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信号のない横断歩道を渡り続ける人生

比喩的な意味ではなく、文字通り週に4回、信号のない横断歩道を渡り続けているという話。

うちの地域のごみ収集は週に4回で、ごみの集積所が、信号のない横断歩道を渡ったところにある。片側1車線の県道は、交通量が多く車が途切れることが少ない。しかも道幅が広い道路なので、通り過ぎる車も相当なスピードを出している。

そのため、ごみ集積所はすぐ目の前なのに、なかなか道路を渡れないということがしょっちゅう起こる。引っ越してきたころは週に4回それがあるので、結構ストレスだった。

道路交通法では、一応信号のない横断歩道に歩行者がいるときは一時停止しなくてはならず、違反すると罰金や減点を科されるということになっている(らしい)。

のだが、信号がない道路をある程度のスピードで走っている車は、横断歩道のところに立っている歩行者に気づいたときに減速しても間に合わないことが多い。しかも後続車が何台も続いていると、突然止まったりしたら衝突の危険がある。自分も車を運転しているからそれはよくわかる。「ごめんなさい」と思いながらも、一時停止せずに通り過ぎてしまうことはままある(違法だけどもね)。

逆に歩行者の側から、その車さえ通り過ぎればちょうど途切れるのでどうぞ行っちゃってくださいと思っていても、わざわざ止まってくれて恐縮してしまうこともある。

そんな日々を過ごしているので、横断歩道で車が止まってくれたときは、ペコっと頭を下げながら小走りで渡るようにしている。

深夜や早朝の車の通行台数が少ない時間帯にゴミ出しをしようと思ったこともあったが、その時間帯は基本寝ている。毎朝起きるのはだいたい7時前で、そのときにはすでに結構な車が通っている。

なので今は、通学中の中学生たちがたくさん通る8時前後に合わせて出しにいくようにしている。制服やジャージは視認性が高いのか、純粋に子どもだからか、車が止まってくれる率が明らかに高い。さらに、自分一人のためだけに止まってもらうよりは、複数の人のために(しかも青少年だし)止まってもらうほうが、申し訳なさも半減する。

この横断歩道は、さらに細い側道と十字路にもなっているので、4方向から車が来ていて、その状況の中で優先道路の車に止まってもらってから横断歩道を渡ると、そのあとどの車が先に動くかという駆け引きが複雑な状況になることもある。現にこの交差点は車同士の事故が多く、事故を目撃したことが2年半の間に4回ある。

引っ越してきた当初は、中学生もたくさん通るんだから信号をつければいいのにと思っていたのだが、信号と信号の間隔は法律で決められているからか、条件にあわないのか、信号が設置される気配はない。かといって歩道橋を設置するほどには歩行者が多くはないのだろう。歩道橋があったとしても上って降りるのは逆に面倒だなあという気がしてしまうし。


まあそんな感じで、結局ごみ出しの朝は、今のところ運試しみたいになっている。

車がちょうど切れているタイミングだとラッキー!
中学生がたくさんいるときは、すぐに渡れるからOK。
中学生がいない休みの期間や、タイミングがずれたときは、なかなか渡れないときもあるし、すぐに止まってくれてなんとなく心がふわんとするときもある。

ほんとうに何でもないけれど、1日の始まりのちょっとしたイベントになっているような。

「ゴミを出さねばならない」とか、「横断歩道で車が止まってくれない」とか、そういう義務感や被害者意識で朝をスタートするのか、タイミングをおもしろがったり、止まってくれたことに感謝したり、ドライバーの方々の安全意識の定点観測みたいな気持ちでいるのか。

どちらも同じ「ごみを出す」という行為だし、同じ時間しかかからないけれど、その日の暮らしの質には違いが出るよなあと思う。しかもそれが週に4回で、あと何年、何十年繰り返すかと考えると、違いは大きそうだ。


さて。
ここで終わると何だかもの足りないので、「信号のない横断歩道を渡り続ける人生」を今度は比喩的に考えてみたい(しつこい?)。なんか「人生」ってつくだけで比喩的に感じませんか?

2車線の道路
信号のない交差点
車がひっきりなしに通っている
ごみを捨てようとしている自分
なかなか渡れないがたまにスッと渡れる
あるドライバーの配慮でやっと渡れる
中学生たちがいると渡りやすい

これらのことがどういうことを象徴していると考えられるだろうか?
これらの喩えを使った物語を作るとしたらどんなものが考えられるか?

このなかだと、「ごみを捨てようとしている自分」がどういう状態にあるのかによって、その他のものがあらわす意味がまったく変わって来るような気がする。その人物はどんな人で、何に向かっていて、何に引っかかっていて、何に心を占められていて、周りの人とはどんな関係で……。

そしておもしろそうなのが、「ごみとは何の象徴か?」ということだ。ここに出てくる人物は毎日、毎週、せっせと何を捨てているのか?本当は何を捨てたいのか……。

現実の自分自身ではなく、設定だけ使って架空の人物の物語をイメージしてみる。

親の介護をしている独身の中年男性だったら。
母子家庭で早朝から仕事に行っている母親に変わって、弟や妹の面倒を見ている高校生の姉だったら。
結婚して遠くの国から日本にやって来たばかりの女性だったら。
高齢のおばあちゃんだったとしたら。

人物が変わるだけで、ごみの中身も、横断歩道を渡るのを待っているときの気持ちも、目に映るものが意味するものも、まったく違うものになりそうだ。

そういう風に考えると、何でもない日常のひとコマにも、物語の種ってたくさんつまっているのかもしれない。


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