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歩くということ

混乱したとき、頭がいっぱいになっているとき、もやもや~っとした感じがするとき、どうしようもなく気持ちが落ちているとき、私はよく歩きに行きます。

家に引きこもってただゴロゴロしていたり、漫然とPCに向かい合っていたりすることもありますが、同じようにぐるぐる、くよくよ考えるにしても、歩いた方が断然プロセスが進む。いろいろなことが整理されていくからです。

だからこれまで歩くことは自己対話だと思ってきました。

歩いているときに何が起こっているかもう少し考えてみると、自分がやっていることは、大きくわけると「考える」と「感じる」です。


「考える」

無意識に「考えてしまっている」ときも多々ありますが(というか常に何かしら考えているのだけども)、私が一番陥りやすいのが、頭の中にいろんなことが雑多に散らばっていて、「うわ~、どうしよ~」という状態です。

そういうときは、ひとまずノートにその頭の中の断片を書き出してみて、そこから整理することもありますが、もう少し深いレベルで考えたり、いろいろな問いかけが必要なときこそ、歩くことがぴったりです。

特に行先を決めず、気の向く方に向かって歩き始めます。気の向くところで曲がったり渡ったりします。1時間~2時間くらいはそうやって歩きます。

そうやってずっと歩いていると、いろんな思考の断片が浮かんでは消え、それについてまた新たな問いや視点が出てきたりと、今まで気づいていなかったものが現れたり、奥の方にあるかすかな感覚にリーチしたりすることができます。そうやっているうちに、自分の中がだんだん整理されてくるのです。

身体が動いていると、脳も身体の一部だから、何かの考えに固着しないですむのでしょうか。物理的に一ヵ所に留まっているのではなく、前に進んでいる、動いていることが、エネルギーを流れやすくするのかもしれません。

そして何より、歩くことによって、リズムをつくることができる。
バラバラにちらばっていた要素に、流れができてくる。
それが、歩きながら考えることによってもたらされる効果ではないかと考えています。


「感じる」

考えるときは一定のリズムで歩き続ける感じですが、ゆっくり歩いているときは「感じる」ことをやっています。

見慣れた街でも、初めて訪れた街でも、景色や人々の様子などを観察しながら、聞こえてくる音や肌で感じる空気感を味わいながら歩く。

そして自然の中にいるときは、肺一杯にきれいな空気を吸い込みながら、五感を全開にして歩く。みる、きく、だけでなく、かすかな香りや、自分を包む空気を感じながら歩く。触れるものには触ってみたり。
そういった自然の中で食するものは、ただの水でも、塩むすび一つでも、間違いなくおいしく味わえる。

PCの前で、体を動かさずにできてしまう仕事をしていると、いきおい思考で暴走しがちになります。

なので、こんなふうに「感じながら歩く」というのは、本来の自分を取り戻すことではないだろうか、バラバラになった自分のかけらを集めて、つなぎなおしていく行為なのではないか、と思っています。

実のところ、文章を書き続けるのも、私にとっては歩くことと一緒です。
自分の中にある断片を統合していくため。
バラバラになった自分のかけらを集めて、つなぎなおしていく行為そのものだと思っています。

今回使った写真は、4日間の屋久島縦走でゴールしたときのもの。だから靴が汚れてます。

縦走や歩き遍路など、「歩く」については、またいろいろ書きたいと思います。

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