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フィクションが、私たち自身の物語にもたらすもの

2年前の今頃、経営理念の浸透に関する大学院の修士論文を提出して疲れ果てていた私は、一時期、小説や文学作品ばかりを読んでいました。

当時よく読んでいたのは、白石一文さんや中村文則さんの小説。

白石さんはもともと新聞記者さんということもあって、筆の運びが圧倒的というか、夢中になって何冊も読んでしまう感じでした。

中村さんの小説は、人の内面の闇をえぐりだすようにして書こうとしているのがひしひしと伝わってきて、なんか読んでいて呼吸がとまっちゃうというか、それくらい読み手にもある種の覚悟が求めれられるなあと感じながら読んでいました。

ある講演で中村さんが、

「 著者は内面をさらけ出して書いていて、読む方も自分の内面と照らしながら一人で読む。ここまでの深いコミュニケーションを取る人って、日常でいますか?」

とおっしゃっていて、「ああ、そういうコミュニケーションを、作品を通して取っているということなのか。それはたしかにある種の覚悟がいるなあと」深く納得をしたことがあります。

中村さんの作品の中に(どれだったか忘れましたが)、

「文学とは、世界、ことに人間を、世界に向かって暴露することである」

というサルトルの言葉が出てきて、そういう心のありようで書かれているのだなあと深く感じ入りました。


ただ、よくよく振り返ってみると、自分が大人になってから手にとる小説や文学作品は、漫然とテレビや映画を観るときのように、ある種のエンターテインメントとして読んでしまっていた気がします。

高校生の頃の方が、もう少し切実だった。
なにか自分のなかの得体の知れなさを、作品のなかに探し求めていたような(当時は無自覚でしたが)。


『放蕩記』で母親との愛憎関係、 『La Vie en Rose 』でモラハラの夫との関係を、自分をモデルとして書いた村山由佳さんは、ある講演でこんなことをおっしゃっていました。

人の言葉では救われない傷があり、そういう傷にはフィクションや文学でしか手の届かない領域がある。

本や小説は、たいてい一人で読む。読む時に自分の経験に翻訳して読む。

ノンフィクションが人を救いにくいのは、普遍化しにくいから。一つの特殊を特殊のまま書いても、感情移入できないけど、物語という形を身にまとうと、読む人にとって自分の物語になりうる。

渡辺淳一氏が「特殊を書いて普遍にいたるのが文学」と言われているが、どんな特殊な事例を書いても、たぶん一人だけの体験ではない。あらゆる事象は世の中で何遍も繰り返されている。

村山さんは、東日本大震災の後に、「この状況のなかで小説を書くことに何の意味があるのか」と、自分の無力さに筆が止まってしまったそうです。

ただ、あるとき講演会に、被災者の方が来てくれて、ぼろぼろになった村山さんの『天使の卵』という本を見せて、

「避難所にいたとき、まったく先の見えない不安のなか、この本がずっと支えになってくれていました」

と言われて、自分が書くことの意味を思い出したと言われていました。


河合隼雄氏との対談を納めた『生きるとは、自分の物語をつくること』の中で小川洋子さんは、

人は、生きていくうえで難しい現実をどうやって受け入れていくかということに直面した時に、それをありのままの形では到底受け入れがたいので、自分の心の形に合うように、その人なりに現実を物語化して記憶にしていくという作業を必ずやっていると思うんです。
物語を持つことによって初めて人間は、身体と精神、外界と内界、意識と無意識を結び付け、自分を一つに統合できる。人間は表層の悩みによって、深層世界に落ち込んでいる悩みを感じないようにして生きている。表面的な部分は理性によって強化できるが、内面の深いところにある混沌は論理的な言語では表現できない。それを表出させ、表層の意識とつなげて心を一つの全体とし、更に他人ともつながってゆく、そのために必要なのが物語である。物語に託せば、言葉にできない混沌を言葉にする、という不条理が可能になる。

と書かれています。

日々のニュースを見ていると、まさに先が見えない状況だなあという感覚が増していきます。

そんなときだからこそ、世界の動きを見ながらも、足元は見失わないように。そして、自分のことだけを考えるのではなく、より広くゆっくりと周りの人たちを見ることができるようにしたいなあと、個人的には思っています。

すぐれたフィクションは、私たちの物語を統合し直すための、心強い支えや希望になる。こういう時期こそ、じっくりとフィクションの世界に浸ってみるといいのではないかと改めて思っています。

ちょっとまとまりがないまま、考えたいことの断片になっちゃいましたが。


備忘メモ:

ここ数日、遠藤周作さんの『沈黙』の小説を読んで、映画を再度見返してみて、その迫力に圧倒されています。それについてはしばし沈黙をして、自分の中の声に耳を澄ませてみたいと思います。

また、一昨年、高橋源一郎さんの『日本文学盛衰史』を読み、平田オリザさんが戯曲化した舞台を観に行きました。そこから私は日本文学(特に近現代)について踏み込もうとしたわけですが、その世界の奥深さに圧倒されたまま、立ち止まっています。どこかでまた、その圧倒されっぷりを書ければ。

今日、引用や紹介をした本はこちら。


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大前みどり
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