汐御崎という街(夜)
龍騎は病院という場所があまり好きではなかった。
染みついた消毒液のにおいや刺激を最小限に抑えた乳白色の内装、物静かに動く機械のような職員。
特にこの内海病院はハッキリと言って嫌いだった。生命を守る場所なのに温もりが感じられない。だだっ広くてどこからか規則的な機械音が聞こえる。右を見ても左も見ても弱々しさが目について嫌だった。
そんな大嫌いな病院の廊下を龍騎は早足で歩いていた。
時刻は深夜23時すぎ。
就業時間も消灯時間もとうに過ぎて、廊下には薄緑色の非常灯だけが不気味に光っている。
残業ではない。
とある医療職員に会うためだった。
トントントン、と白いドアをノックする。
夕方ごろに大谷高校の学生たちと会った手術室の扉だった。当然ながら『手術中』のパネルの灯は消えている。中から返事は聞こえない。そもそもこの分厚い鉄の扉は反対側にノックの音を通していないかもしれなかった。
「……。」
数秒待って扉の隣の開閉ボタンを押す。扉が静かに開いた。
染み付いた血の匂いとそれを濁すアルコール消毒液のにおい。室内は真ん中の円盤の形をしたライトが煌々とついて眩しかった。
龍騎は明かりに目を焦がさないようにしながらその傍らに立つひとりの女性に話しかけた。
「希帆さん、そろそろ帰らない?」
白衣を着た女性が振り返る。白い髪に白い肌、血の滲んだような赤い目が特徴的な女性だった。
身長は155センチほど。細身で小柄な人だった。
黒瀬希帆。
龍騎の死んだ兄の妻だった。
「別に私を待たなくてもいいのよ、龍騎さん」
希帆が言った。
龍騎の姿を見るなりすぐに興味をなくして視線を逸らされて、左手をヒラヒラと振って先に帰れと促される。希帆は何を探しているのか手術台の下を覗いてグルグルしていた。龍騎が言った。
「そろそろ帰らないと子供たちが心配するよ」
「大丈夫よ、今日は親戚の人に世話を頼んであるの。泊まりでね。幼稚園の送迎もお願いしてあるわ」
「そうなの? 俺にも相談してくれたら良かったのに。一緒に暮らしてるのに、俺そんなに頼りない?」
龍騎の言葉に希帆は大きなため息をついて、希帆が顔を上げて姿勢を正した。両手はポケットに突っ込んだまま特徴的な赤い相貌が龍騎を射抜く。
希帆はしかめ面をしていたが、龍騎はニヤけた。
「やっとこっち見た」
彼女には先天性色素欠乏症という遺伝子疾患がある。そのため、髪の色や瞳の色などの色素が薄く、ほとんどが白化して皮膚粘膜や瞳は血が滲んだような色をしていた。この世のものとは思えない、とても美しい疾患だと龍騎は希帆の赤い目がとても好きだった。
惚けている龍騎に気づいて希帆が視線を逸らした。苦い顔をして左手で額を押さえている。
「仁さんが亡くなって心神喪失していたところを支えてくれたのは感謝してるけど、そろそろ私もひとりで大丈夫よ。子供たちも自立してきたし、同居も早く解消しましょう」
「僕は出て行かないよ。それに自立したって言ってもふたりともまだ2歳だよ? まだまだ育児は これから男でも必要になってくるよ」
「……。」
「それに、僕なら子育てだけじゃなくて仕事面でも支えられる」
まるでプレゼンをするように自分の利点を言いながら希帆に一歩ずつ歩を進める。
「事件のこと、気になるよね。噂になってるよ、逃げた加害者が鳥人かもしれないって。……鳥人は『NoAプロジェクト』の関係者の可能性があるんでしょ。街の七不思議だって、先輩から聞きました。けっこう知られてるんだね」
龍騎はパトカーの中で散々聞いた先輩の話を思い出しながら言った。七不思議なんて知らないが、NoAプロジェクトについては龍騎の方が身近で詳しいのに丁寧に噛み砕いた説明をする先輩にうんざりだった。
七不思議のひとつ『NoAプロジェクト』はこの医大の遺伝子工学研究室で秘密裏に進められた違法な研究計画だ。
人間の遺伝子を人工的に操作して、羽を生やしたり、ウロコをつけたり、雌雄同体にしたり……。禁断の研究だ、と先輩は言っていた。当時逮捕された研究者風に言えば、この病院は“人間の品種改良”をしていたのだ。
警察による一斉摘発とラボの主任が自殺をした事で中止されたと言われているが真相は不明だ。龍騎が警察官になった頃には収束していた事件だ。
「龍騎さんには関係のないことです」
「そんな事ないよ。とっくに巻き込まれてる。交番にも怪物を見たって通報けっこう来るんですから。いい加減、僕にも協力させてよ」
「……。」
無視をする希帆に龍騎はゆっくりと近づいた。まるで警戒心が強い猫に近づくように、そっと、しかし一歩ずつ着実に距離を縮める。
希帆は口を一文字に結んで不愉快そうに眉間に皺を寄せていた。
「僕なら兄さんみたいなヘマはしないよ。だから____」
「外の空気を吸ってきます」
龍騎の言葉を遮って希帆が隣を通り抜けた。棚に置かれたスマホとタバコケースをひったくるようにポケットに突っ込んで部屋を出ていく。
去り際振り返りもせずに「不潔なので手術室に消毒も無しに入らないでください」と言い残して音も立てずに扉は静かに閉まった。
部屋の中に耳が痛いほどの静寂が広がる。無機質な蛍光灯の青白さが龍騎の足元を照らした。
そこにひとつ異質なものを見つけて龍騎は指で摘み上げる。
「鳥の羽根が落ちてるようなこんな所のどこが清潔なんだか」
それは3センチほどの小さな白い羽根だった。七不思議で鳥人の羽根とウワサされているものに特徴が似ている。
龍騎はクルクルとそれを回してそっとポケットに仕舞った。
〇 〇 〇
希帆はポケットにたばこ箱を忍ばせて病院の屋上に向かっていた。龍騎から逃げるように早足で部屋を出てきたが、後をつけていないと無いと分かると少しだけ速度を落とした。
龍騎の想いについて、それは希帆が龍騎の兄と結婚する前からずっと知っていたことだった。
龍騎の熱烈なアプローチは今に始まった事ではない。龍騎は昔から隙あれば近づいてきて希帆にちょっかいをかけてきた。希帆はいくらアプローチされても気持ちが揺らぐ事は無かったのだが、龍騎は諦めが悪かった。
____幼いうちにもっと釘を刺しておけばよかった。
龍騎と希帆の出会いは小学校にまで遡る。
だから、最初はお兄ちゃんが希帆ばかりに構うからそれに嫉妬してワガママをいっているようなものだと思っていた。
しかしそれが20年も続くとなると普通ではない。
龍騎の好意は崇拝に近かった。何度断っても拒否しても変わらない。
仁が殉職してからは特に行為がエスカレートしていった。今までは周りをついてくるぐらいだったのが、急に仕事からプライベートから何でも手伝おうとし始めた。心身共に衰弱して助けられたことも多いが、亡き夫を裏切るような事はしたくない。希帆は龍騎との関係を義姉弟から進展させるつもりはなかった。
エレベーターは龍騎に使われたままフロアに残っていた。
矢印ボタンを押すと静かに両扉が開いて闇のカケラもない煌々としたエレベーターに入る。最上階のボタンを押す。屋上へ続く階段を登り、希帆は外へと開ける南京錠を開けた。
屋上は海風で酷い風だった。白衣が強く巻き上げられる。
目も開けられないような強風に転びそうになりながら希帆は寸でのところで踏み耐えてドアを閉めた。
そんな暴風の中にも風の死角はある。塔屋の北側面に回るとそこは嘘のように穏やかなのだ。足早に塔の裏にまわって希帆は静かな場所に移動した。
そこは街側に面して夜景を見るにはピッタリな場所だった。希帆のお気に入りの喫煙休憩スポットだった。
しかし、今日はそこに先客がいた。
『病院内は禁煙でしょ』
それは電子音のような、不自然なイントネーションの男の声だった。
ひとりだと油断していた希帆は驚いてタバコの箱を地面に落とした。
影の隙間で誰かがクスクスと笑った。
「誰?」
正体が見えなくて目を凝らす。するとタイミングよく雲間が晴れてヒラヒラと手を振っているシルエットが月明かりに浮かび上がった。
猫背で体育座りをした長躯の男。ひょろりと手足の長い体型で頭にはフルフェイスのヘルメットを被っている。
どうして屋上で素顔を隠すようなヘルメットを被るのか不審な格好の男だったが、なによりも奇妙なのは背中に生やした白い大きな翼だった。まるで北欧神話や壁画に描かれている天使のような純白の大きな翼が肩甲骨のあたりから生えている。
「おまえか」
鳥人。街では有名な怪異だった。
希帆はその姿を見て一瞬目を見開いて後退ったが、すぐに落ち着きを取り戻して落ちた箱を拾った。
『うん。昼間は心配かけてごめんね』
タプタプとスマホを操作して鳥人が言った。黒光りするヘルメットに液晶が反射して四角く光っている。昼間の駅前の事件のことを言っているのだと希帆はすぐに見当がついた。
「別に。手術では口止めの効く執刀医と看護師を手配したわ。問題はないでしょう。……でも、気をつけてよ。警察に目をつけられるから」
『はーい』
適当な返事をして聞いているのか、いないのか、聞く気が無いのか、スマホの画面を切って鳥人がぼーっと街の方に向き直った。街から見上げれば病院の屋上なんて闇世に紛れて見えないだろうが、今日は月が明るい。
ふたりはしばらく黙って夜景を眺めた。
海と街を遮断するように海岸の崖沿いに建てられた内海医療大学は北側が街、南側が海に面している。今ふたりが眺めている方角は北側で街全体が見渡せる場所だった。街の奥には大きな山々が聳え立っていて、そこへ吸い込まれるように少し湾曲した線路が伸びているのも見える。
『病院内は禁煙でしょ』
出会い頭に言われた言葉が繰り返される。
希帆は鼻で笑った。
「屋上は院外よ」
『……それはズルい言い訳だと思うなあ』
「院長の孫娘の私が言うんだから、誰がなんと言おうとここは屋外なの。別に誰にも迷惑をかけるわけでもないし、いいでしょ」
希帆がタバコを咥えなおす。ライターを忘れていたが問題なかった。指をタバコの先に近づけて鳴らすと、白くて細いロウソクのような火花が指先に散った。ジリリと紙が焦げて煙がたつ。
『便利だね』
鳥人が言った。
「……だいぶ能力の使い方には慣れてきたからね」
細く長く煙を吐きながら希帆はこたえた。
希帆には通常の人間とは違う。先天性色素欠乏症以外にも特殊な特徴があった。それは人体発火現象とも言われる怪異的な能力。希帆は汐御崎七不思議のひとつ、パイロキネシストと噂される存在だった。
「今日の事件、容疑者にあなたの名前が入っているみたい。くどい様だけど行動は慎重にしてね、頼むから」
『ええー? どうして。僕どちらかというと被害者なのに。』
「仕方がないでしょう」
希帆がタバコを仕舞った反対側のポケットから何かを掴んで鳥人に差し出した。
『?』
首を傾げた鳥人に希帆がパッと手を開いてみせる。小さな白い羽毛だった。
「手術室にたくさん落ちてたわ。全部回収しきれたか分からないぐらい。もしかしたら、さっき様子見に来た義弟に見つかったかも」
『……なるほど。……あの子も懲りない子だねぇ』
「ええ。困ったものよ。あの子にもあなたにも」
希帆がため息をついた後、バチ、と指先から炎があがって羽根が跡形もなく焼けた。チリヂリになった炭が風に消える。
鳥人はまた黙って街の方に向き合った。フルフェイスのヘルメットでは表情が読み取れない。
希帆は続けた。
「院内調査にも響くんだから。私たちの研究チームの予算が減らされたら困るわ。」
掌で炎を転がしながら希帆が言う。
「3年前の告発と夫が殉職した事件で全ては解決したはずなのに、まだ秘密裏に計画が遂行されているとの噂があるのよ。研究チームは解散してデータも残ってないのに。……それに実験は確かに被人道的で極悪なものだったけど、それだけで私たち全ての研究が悪だと言われるのは____」
『ぼく、タバコのにおい苦手なんだよね』
希帆の言葉を遮るように鳥人が言った。
縮めていた体躯をぐーっと延ばして伸びをして立ち上がる。そして翼も大きく広げたかと思うと屋上から飛び上がった。抜け落ちた羽根がヒラヒラと希帆の頭上を舞う。
「あんまり目立つことはしないでよ。頼むから」
『おたがいにね』
海風に乗って大きく羽ばたき街に鳥人が下降する。
暗闇にとけた白い影の方を見つめながら希帆は短くなった吸い殻を手のひらで潰して消した。
CAST:黒瀬龍騎、黒瀬希帆、xxx
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