事であり、僕の言いたいことをほとんど全て代弁してくれている姿に、年甲斐もなく人前で涙が溢れるのを堪えきれなかった。
創造性や智恵とはメソッドやノウハウなどでは培われない。そして学ぶ態度や創意工夫するのに年齢は全く関係ない。彼女はボランティアガイドをするにあたりどれほど勉強し、伝える工夫を日々重ねているか。その生きるアティテュードに触れるだけで、つまらない僕の一年分の講義よりもよっぽど意味がある。
色んな想いを胸に、これから博多へ向かう。明日の九州大学での講演の前に、犬島に来れて本当に良かった。

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●10月6日/6th Oct
博多に到着。駅ビルの紀伊国屋書店で「まなざしのデザイン」を発見。ISBNの仕訳でデザインコーナーに置かれているのは仕方ないが、届けたい相手はここのコーナーに来ない人なんだよね。それが最大の難点。

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●10月7日/7th Oct
本日16:30より、九州大学芸術工学府DESIGN FUTURESの「デザイン基礎学セミナー」+人間環境学府多分野連携プログラム「遊びと洗練」にて、「まなざしのデザイン」の講演を致します。
福岡での講演は2年ぶりですが、福岡はいつ来ても大好きな街です。少しずつ増えてきた知り合いの方々との再会も楽しみですし、新しい方とお知り合いになれるのも楽しみ。
講演では毎回のように同じメッセージですが、今回は御招き頂いた人類学者の飯嶋秀治先生や哲学者の古賀徹先生たちとのディスカッションもありますので、むしろそちらがメインです。
入場無料、予約不要ですので、まだお聞きになったことの無い方は是非会場でお会いしましょう。
どうぞよろしくお願いしますー。
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●10月7日/7th Oct
これから九州大学の芸術工学府で「まなざしのデザイン」の講演。講演後のディスカッションが楽しみ。色んな方々とお会い出来る機会になりそう。

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●10月8日/8th Oct
九州大学芸術工学府のデザイン基礎学セミナーでの講演終了。桃原さんや尾形さん、神尾くんや大久保さんとも再会し、忙しいはずの田村さんまで駆けつけてくれた。その他にも会場には学生よりも大学の教員の皆様や社会人の方々の姿が多く見受けられ、質問もびっくりするぐらいたくさん頂いた。先月の東京でのFRJ2019で講演をお聴きになられた方が再度聴きに来られていたのも印象的だった。
講演よりもその後の哲学の古賀徹先生、人類学の飯嶋秀治先生、環境心理学の南博文先生、教育哲学の藤田雄飛先生とのディスカッションが非常に刺激的だった。
いつも講演では、直前にスライド一枚あたりのセリフの分量を秒単位でチューニングするというアスリートのような事をしている。しかし今回は7日間の瞑想行で、自分の知覚がスローモーションになっているみたいで、速度管理がうまくいかなかった。今日のセリフの速度はいつもの1.3倍ぐらいの時間がかかっている感覚。しかし途中で少しつまんでタイムラップで290秒押しぐらいで何とか収めた。
今日はさすがに研究者が多かったので質問がかなりハイレベル。しかも最後の1/3で話す風景異化論からデザインとアート、解体と構築、無意識、宗教と芸術、生命表象学の宇宙ダイアグラムの理論的な所への質問が集中した。飯嶋先生からはこの最後のパートがなければデザイン領域の方々には響きが良いだろうが、ここがあるから良いとコメント頂いたので、一応話して良かったのかと。
たくさん飛び交った質問とコメントの中でいくつか印象的なものを整理すると...。僕の取り組みはベイトソンの「精神の生態学」的な視点があるが、そうしたフィールドの中で思考するコツはどのように鍛えうるのか。またどのようにして現場で創造するのかという、クリエイティビティに関するもの。
見たいものから外れてまなざしを外に向ける時のエネルギーはどのように持つのか、またどうしてもまなざしが変わらない相手に出会った時の処しかたといった、まなざしのデザインの技法に関するもの。
まなざしの構築と解体のサイクルの中で、自分の意識の範囲外にある社会的無意識からの影響を意識したり、解体することをどう考えるのかといった、無意識に関するもの。
これらにそれぞれ答えて行くが、いずれにしても共通するのが、「自我」をどのように捉えるのかということに尽きる。その事をそれぞれの質問へ違う言葉で回答する。
一つ目の回答には自我を外してニュートラルに見たときに、その場でのクリエイティビティは発揮される。二つ目の回答は相手が変わらないという、自分のまなざしが固定していることに気付けるかどうか。相手の自我を変えることは出来ず、自分の自我のあり方の変化を発見することで間接的に変えることしか我々には出来ない。三つ目はそもそも固定した自我などというものはなく、無数の自我があるに過ぎないことに気づくと固定観念から外れる。
そんな感じで自我を中心に回答していった。
気がつけば終了時間で、その後にも個別に質疑に来られる方々ともお話し出来た。二次会でも議論は続き、病院のインスタレーションの苦労話や弱さの持つ吸引力、やりたいことを捨てた時にやるべきことが見えてくる話などを思いつくままにした。
僕にとっても知的刺激がたくさんある、非常に良い会だった。飯嶋先生の取り持って頂いたご縁のおかげで、非常に知的で刺激的に時間を頂けたことに心より感謝。

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●10月8日/8th Oct
昨日の講演で後一つ印象的だったのが、想定内だったが、デザインとアートの違いについての質問・コメント。
デザインがソリューションを指向して、アートはクエスチョンを指向するという僕の説明に対して、「デザイナーもクエスチョンに踏み出している」という反応だったと受け止めた。
久々のデザイン系の方々への講演だったが、おそらくここはセンシティブに来るだろうと思っていたが予想通りの反応。これが少し前にやったアート系の方々の前だと真逆になり、「アートを問題解決の道具に使うな」という反応になることもある。いずれにせよ言葉やカテゴリーに皆さんがこだわりをお持ちということが伝わる。それ以上にデザインやアートというカテゴリーが、ご自身のアイデンティティになっているようにも見えた。
僕自身はデザインとアートのどちらに属しているのかというアイデンティティ問題は特にないので、呼称にこだわりはない。デザイナーがアート作品を作ることもあれば、アーティストがデザイン表現をすることもあると思っている。だが表現の出発点となるモチベーションの違いがデザインとアートの間にあるのではないかというように観察している。
拙著の7章で詳しく書いたので、昨日は多くは語らなかったが、デザインとアートの指向性の違いについては、その特性の違いを意識した上でどのように統合していくのかに、僕自身の関心は向いている。
確かにここ最近はアーティストが街に入って問題解決をしたり、デザイナーが発注仕様に疑いを立て問題そのものは何かを探ることも増えてきて、両者の境界が溶け始めている。それは良いことなのだが、表現行為のモチベーションの出発点がそもそも異なると僕は認識している。
デザインは概して最終的に人にとっての何か有用な表現をすることを指向することが多いように思える。誰にとっても役に立たないゴミになる可能性があるものをデザインして作ろうとは思わないし、自我を強烈に表現したいというモチベーションも薄い。目的と性能に基づいたソリューションを粛々と出して行くことがデザインの必要十分と考える。
それに対してアートは有用性のあるものを作ろうというモチベーションから始まらないように思える。画家が絵を描くモチベーションは問題を解決するということではなく、描きたいというリビドーから来る。その表現は究極的には誰に認められなくても、誰から依頼をされなくても自分のために捧げられているのではないか。アイデンティティをかけた表現実験が功を奏せば、それが人間の実存や社会の矛盾を浮き彫りにするクエスチョンになることもある。でも必ずしもそれを目指すわけではない。
その両者の特性の違いを認識した上で、それぞれの役割があるだろうということは意識している。だからデザイン系でもアート系でも、学生の課題発表に呼ばれた時に、この違いが明確に意識されずに、なし崩されているのを見て残念に思うことがある。
何か解決すべき課題が明確な場合は、妙なコンセプトをこねくり回すのではなく、しっかりと性能の高いものや新しい解決法をデザインして欲しい。逆にアートは安易な課題解決になど走らずに、もっと人間の実存や社会の矛盾を掘り下げて僕らの目を覚まして欲しい。そんなことを思ってしまうのだ。
僕の場合は自分の中に強烈な表現欲求などというものは、今のところ特に見つからないので、おそらくアート思考よりもデザイン思考の方が強い。だからアートをデザイン的に用いたいということになるのだが、アート系の一部からは反感を買うことも分かった上だ。
だが昨日は、デザイナーは逆の反応をするのかと思いながら、興味深く観察していた。あまり刺激してもいけないのと、昨日は瞑想明けもあったので、一応何となく答えておいた。
基本的に人は見たいものしか見ようとしないので、それに合わせる形で回答するが、その中に見ようとしていないことも含ませたいと願っている。

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●10月8日/8th Oct
本日は博多から引き返して、そのままマネジメント学類の「地域価値創造論」の第一回目の講義。
この講義は毎年250人を超える、マネジメント学類提供の講義では最大の受講者数。しかし今年は5コマに移動させたので81人と少なめ。

毎年の年度によって学生のタイプやクラスの雰囲気が変わるが、昨年は人数がマックスな上、非常に騒がしいクラスだった。中には講義中にトナカイの姿でクリスマスパーティーまで繰り広げる女子達も居て、本当に大学生なのかと目を疑った。

大学生にもなって学び方から教えねばならないことに愕然とするが、しかしこれも良い機会。性格が悪い僕はどうすれば彼らのまなざしをデザインして、場をクリエイティブに出来るのかの実験に使わせてもらった。

今年は少ないので、これぐらいの数になるとワークショップ的に講義が進められる。今日の最初のガイダンスで、まずは学ぶ環境を整えるためのワークを試してみた。

まず最初にワークの前提条件を作る前振りの説明。
「大学の講義とは先生と学生が一緒に作って成立する。だから講義に是非とも協力してもらえないだろうか。」

ここまでは学生も普通に聞いている。ここからワナにかけるために次に進める。
「協力出来ないという方は挙手して教えてほしい。」

しばらく待ったが、挙手する者はなし。
「OK。全員協力してくれるとのことなので、今からいくつか指示を出します。」
自分達で選択したのだから仕方ない。だがこうなると、こっちのペースで進めれる。

「01:まず携帯電話やスマホをカバンの中にしまって下さい。」
学生たちはスマホを仕舞わざる得なくなった。これで授業中にスマホを見る者は居ない。

「02:次に荷物を持って立ちましょう。そして席を前の方へ移動して独りで座って下さい。あるいは知らない人の横に座りましょう。」
群衆の力を弱らせる鉄則。それは"分断してやっつけろ"が大昔からの常套手段だ。

「03:紙と筆記用具を出してメモを取りましょう。」
彼らはメモを取らないので、そんな所から教えねばならない。スマホで調べるのはメモを取って授業後にしましょうと、すかさずジャブを打つ。

「04:次回からは授業前に必ずトイレに行っておいて下さい。授業中の出入りは禁じます。許可なき出入りは減点の対象になります。」
これで"トイレに行く"という理由は封じた。

「05:次が最も重要です。授業中の私語を禁じます。言葉を発するのは質問とか意見とか授業に参加する時だけにしましょう。私語は周りに迷惑になるので、もし見つけたら減点ではなく単位を失います。最後の方の回だとそれまでの受講が全て無駄になってしまいます。そんな悲しいことは僕も避けたいです。」
あくまで悲しそうに言うのがポイント。泣く演技までは必要ないが、悲しみを演じるのは得意な方だ。

「06:授業中に不本意に眠ってしまうこともあります。その時は隣か後ろの人が静かに揺り起こしてあげましょう。三度揺すっても起きない時は放っておいて下さい。」
色んな事情があるだろう。だから授業の邪魔にならないなら授業時間の過ごし方は自由にしようと。
だがその次のワークで、そのまなざしをひっくり返す。

スライドに"¥1,800"と映して学生たちに訊ねる。
「¥1,800あるとしたら何をしますか?」
マイクを回して応えさせる。"映画に行く"、
"美味しいものを食べる"、"アクセサリーを買う"など、色んな答えが出てくる。

「この金額は一コマの授業で皆さんが支払っている額です。丸々眠ると90分の睡眠に¥1,800支払ったことになります。」
呆然とする学生たち。授業後のコメントシートには"これまでの授業を無駄にした自分を悔やんだ"などという意見もあったので、相当ショックだったのだろう。

学ぶ環境を整える導入のワークから、地域や価値とは何かを考えるワークへと移行する。この講義は地域価値創造論で、本年は哲学者の原先生、実業家の谷垣先生とともに担当する。こんな豪華な布陣はないので心して聞くようにと価値づける。

その後、"地域とはどこを指すのか?"、"価値とは何か?"を畳み掛けるように学生たちに問いかける。学生たちはこれまで考えたことのなかった問いかけに頭も心も翻弄される。当たり前に知っていると思っていた言葉が単純な問いで解体されていく。こうなればもう完全にイニシアチブはこちらにある。

これから社会は急変し、これまでの価値観が通用しなくなること。今の社会がいかに危ないかということ。狡猾な大人たちが世界を無茶苦茶にしようとしていること。智恵を身につけないと生き残れないこと。自分のことだけでなく誰かを自由にするために学ぶこと。そして多くの人が税金を君たちに投資をしていること。それがどれほど幸運であるかということ。そんな想定外の問いを次々と差し込んで行く。

授業の終わりまでほとんどの学生たちはピシッとしていた。終了後のコメントシートには"こんなに考えた授業は無かったので、今日の授業に価値を感じた"という意見もあり、まずまずの実験結果だったとニヤリ。

彼らは学ぶ前に、まず学ぶ環境を作ってあげないといけない。そうすると学ぶ心は育つものだ。大講義を持つ大学教員の皆様にもご参考にして頂ければ幸い。
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●10月9日/9th Oct
来週からの撮影に向けてメイクテストと衣装合わせ。画像19

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●10月10日/10th Oct
今日は朝一番から堺市の五箇所小学校に訪れる。堺市芸術文化審議員をしているので、事業評価のための視察。
堺では「堺・アセアンウィーク」という企画が2009年から行われており、今年で11回目を迎える。この期間にASEAN10ヶ国と堺市との交流を深める様々な催しがあり、市役所での写真展や映画上映、イベントや大学間交流なども行われている。
そのプログラムの一つとして、7ヶ国から14名の大学生がやってきて民間大使として小学校で授業をする。
本日の五箇所小学校にはラオス国立大学の日本語を専攻する学生2人。小学生相手にラオスを紹介するのだが、日本語がとっても上手で外見も日本人に近いため、一見見分けがつかない。
プレゼンテーションも踊りも上手で、小学生たちとのコミュニケーションを巧みに日本語で取っていた。自らの意思で楽しんで工夫して盛り上げる彼女たちに、ラオスの学生の知恵と文化度の高さの一端を感じた。
一昨日前の大学での講義を考えると、果たして日本の大学生が、逆に向こうで同じことが出来るのだろうか...との想いがよぎる。
大学教育では既に遅い可能性があるが、昨今を騒がせる小学校の教員のニュースを見ると、今の初等教育のあり方でも知恵が育てられるのは難しそうだとの印象を持つ。
学力も大事だが、小さい頃からなぜ学力が大事なのか、なぜ知恵を持って生きるべきなのかを考える精神性を身につけておくことの方がよほど大切だ。仏教国のラオスは、それを宗教が担保している。今でも出家した僧侶を本当に大切にするし、小さい頃から仏陀の知恵と共にある。それが生活文化や精神性の奥底に根付いているのも、彼女たちが創意工夫する知恵を持つ、一つの理由だろうと推測する。
政教分離の中で宗教から教育へのアプローチが公的には難しい日本では、その精神性を培う役割に芸術があるかもしれないと前々から思っている。だから堺市の芸術文化審議会では芸術の教育方面への展開を僕からもずっと唱えているが、日本の教育は変わるだろうか。芸術表現を提供する側はちゃんと知恵を持てているのだろうか。それがないと遠くない未来に、こうしてASEAN諸国から僕らに知恵を伝えに来てもらわないといけないことになるだろう。

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●10月10日/10th Oct
夜は我が相棒のアニメーター吉田徹と一緒に次の撮影を絵コンテで確認する。今回セリフも音録りもない分、撮影は随分ラクになるとはいえ、カメラワーク的にかなりチャレンジングなことをする。想像上は動けても物理空間ではカメラワークが出来ない可能性もあるため、コンテ上でシミュレーションしておく。台風だけが心配。
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●10月11日/11th Oct
ハナムラはWireless Wire Newsで「ネガティヴの経済学」という新しい連載を始めます。現在連載中の「五十年後の宇宙船地球号」とパラレルに進むことになりそうです。
僕が数年前に経済学研究科に来たのは何かの縁だが、現代のすべての問題に共通するのは経済の問題。そしてその前提となる我々のマインドの問題だ。
地球環境のクライシスの問題はテクノロジーの問題ではない。どのようなシステムやテクノロジーが生まれても、前提となるマインドが間違っていれば全てを間違える。
全くの素人だった経済について色々と知る中で、今の経済に先立つマインドの指向性に問題があると確信しつつある。
ポジティブ方向に向くことを信じて疑わない我々の意識の盲点。遠離していく生き方。マイナスのデザイン。そんな可能性をこの連載で考えてみたい。

●10月12日/12th Oct
台風の中だが明日の撮影に向けてカメラテスト。役者抜きで動きとカメラワークとの確認するが、いい感じで動きが整理できたので、明日は役者入りで本番に臨む。僕のパートだけ別撮り出来るように脚本上で調整したのでそこはゆっくり撮れるが、かなりなズームなのでミリ単位でのフォーカスと構図の調整が必要。技術サイドの課題が多いのでロケ入り前にシミュレーションしておく。明日は台風が通り抜けていることを祈る。画像23

●10月13日/13th Oct
ひとまず京都での撮影の半分が終了。スタッフの皆様、キャストの皆様、ロケ地の皆様、本当にありがとうございました
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●10月16日/16th Oct
11月17日に大阪の江之子島文化芸術創造センター(enoco)にて「まなざしのデザイン」の講演致します。大阪での講演は本当に久しぶりです。
11/12ー17にenoco にて開催中の『HOSPITAL ART in GALLRY II 』 の一環として最終日の講演として御招き頂きました。
期間中はenoco の4階に『おとなの病室』と『こどもの病室』の2室で、17名の作家さんの展示も企画されているようです。
要予約の30名限定のようですが、もしハナムラの話を聞いたことない方で、ご関心ある方居られれば、是非ご参加頂ければ幸いです。

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●10月17日/17th Oct
本日は「地域文化学」の講義で1コマだけ本学で講演。公開講座なので学生300名、一般人の受講生450名の総勢750名。流石にこの人数だと、うちの大学では一番大きなホールになる。
2000人の舞台はやったことあるが、さすがにこれぐらいになると一人一人の顔を見ながらではなく、ホール全体の空気に働きかける技術が必要になる。
色んなところで話させていただいているが、うちの大学の学生に聞かせる機会はそれほど多くないなと改めて。
一般人の受講生はご高齢の方々が多かったが、90分熱心に聞いていた様子。また学生からもまずまずの声があったと聞いたので良かった。

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●10月19日/19th Oct
美術と小道具の制作。我が相棒のアニメーター吉田徹だけでなく、日本画の吉岡先生も巻き込んでしまった。キャストも着々と決まってきているが、カメラテストで動きも入念に構築したので、あとは本番の撮影現場でどこまで演出付けれるかが勝負。

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●10月19日/19th Oct
本日は経済学研究科の社会人大学院生の修士論文の中間発表で指導の日。本年度は6名が修了を目指して研究を進めている。それぞれバラバラのテーマの研究発表を、こちらはほぼ初見で見て、研究目的、研究手法、分析結果、考察、結論の間に論理的矛盾がないかを瞬時に掴んで、指摘せねばならない。そこにはその学生が人間的に好きとか嫌いとかそんな見解を挟む余地はどこにもない。
毎年数多くの学生を見ていて思うのは、研究にも「アイデンティティの罠」が潜んでいることだ。
研究というのは本来「知りたいこと」があるからするものだと思っている。
だが、社会人の指導が難しいのは、「言いたいこと」が先にあって研究を進める傾向があること。それだと先に答えがあって、その答えに当てはめるように物事を見るので、まなざしが曇りがちだ。
自分の見方をアップデートするのが難しい人は、発表態度に現れるので、分かりやすい。
なぜなら、自分のことを説明するのに心を砕いて、こちらが何を言おうとしているのかをよく聞いていないからだ。自分の主張とアイデンティティを切り離して考えられない人は、違う角度からの指摘に対して、攻撃されていると受け止めがちだ。
そうなると、その方の反論はまるで論理的ではなくなるので、その時点でこちらからのアドバイスはストップせざるを得ない。それは非常に勿体ない上にそういうスタンスだと実は研究が進んでいかないのが残念だが、キャリアがある社会人には結構多い。
一方で研究が進む人は、自分がこれまで考えなかったようなことや、論理的矛盾を突かれると、感謝の態度で現れる。自分の研究をさらに深くし、前に進めることが出来るからだ。耳の痛い指摘ほどよく聞こうとする。
中には表面的な振舞いでは聞いているフリをする器用な人も居るが、いずれにせよ結果として後に研究は進まないことが多い。
もちろん論文指導を離れると、論理的な事だけが全てではないのは当たり前だ。人は論理だけでは支えられないからだ。だが、大学院に来て論理力を鍛えたいというのであれば、一旦アイデンティティとしての自分の想いを手放さねばならない場合がある。それが人には一番難しいのかもしれないが。

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●10月20日/20th Oct
夜明けと夕暮れ
毎日二回訪れるほんの束の間だが劇的な時間
その時に地球の回転が意識に浮かび上がる
地上の速度と上空の速度のコントラスト
地上は速く動き空は遅く見えるが本当は逆だ
回転の中心から離れる方が移動距離は大きい
近くの風景は速く過ぎ去り
遠くの風景はゆっくりに見える
自分を中心にすると真実が見えなくなる
一日にたった二回だけでいい
じっくり空を見上げる時間をもたないだろうか
地球の回転を感じることに時間を捧げないか
世界中の全ての人がその時間を持つ時
地球への意識は途切れることなく
全世界を常に巡り続けるだろう
世界の平和を本当に願うのならば
テクノロジーやシステムだけでなく
日々の己のまなざしが平和であるように
自分一人の心の中が平和でないのに
どうして世界が平和になるのだろうか
それを忘れないように空を見上げよう

●10月21日/21th Oct
先日、九州大学のデザイン基礎学セミナー・人間環境学府多分野連携プログラム「遊びと洗練」にお呼び頂いてお話しした講演の様子をウェブにアップして頂いたご連絡頂く。
僕自身が山での瞑想明けで、講演後の後の質疑応答は多分に哲学的な方向に触れたが、デザイン系が中心の来場者にも何か響いたようで嬉しい限り。
古賀徹先生が記事の文章をしたためられているが、まなざしのデザインを哲学から読み解くとこうなるのかと、その洞察力に学びが大きい。自我の話はたくさんしたが、罪からの救済という観点に結びつくとは発見だった。
古賀先生の名文を是非。

●10月22日/22th Oct
ちょっと前に、Wireless Wire Newsに不定期で連載している「五十年後の宇宙船地球号」の新しい記事をアップしていただいていたが、シェアするのを忘れていた。
Wireless Wire Newsには「ネガティブの経済学」という連載も始めることにしたので、そちらと合わせてどうぞ。

●10月23日/23th Oct
朝から京都の錦市場で撮影。キャストの皆さんも本日が初めて顔合わせだが、今回の撮影は全員のチームワークが非常に重要なので入念にリハーサルを行う。
リハ毎に全員でモニターに集まりラッシュ映像を確認しながら、動きを詰めていく。
一人でもタイミングがズレると撮り直しになるのだが、みなさんの動きのテンポがだんだん揃って来て、予定よりかなり早く撮り終わる。
キャストの皆さま、そして多大な労力を傾けてくれたテクニカルスタッフ、制作スタッフの皆さまに心より感謝。
Today, from the morning we were shooting in Nishiki Ichiba in Kyoto. It is the first time that all cast gather in one location. However it is most important to synchronize the timing of all casts. So we did rehearsal many times.
Every after rehearsal, we gathered in front of monitor to check our movement and improved it. If someone missed the timing, we have to take another shot from the beginning. But step by step, their movements were improving. So it finished very earlier.
I appreciate all cast , technical staffs and management staffs.

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●10月26日/26th Oct
今から京都大学のシンポジウム。
「未来創生学の展望」に登壇。
京大時計台記念館の前に何故か孔雀がいたので、少し話してみる。人間はなんでそんなに小難しく考えたりするんだろう、ただ仲良くすればいいのにね。だって。
シンポ前に孔雀に一本取られるとは...

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●10月26日/26th Oct
本日は京都大学で「未来創生学の展望」という国際シンポジウムに登壇。京大基礎物理学研究所の開催だが、こういう場にハナムラの研究実践のようなものを位置づけてもらえるのは光栄。
登壇者の学問領域はかなり幅広く、三重県総合博物館の大野館長の”5万年前の人類の意識の芽生え”から話が始まり、二つの基調講演へ続く。一人目は「いかにすれば、世界は持続可能になるのか」というタイトルで、アリゾナ州立大学のサンデル教授の話。二人目は「脳機能の不思議に迫る」というタイトルで、フランスの脳機能画像解析研究所のビハン所長。
続いて湯川秀樹のノーベル賞70周年に寄せての講演として三人の先生方。一人目は「湯川秀樹 中間子論の展開」として京大基礎物理学研究所の青木所長。二人目は「宇宙創生の謎」として東大カブリ数物連携宇宙研究機構の佐々木副機構長。三人目は「生命現象の統一理論」として京大基礎物理学研究所の村瀬先生。
その後のパネルディスカッションで、物理学、医学、哲学などの先生方や工学研究科の富田先生、京都市立芸大の辰巳先生などに加わり、ハナムラも登壇する。事前打ち合わせは0。初めましてで大野先生、八木先生のコーディネートでいきなり討論に入る。
テーマは「知の越境による"癒し"のイノベーション」。何を聞かれるのかも分からず始まるが、こうした異種格闘技戦は得意なので、個人的にはとても楽しめた。
僕自身が「まなざしのデザイン」の中で言う、”主体の見方によって風景というのは変化する”という、いつもの話。実はその射程範囲として、"観察者の存在が観察対象に影響する”という「量子力学」の話まで見据えている。自分の本の後書きには書いたが、普段の講演ではそんな話をしても理解されないので、あえてセーブしている。
だが、物理学をベースにした今日の場では遠慮なく話せるので、そのあたりも含めて最初から飛ばして話する。スライドが封印されていた中だったが、ディスカッションが非言語コミュニケーションの重要性の話になってきたので、途中でインスタレーションの映像を見せて、非言語のチカラを語った。
「癒し」というテーマについては、自己イメージの危機が今のストレス社会を生んでいることを指摘して、自己に対して新たな想像力を持つことが現代では癒しになるだろうと話した。奇しくもその僕の言葉でシンポ全体の締めくくりになってしまった。
京都大学ぐらいになると流石にこうしたすぐに結論の出ないようなディスカッションをする懐がある場もあるのだと実感。昨今はやれすぐに成果を出せとか、すぐに社会問題に役に立つものをイノベートせよとか、単純化された問題に対する解や効能みたいなものを要求される。その前に「社会とは?」「問題とは?」「役立つとは?」を深めないのにどうして答えが出せるのだろうか。
今日は自分の講演ではなく、パネラーだったので問われるままに好き勝手に答えたが、後ほど色んな方々が話しかけてこられたので、何か伝わったようで嬉しい。
やっぱりシンポジウム前に孔雀と話して色々と教えてもらったのがよかったか。今日出会えた皆様と生きとし生きるものに感謝。

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●10月28日/28th Oct
本日は朝から日没まで吉野の金峯山寺で撮影。
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●10月28日/28th Oct
吉野の金峯山寺での撮影が何とか終了。なかなかタイムマネジメントが厳しかったが、スタッフとキャストの皆さんの頑張りで、何とか良い画が撮れたのではないかと。
今回はキャストが直前でキャンセルしたりするトラブルもあったので、土壇場まで色々と決まらなかった。ただ結果として、良いバランスになったのではないかと。
これで一応、ロケ撮影は全て終了。いくつか追撮が入る予定だが、独立してカット切れるものなので少しは気が楽にはなる。
たかが数十秒の映像にもかかわらず、ロケ地の金峯山寺の皆様の協力で、ここまでこだわらせてもらえたのは本望。スタッフ、キャスト、制作そして金峯山寺の皆様をはじめ、一切の生きとし生けるものに感謝を。

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●10月29日/29th Oct
引力と斥力、牽引と反撥、収縮と膨張の分極性は物理学の基本ではあり、タオはじめ古代の思想の中にもあるが、ゲーテが面白いのは、そこに「上昇」の概念を入れたことかもしれない。
そう考えると、先般したためた「ポジティブの罠」という論考に追記せねばならないことが出てくる。いずれやる仕事として覚えておく。
「しかし実はこの「ポジティブへのまなざし」こそが、今の社会の様々な問題を生んでいる可能性がないとは言い切れない。ここで考えてみたいのは、ポジティブとネガティブという言葉に対して、私たちが無意識に結びつけている価値判断だ。ポジティブは良いことで、ネガティブは悪いこと。普通はそう考えるかもしれない。確かに私たちの意識の中には、ポジティブは喜ばしいことで、ネガティブはダメなことであるという価値判断が刷り込まれている。「ポジティブ=善」「ネガティブ=悪」という図式はなぜ私たちの無意識の下敷きになっているのだろうか。ポジティブとネガティブとは単なる二つの性質の違いに過ぎないのに、それらを単純に善悪に結びつけてしまうことが、そもそも間違いなのではないだろうか。そんなことを考えてみたいと思っている。」

●10月29日/29th Oct
先日の京大でのシンポジウムでのディスカッションで面白かったのは、素粒子論の中でも、まだ重力とは何かがはっきりと解明されていないという専門家の見解だ。
僕はバックミンスターフラーが言うように、”重力とは愛である"という解釈が個人的には好きで、重力という愛がなければ我々は地球にはとどまれない。
しかし仏教的には愛ではなく慈悲を持つことが推奨されている。確かに感覚的には慈悲は重力ではないんだよな。

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