見出し画像

噴出する涙はどこからくるのか?~重松清さん、茂木健一郎さんの『涙の理由』とともに考える~

録画しておいたNHKスペシャル『死闘の果てに 日本vs.スコットランド』を観た。5ヶ月経っても、あのときの興奮や感動がよみがえってきて、胸が熱くなる。

ラグビーに限らず、ドラマや映画、ニュース、SNSのちょっとした話題でも、目頭が熱くなることがここ最近本当に増えた。「年を取るとほんと涙もろくなって」というセリフは、 cliché(クリーシェ、ありがちな決まり文句)だと思っていたけれど、これはまぎれもない真実だと今は思っている。

ただ、胸が熱くなるとか、目頭が熱くなるのとは違う、もっと腹の底の方から噴出してくるような涙もある。

12月の下旬、続けて2回そんな噴出体験があり、どうにも押さえられなくて困ってしまった。

1回目は、自分が主催をした哲学カフェの場で。
2回目はインタビューWSの最中に。
(2回目のことは、また稿をあらためて書きます)

このときの哲学カフェは、自社の小さな事務所で実験的に始めた1回目の哲学カフェだった。「時間」をテーマに、集まった8名の人たちで「自分にとっての時間」について問いかけ合いながら、対話を進めていた。

そんな中、ある人から「時間にさわれるとしたら、どんな触感だろう?」という興味深い問いが出されて、それについて考えていると、昔の映像が浮かんできた(触感と言われてもまず視覚が動くんです、私)。

それは次男を妊娠中(安定期)のこと。このときは仕事をしていなかったので、2歳になったばかりの長男を連れて、駅に電車を観に行ったり、公園にいくことが日課だった。妊娠中だけど移動は自転車で、後ろに長男をのせて。

外出をするのはいつもだいたい午後でまず駅に向かう。秋のくっきりとした青い空と白い雲の下、太陽の日差しを浴びながら、フェンス越しに電車を見ている小さい子たちがいっぱいいる。電車が近づいてくると「でんちゃ~、でんちゃ~」とキラキラした目で喜び、急行電車が轟音をたてて目の前を通り過ぎるときには口を開けっ放しでフリーズしてその様子を見ている。各駅停車が駅を発車するときには「ばいば~い」と小さな手を振る。すると車掌さんが手を振り返してくれるので、にっこり微笑みながらより大きく手を振る。

そんな風に電車を何本も見たあとは、公園に向かう。この頃長男は、いつも両手にミニカーを持っていて、自分の目の前にあるものは何でも道路に見たてて、「ブ~、ブ~」とミニカーを走らせていた。公園のベンチや遊具に「ブ~、ブ~」と、小さな手でミニカーを走らせるその頭の中では、どんなシーンやストーリーが思い浮かんでいるんだろうと、その姿を見守る。ミニカーを握る小さいぷくぷくな手は、今も鮮明に思い出せる。

「時間にさわれるとしたら、どんな触感?」という問いに、私はこんな何でもないシーンを思い出し、「このシーンのような時間にさわりたい」と発言しようとした。

でも。
その場で言おうとするたびに涙が込み上げてきて、言葉に詰まってしまった。そして結局そのことについては、最後まで一言も言えなかった。他のことは普通に発言できるのに、そのシーンのことについて一言でも言おうとすると、「うっ」とこみ上げてきてしまって。

どうしてそのシーンがそんなにも、私の奥深くから涙を湧き上がらせるのか?ということを、考えるともなくこの2か月過ごしていたのだけれど、そういえば昔こんな本を読んだなーということを思い出して、少しひもといてみた。

茂木さんと重松さんは、本書で、涙の質が薄まってきていること、画一的になってきていることに対して、警鐘をならしている。

そして、西武ライオンズ時代の清原が、日本シリーズで9回2アウトの巨人の攻撃のとき、1塁を守りながら泣いていた話や、

妻を亡くして1ヶ月後に、洋服屋で妻が気に入りそうな服を見つけてそこで初めて涙したというリチャード・ファインマンの話などをあげながら、

涙というのは、その人のそれまでの人生、記憶、その他様々なものが複雑に絡み合った上で、そこでもうこれ以上いっぱいにならないというくらいの臨界点に達して出るものなのではないか。だからそれは一回性のものであり、その人だけのものであり、だからこそ貴重なのだ。

と対話が進んでいく。
そして最後、茂木さんがあとがきに書かれていることに集約されていく。

ついには「涙の理由」が見つかった。
「泣ける」小説で涙したとしても、その涙は自分のものにはなっていない。
一番価値のある涙は、自分だけのもの。
人生というジグゾー・パズルがカチリとはまったときだけに流れる涙。
他人にとってどんな意味があるか、そんなことは知ったことではない。
ただ、自分にとってはかけがえのない価値がそこにあることがわかっている。その瞬間、私たちの不完全なそして限りある命が、何者かによって許される。そんな素敵な奇跡のかたちが、私たち人間の涙なのだと思う。

私が何気なく思い出した昔のシーンも、「自分にとってはかけがえのない価値がそこにある」ワンシーンだったのだなあ~と、今改めて、大好きな映画を観るように味わっている。


その他、本書では興味深いやりとりがいくつも出てくる。

大げさな言葉を使えば、「世界の真実」というか、「人間の生のむき出しの現実」を認識したときに泣く。自分にとって大事なものがそこにあるから、掴まえておきたいから、泣くのかな。
(茂木さん)
「リセット」は、涙について考えるうえで、大事なメタファー。キリスト教で洗礼するときに水をかけるのは、そういう意味かもしれない。(茂木さん)
だから、涙って「さんずいに戻る」と書くよね。(重松さん)
本物の涙は、あくまでもパーソナルなもので「一万人の涙」はありえない
「一万人の涙」は、「一人一人の涙が一万個積み重なっただけの話」で、
体験そのものは自分にしかわからないものだから。(茂木さん)
泣くということを突き詰めていくと、脳の中での「オーバーフロー」に達する。「限りある器を超えたものが来たときに、溢れ出てきたものが涙」(茂木さん)
昨今の小説の「泣ける」は、ある種の「踏み絵」というか、「私もそう思っている」とか、「私も、この作家のこの小説の感覚がわかる」、「わかるから泣けている」という自己確認がベースにあるんです。(中略)
いま、少なくとも「小説をめぐる涙」は安く扱われているような気がしています。(重松さん)
「悲しい物語・感動の物語を温かく見ている人がいること」に泣くんだと思うの。捨てたものじゃない、みたいな。(重松さん)
本来は非常に知的な、非常に複雑な経路を経由しないと出ない涙もあるはず。僕は涙の文化として、もっと豊穣な涙を耕していきたい。(茂木さん)
「なぜ自分はいま泣いているんだろう」と問わずにはいられない涙もあるはずなんだ。もっと凄い涙があることを知ってほしい。そのためにも「なぜ泣いたのか」を判断停止せずに、考えてほしいんだよね。(重松さん)
たとえ実生活で不意打ちのように涙を流すことはあっても、その根っこには
記憶の積み重ねがあるんじゃないかと思います。(重松さん)
昨今はやりの「百万人が流す」涙は、自分のものになっていない涙なんだね。他人の涙。借り物の涙というか。(茂木さん)
涙に至らないときの、感情が溜まっている状態は、なんともいえない味わいがありますね。涙は、カタルシスだから、泣き始めてしまうとそれは、「終りの始まり」というか。(茂木さん)
少なくとも物語の中の登場人物に流させる涙は、その登場人物にとっての「自分だけの涙」を流させなければいけないし「自分だけの涙」は、読者自身の自分だけの涙にも届くんじゃないかなと、改めて信じる。(重松さん)

私は重松清さんの小説が好きで、これまで結構読んでいるので、ここに引用した重松さんの言葉はどれも、「うんうん」と思う内容です。

「年を取るとほんと涙もろくなって」出てくる涙は、もしかしたら「消費」や「踏み絵」のような涙に近いのかもしれない。それでも、ごくたまに、風が頬を撫でた瞬間に湧き出るような涙がある。今日書いたような噴出するような涙が、時間を経てじわっと滲むような涙に変わることもある。

そんな「涙」が出るメカニズムをあれこれ分析するのではなく、様々な質感の「涙」の経験と、自分の物語をひもときながら、そのときの自分の感覚や感情を味わって、深く「生」を享受したいなあと、今改めて思っている。

インタビューWSの最中の涙の噴出はまた次回以降に。

サポートいただけたら跳ねて喜びます!そしてその分は、喜びの連鎖が続くように他のクリエイターのサポートに使わせていただきます!