見出し画像

江古田の演劇ワークショップで

3年近く前、西武池袋線の江古田で開催されていた演劇ワークショップに、週に1回、9か月間通った。講師は劇団じゃけんの難波善明さん。受講生はだいたい10人くらいいて、そのうち俳優を目指している人が半分くらい?

若い人たちに混じって受講していた私は、こんな年で俳優を目指すというわけではもちろんなく、人前で話す機会が多いので、安定した伝わりやすい声で話せるようにというのが通った目的だった。

受講する前に想像していたのとは違って、レッスンでは身体をゆるめてほぐすことにじっくり時間をかけていた。日常、私たちは自分の身体の使い方のクセを知らず知らずにつけてしまっている。その無意識にできてしまった「形」をずらしながら、完全に力が抜けた状態を作っていく。さらにリラックスしながらも集中している状態で、自分の芯から声を出していく。

その基礎的なトレーニングを繰り返し繰り返し行うことで、俳優さんたちはたとえ舞台で緊張したとしても、すぐにニュートラルな状態になれるように自分を整えるのだ。何かの演技をするというよりは、そうやって身体をチューニングするような時間が大部分だった。

結構な回数通ったわりに、自分の話し方に大きな変化があったかどうか疑わしいが、それでもすごく深く学んだなと思うことがあるので今日はそれについて書いてみたい。

この演劇ワークショップでは3か月に1回、数分の短いシーンを演じるという「演技実習」を行っていた。これは必須というわけではなく、やりたい人がやる。基本は2人一組で、小説などの作品の中から演じたいワンシーンを自分で決め、小道具や衣装を揃え、それを実演するのだ。

その演技実習をするために、事前に役作りのためのレポートを書いて提出する必要があった。このレポートが深かった。

ある役を演じるとき、その人物が自分とはまったく違う考え方や行動をする人だった場合、どうしてそういう考えや行動をするのか?を理解しないと、その役を演じることはできず、単にそれっぽくセリフを言っているだけの嘘っぽいお芝居になってしまう。北島マヤのように役がおりてきて、のりうつる天才はそうそういない。

そのレポートは、自分が演じる役の人物を様々な角度から分析する構成になっていた。少なくても12,000字、多いときで20,000字くらいのボリュームになった。ちょっとした短編小説だ。3か月に1回なので、レポートを書いたのは3回だけだったが、いまだに自分がやった役の人物のことは深く自分の中に残っている。

数分のシーンを演じるにしても、その人が30歳なら、それまでの30年の時間や経験があって、そのシーンに至っている。どこで生まれ、どんな家に住んでいて、どんな幼少期を送り、親はどんな人で、どんな出来事を経験して、どういう経緯を経てその作品世界の「現在」にいたったか、レポートではそこを探っていく。

だから、長編小説ならば1冊の本を丸々読んで、人物の描写、価値観が現れているセリフ、場所に関する情報を全部抜き出していく。その情報を整理して、年表も作る。関係する人についても情報をまとめる。

その上で、隅々まで具体的に描いていく。どんな部屋に住んでいるか。図面や写真を使って隅々まで描く。商店街が出てきたらどんな商店街なのか。その人物が作中で作っていた料理や食べていたものはどんな料理なのか。実際に作ってみたりもする。どんな服を着ているか。どういうときにどんな行動をとるか。嫌なことがあったときどんな反応をするか。そうやって外面も内面も細かく描写していく。

もちろん、小説に書かれていないこともたくさんあるわけだから、不明な部分は、想像をして「創る」「決める」のだ。私の場合は、その人物のライフストーリーを映像でイメージしながら追いかけていった。そこまでやると、その役そのものの視点でライフストーリーを語れるようになる。レポートに細かく人物像や小説の中の風景を再現していくことは、本当にその人物として書いているような、その人物を生きているような時間だった。

そして最も重要なことは、その人物が、どういう時代に生きていたか、だ。人は時代に、決定的な影響を受ける。時代は家族を通して、社会を通して、その人物に働きかけていく。時代を抜きに人物は存在できないものだということもこのプロセスを通して深く実感した。

加えて。
これがこのレポートの真骨頂だと思うのだが、そんな人物と自分との違いを明らかにしていくのだ。共感できる部分と違っているところ。違っているとしたらどのように、どうして、違うのか。その人物と同じ場面に直面したら自分はどう思うのか。自分がその人物のように行動してしまうことがあるとしたらどんなときか。ありありと描いた人物を通して、今度は自分自身を見つめていく。このプロセスはなんというか、役作りとか自己理解を通り越して、「人間理解」「人間発見」というプロセスだったと思う。

そんな風に深く、役の人物を、頭ではなくひとつの文脈として納得するというところまでやってから、演技実習をみんなの前でやる。もちろん素人だから演技そのものは「へ」みたいなもんだけど、事前にそこまでやっているからもはや演技じゃなくなっている。それだけの人生を生きた人が目の前でしゃべっているという状態になっていたのではないかと思う。

私は自主的に細かく分析や描写をしていただけで、そこまで細かな分析が必須で求められているわけじゃない。人によってはさらさらっとで済ませていた人もいたかもしれない。

ただ、私はそのレポートを書いていることがとても楽しかった。ちょうどその頃、修士論文を並行して書いていた時期だったから、逃避したくて余計にレポートに熱が入ってしまった。

今思えば、この演劇ワークショップのレポートを書いていたことが、自分が思っていたのと違う方向に向かうきっかけになった。何かを「書きたい」という気持ちが育って、それで翌年に戯曲セミナーを受講することにしたのだった。それはまたどこかで。

やりかけて途中でやめたことはたくさんある。けど、それは全くゼロになるわけじゃない。身体にそのプロセスは残っている。必要なときにその経験は、次の経験の素地として活かされていくはずだ。活かしていけるはずだ。今はまだその途中なのだ。


サポートいただけたら跳ねて喜びます!そしてその分は、喜びの連鎖が続くように他のクリエイターのサポートに使わせていただきます!