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7.1/fゆらぎと仏教

自然現象としての1/f ゆらぎを考える過程で、仏教の縁起の法を想起させるような考えに度々辿り着くことを前回までに書きました。そこで今回は仏教の教えとの関連性を考えてみましょう。

1/f ゆらぎを説明した下の図1で示されるような粒子の分裂(枝分かれ)・吸収によってできる連鎖上の粒子観測によるモデルでは、ある時刻での粒子数などからそれ以後の粒子数や枝分れの状況などを決定論的に予想することは困難です。つまりある時刻の状況が厳密に示されても、それ以後の状況を正確に予想することはできなくて、確率的にしか決めることはできないのでです。個々の(それ以上分割できない)素過程では現象を記述する方程式の解を見つけることは可能であっても、実際の現象は互いに相互作用し合う非常に多くの素過程の組み合わせでカオス的になり、その現象全体を記述する方程式は極めて複雑で事実上解を得ることは困難です。このような事情で現象の時間発展過程は確率論的にしか予測することはできません。このことは因果性が否定されているのではなく、過程が余りにも複雑なために現象の時間発展過程を決定論的に求める(正確に予測する)ことが困難だと言っているに過ぎません。この様な状況下では図1の赤丸の様な観測された現象間の関係はさらに複雑となり、個々の関係の予測はほぼ不可能で確率論的な予測しかできません。

図1Branching Process Model

この事は前回述べた唯識論において現在以後の時刻にどのような世界となるのかを予想することが困難であるという状況と類似しています。そしてこのモデルにおいては、因果関係の連鎖の中で我々は物事の全てを見ているわけではなく、図1の赤丸の様な観測されたものだけが実存であり、連鎖上のそれ以外の現象は存在しているとしても観測(認識)されていないので我々の認識の中にはなく、個体的・現実的存在とはなりません。

これらの事情は唯識論的に解釈すれば、図1のような連鎖のある時刻の断面が阿頼耶識であり、その時刻における現象は阿頼耶識の種子となってそれ以後の時刻に果報として現れると言うことになります。しかしそれらは全てが認識されるのではなく、全体の一部が七識のいずれかとして生じて初めて我々にとって実有となるのです。ある一瞬における種子の果はそれ以前の時刻のどれかの果とは相互に因果の関係を持っていますが、それらの果全てが七識として生じているわけではありませんので、実際に認識された実有である果相互の関係は図1の観測された現象間の関係と同様に非常に複雑で、単純な因果関係では推し量ることはできません。この様に我々が観測もしくは認識できない物事を含めた連鎖の各断面を阿頼耶識と置き換えることによって、1/f ゆらぎの現象と縁起の法を結びつけることができるのではないかと考えます。つまり自然現象を観測して1/f ゆらぎを生じるような機構は唯識論で考えている世界の認識機構と同じものではないかということです。

図1と類似した図2はこの様な状況を図示したものです。縁起の法を表す連鎖全体の中で、ある時刻t₁やt₂で表される点線がそれらの時刻における阿頼耶識であり、一瞬々々の時間展開の間に赤丸で示したa~dの物事だけが七識として生じる(観測される)事を表しています。それらの中でa~b間のように比較的連鎖上の距離が近い場合はそれらの関係性がある程度推定できますが、b~c間のように連鎖上の距離が遠い場合には関係性が分かり難く、cの結果にbがどのように関係しているのかよく分かりません(所謂、風が吹いたら桶屋が儲かる、という関係)。識dは他の識a〜cのどれとも関係性がありません。この様に我々は縁起の連鎖の一部分しか認知できず、日常の出来事は関係性の推定が比較的容易な場面やほぼ推定不能な場面、さらには図中のdのように全く推定不可能な場面の入り混じったものとなるのです。これらの予測可能性と予測困難性の混合により日常には不安定感が生じ、それが「煩悩」となり「苦」に繋がると考えられます。そこで浄土教では全体を表す存在として阿弥陀仏を想定いたします。

図2 縁起の連鎖と阿弥陀仏

私は散歩の途中に多くの野良猫に会いますが、その中の数匹は工事資材の置き場で雨風をしのいでいます。私には猫と比べて図1や図2のような連鎖の部分のある程度広い部分が見えますので、工事が終われば資材も無くなり猫が雨風をしのぐ事ができないことを容易に予想できるのですが、猫にはその予想ができないために、いずれ戸惑いどうしようかという「苦」が現れると思います。人間の苦も凡そこれに似たようなものではないでしょうか。

華厳経の「一切即一、一即一切」や西行法師の「一日一生」、あるいは禅の「今に生きる」という考えにはフラクタル的な発想が感じられます。フラクタルについては「1/fゆらぎとフラクタル」のところで説明いたしました。
東大寺・大仏の蓮台には蓮の花びら一枚々々に小さな仏が描かれているのもこの様な考えあるいは宇宙観を表現したものと思われます。この小さな仏の蓮台の花びらにも同じように更に小さな仏らしき図が描かれています。おそらくこの更に小さな仏も同じような蓮台の上に座っておられることが想定されているようです。このように同じような構造を持った仏の世界が重層的に描かれています。縁起の法で表されるものも図3に示したような比較的大きい縁起の連鎖から本当に小さな連鎖までが重層的に重なっている多重連鎖だと考えられます。この連鎖群の中で我々は比較的大きな連鎖中の出来事や小さな出来事に遭遇するのです。それらの出来事の中には、時により自分の意図した通りのものも含まれますが、そのことに執着すると関係性のよく分からない出来事にも遭遇することがあるために、「煩悩」が生じ「苦」となります。

この「苦」を克服しようとして認識の範囲を広げると、次の「8.縁起の法と独創性」のところで述べる予定ですが、この認識あるいは観測という行為が縁起(あるいは因果)の連鎖に大なり小なり影響を与えます。つまり連鎖が更に複雑となって予測困難性が増すものと考えられます。そこで浄土教では、この「苦」をそのまま受け取り連鎖全体を体現している阿弥陀仏の慈悲によって「楽」となし、この煩悩から離れるという生き方が提唱され、また禅では、「今」という一点あるいはある一瞬における阿頼耶識に集中することにより連鎖全体を見通せないことから生じる煩悩を超越した生き方を目指すのではないでしょうか。このように因果関係の重層的で複雑な連鎖の中の、自然現象の認識(観測)のゆらぎによる不確実性或いは意外性と日常の出来事のゆらぎによる煩悩の間にはフラクタル構造を持った類似性があると思います。

図3 連鎖のカスケード

以上のように我々の身の周りにしばしば見られる1/f ゆらぎの機構と、仏教でいう縁起の法あるいは因や縁を包蔵した阿頼耶識が次の時刻の世界として立ち現れる状況に類似性があり、これら両者はほぼ同じように説明できることを述べてきました。両者には因果律という共通項があり、しかも両者とも因果関係の連鎖上にある一部の事象のみが七識として生じる或いは観測されています。因果律は現象の時間経過を考える場合の最も基本的な考え方で、時間という概念を前提とし、しかも時間は一様に過去から未来へと進んでゆくものと仮定しています。しかし「唯識論と時間」のところで議論したようにこれはあくまで物体の運動を通しての認識であり、更に言えば空間の歪みがなければ運動も生じないので、宇宙の構造が一様でないということが前提となっています。

このように考えてくると、物体の動き(究極的には宇宙の構造)が1/f ゆらぎや縁起の法を生み出していると言えるのではないでしょうか。敢えて言えば、これら両者(1/f ゆらぎと縁起の法)は同じものを異なった二つの面から観ているだけで、類似の関係を越えて同一のものであるかもしれません。このように何かに対する認識のことを考える場合、感情的な受止めを想定した時には仏教の縁起の法となり、物質的対象を観測した場合にはその観測結果のゆらぎが1/f ゆらぎとなると考えられます。つまり縁起の法とは物事に対する精神的あるいは感情的な受止めのゆらぎを扱っているということです。このように(自然)科学と宗教(仏教)は全く別物として捉えるのではなく、むしろ同一の法に従っているもののように見えます。時々宗教と科学の類似性を議論されることもありますが、私は何かを認識するという場合には類似性を超えて同一のものだと考える方が良いのではないかと思っています。キリスト教やイスラム教についてはほとんど知りませんので、上記のようなことが言えるのかどうかについてはわかりません。しかしキリスト教の神の摂理という考え方は何となく唯識論あるいは縁起の法とどこかで繋がっているような気もします。つまり神は図2の阿弥陀仏に類似した存在として人間の事柄を含めた一切のことを完全に支配し、私たちの行動や選択のすべては神のみこころに従って図2の赤丸のようになされる。これらは時には善行に対して不本意な結果として現れますが、それは神の恩寵に至る試練と受け取るというような考え方は、仏教とは根本的に異なる考えに立っているとはいえ図式としてはある意味縁起の法と似通ってますよね。

このように物事の時間経過はどのような事柄であれ、統一した一つの原理あるいは法則に従っている可能性があり、これらは突き詰めると宇宙の構造が一様ではないとことから発生する法と考えられます。もしそうであるならば、七識によって認められた実有の、例えば認識の強さなどは一定ではなく何らかのゆらぎを示しているはずであり、今までの議論から恐らく1/f ゆらぎの特徴を持っていると推測されます。そして前述したように現象間の関係は予測が比較的可能なものもあるがほぼ予測不可能なものもあって極めて複雑で、それらの関係を知ることは我々人間には不可能のように思われます。

「ゆらぎと音楽」の項で書いたように物質的対象あるいは自然現象の1/f ゆらぎ を示す観測の程よい予測困難性は多くの場合人間に快適感を与えます。しかし仏教の縁起の法ではこの予測困難性が快適感よりむしろ苦を生じると捉えています。この違いはどこから生じるのでしょうか。自然現象の認識では通常ただ観測しているだけです。それに対して縁起の法で想定している精神的な認識には執着心が伴います。唯識論的に表現するなら、自然現象では阿頼耶識の種子は主として六識を生み出し末那識を生み出すことはあまりありませんが精神的な受け止めには末那識も関係してきます。このように認識が六識だけを生み出す場合には快適感を与え、末那識を含めた七識が生み出された場合に煩悩が生じるということです。唯識論では末那識は常に働いているとされています。

だから我々凡夫にとっては「阿弥陀佛におまかせする」とか「今に生きる」というように個々の現象に囚われずに全てを受け入れるという浄土教や禅の立場が相応しいのではないでしょうか。1/f ゆらぎと縁起の法の類似性あるいは同一性から様々なことを考えて、特に目新しくない従来から言われているのと同じような結論に達しました。しかし唯識論の七識を観測(認識)と言い替え、また阿頼耶識を認識していない世界を含めたその時刻における世界全体と言い換えた方が、或いは観測(認識)ということにもっと重点を置いて上記の図2のようなイメージを描いた方が、現在の我々の近代的な思考方法では縁起の法の理解がし易いのではないかと考えています。つまり何度も指摘したように縁起の法を、”我々は大きい因果関係の連鎖の中の一部だけしか認識できないので煩悩が生じる”と表現できるのではないかということです。

この様な観点から一見難解な仏教的な考えを、21世紀を生きる我々現代人の思考法に沿って今後解釈してゆきたいと思います。

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