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「自分がわかっていない」ことを「わかる」には何が必要か?

常に、読みたい本はたくさんあります。
すでにもう、残りの人生(どのくらい残っているかわからないけれど)、ずっと本を読んで過ごしたとしても読み切れないであろう数の本を、持っていると思います。

だからこそ、読む本は大切に選びたいし、選んだら大切に読みたい。
消費するような読み方ではなく、対話するように読みたい。

何かと落ち着かないこの時期、あえて以前読んだ本を読みなおしています。時間にも心にも余裕というかスペースがあるため、ゆっくり出会い直すことができる気がして。

今週は2冊の本を読みました。


このお二人は、本だけでなく、実際の合宿形式のワークショップに参加しているので、活字の奥にご本人の存在感を感じながら読むことができます。なのでその分言葉に重みを感じ、深く届いてきます。

そしてワークショップのときの自分の体験、感覚も、思い出されてきます。
本を読むだけで、そのときを追体験できる。

とはいえ、ワークショップのときの体感を書くと長編になってしまうのでまた別の機会にして、今日は、お二人とも同じようなことを言及されているなあと思う箇所があったので、それについて。

ついつい「わかった気になっちゃうよねー」という話です。

まずは吉福さんの本から。

日常生活でもセラピー(心理療法)のセッションでも、あらゆる瞬間に、一人の人間が感じたり、理解することをはるかに超えたもの、言葉を超えたものがあるんです。けれども、説明を聞いてしまうと「私は知っている」という気になる。「知っている、わかっている」という意識が経験と自分の間に入ってきて、一種のブロックになってしまうんです。体験的に実感していないままだと、上滑りのような形でしかなくて、みずからにまったくおよんでこないんです。
言葉はある種の普遍的な理解というものをわれわれに与えます。物事の共通性をつかまえ、その共通性によってさらに抽象的な概念を使って原理的なものを見出します。ところがそれと同時に、言葉は個々の事象の特異性を除外してしまいます。普遍化・一般化をもたらし、物事のディテールを吟味することを躊躇させてしまうからです。
言葉を使うときに、言葉を対象化する力を持っているかどうかが重要です。言葉は単なる言葉にすぎず、「現実ではない」ということを知っているかどうかということです。


吉福さんのWSに参加したのは、2012年とかれこれ8年も前のことで、当時は独立して4年目。肩肘を張ってあれこれ頑張っていた時期です。

知識で武装している私を一瞬で見抜いた吉福さんは、「考えるなっ!」とものすごい勢いで怒りました。私の言葉が明らかに「上滑り」していたのでしょう。

そのときのことが、今ならわかる。
でもそのことがわかるまでに、結構な時間と経験が必要でした。

続いて、西村さんの本から。

経験が十分でないうちに他人が整理した言葉や視点、価値観や要所を得ると、むしろそこで失われてしまうことがあるということ。たとえ内容が本質的で真理を突いていて、きわめて普遍性の高いものであっても、他人の言葉を通じて知ることと、自分の経験を通じて感じ、掴み取ってゆくことの間には大きな隔たりがある。
言葉は、経験に後から名前を付けるようにして生まれてきたものだ。でもその言葉や名前のほうを先に知ってゆく転倒が、今は容易に起こる。


振り返ってみると自分は、結構長い間、本を読んだり、いろんな講座に参加することで、「他人が整理した言葉や視点、価値観や要所」を得ようと、せっせと頑張ってきたような気がします。それが、いかに「本質的で真理を突いていて、きわめて普遍性の高いもの」であっても、無意識に「知識」として身につけてしまっていた。

そして、「わかった気になる」→「ほんとはわかってない」→「わかってない自分をわかってない」→「時間が経って、自分がわかっていなかったことがわかる」→「はずかしい」→「今度こそわかった気になる」

→「前よりはわかっているかもしれないけど本当にはわかってない」→「本当にはわかっていない自分をわかっていない」→「時間が経って、本当にはわかっていなかったことがわかる」→「はずかしいしくやしい」→「もう本当にわかった気になる」→(以下、繰り返し)

というループを生きてきた(いる)のだと思います。
そしてそれはこれからも続いていく。そこにゴールはないんじゃないか。

だとしたら、「わからない」が増えていくことを楽しむことの方が、「わかっていない自分に気づく」ということなので、より豊かな人生と言えそうです。


ここまで書いて、そもそも「わかる」って、どういうことなんだ?と、ちょっと一人哲学対話みたいになっています。

どういうときに自分は「わかった」と思うのか?それはなぜか?
「わかっている」状態とはどんな状態か?
「わかっている」と言える条件があるのか?
体験的に「わかる」と、知識・概念として「わかる」のは、何がどう違うのか?
「自分がわかっていない」ことを「わかる」には何が必要か?

いつもなら私はここで、Amazonで『「わかる」とはどういうことか?』の本を注文してしまうのですが(笑)、今回はもうちょっとこのまま問いを持っておきます。そして、本から「知識」を取ろうとするのではなく、問いとともに過ごす中でその問いがどう流れていくのかを楽しみたいと思います。本はそのあとに手に取ればいい。

以前は、本を読んでいるときに「そうそう、そうなのよ」と、自分がうっすら思っていたことが言語化されて説明されていることや、「そういうことか!」と新たな見方、発見、気づきがあることが、本を読む楽しみでした。

今は、「もやもや」「むむむ」「ん?」みたいな引っかかりを、

味わう
感じる
ともにいる

ということを、楽しんでいきたいと思っています。

そのまんま「もやもや」「むむむ」「ん?」という感じを持って、その「もやもや」「むむむ」「ん?」は、どこからやってきているのか?ということをまた感じて味わいながら、時間を経て、それを言葉にあらわしたくなったとき、そのあらわされた言葉は、少なくとも「自分の”感じて味わう”という経験を通じて掴み取った言葉」になるはずだから。

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