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「不足」を疑ってみる〜100年後の視点

note14日め。

最近は眠る前、夜中に書いている。
日記でもブログでも こうしてなにか思いを書かないと、一日が締まった気がしない。


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YouTubeで聴いた「不足を疑う」という話が気に入って、
ちょくちょく脳内でやっていた。

有史から人は、当たり前のように
「不足している」という観念を
アタマの中で作り出し、自ら苦しんでいる。

お金、恋愛、才能、対人関係について、
容姿について、持ち物について、、、

それが、寸分の狂いもない、
間違いないと微塵も疑わずに。

脳は、いつも使い慣れた思考、
癖づいた電気信号を繰り返すものだから
“あ、またこのお馴染みの思考回路に嵌ってる”って先ず気付くだけでも全然違う。

自分の影のようにお馴染みすぎて、
同化しすぎていて、
癖だとはなかなか分かりにくいものだから。


そのように、
自分で作り出した「不足」の観念も
実体の無い「癖」ではないか?と先ず疑ってみる。

今までは、一切疑いもしなかったのだから。


ん?この不足の知覚は ほんとうなのかな?
ほんとうに、ほんとうに???、

と、正当な理由を見つけなくてもいいから、
理論立てなくていいから、

とにかく 「疑って」みましょうよと。


やってみると面白いことに、
影に光が当たるかのように
疑ってみるだけで ソレがスッと消えてしまったりする。

おもしろい!

「足りない足りないと苦しんでるのは
アタマの中だけだった」と我に返ったりする。


今、暖かいお茶を飲み ものを食べてるじゃない。
生き、服を着、空気を吸っているじゃない。
人がいるじゃない。

一体なにが不足している?


ひとたび「疑って」みると、

理由を見つけ出そうとしなくても、
自動的に「充足」のほうにどんどん光が当たっていく。

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それにしても、この世界には

「ある」しかないんだなぁ、とフト思えた。

電柱がある。空がある。雲がある。
空気がある。草木がある。建物がある。
店がある。身体がある。自分がある。
タオルがある。お風呂がある。石鹸がある。

ある だらけだ。
びっくりするくらいに ある だらけだ。
よくぞここまで「ある」のパターンがあったなァ…と脱帽するくらいにね。


更に、最近ちょっと気に入ってた
俯瞰の仕方が「100年後の視点からみてみる」というもの。

100年後の自分(の意識)は、今の自分をどう見るだろう???


この、生きてる現象、日常の全てが愛くるしく、何気ない事まで いとおしい気持ちでいっぱいでしょう。


そこには不足の概念は微塵も無い。


あぁ、生きてた当時は なにかが足りねェ足りねェって拗らせてたけど、

それは幼児が オモチャが足りない
お菓子が足りないって言ってるようなモンだったなぁ… と 
いうように広い目でみえてきます。

あ、なんか色々全部ひっくるめて完全なんですね。


そこまでくればもう、

影はどこかに行ってしまったようです。


あらゆる不足が頭に浮かんだら、
些細なことでも
まず「疑って」みること、おためしあれ!







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