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【短編小説】赤の芍薬(編集版)


一章

 この世界の現代で生きている僕たちにとって、普通というものは何を、どういったものを指すんだろう。“一般的”“常識”“正常”そして─“誠実”。大衆に向けて言う言葉ならこれらもきっと当てはまると思う。ただこれらが指す内容は誰が誰に対して決めたんだろうと、ふと考えることがある。
 少し気取った言い方をするのであれば、人それぞれ今進んでいる道は違うはずだし、万人が一寸も違わない考え方なんてしていないだろう。各個人が抱えている問題と、それに対する答えなんて違うのに、世間はそれを許してはくれない。常識的に考えなさい、みんなと同じように─何度言われてきたか僕はもう、とうの昔に忘れてしまった。別に人と違う考え方をしていたいわけじゃないけれど、幼いころから─少なくとも小学生のころにはそれを自覚していた─僕の考え方は、よく周りのクラスメイトと食い違っていたように思う。道徳の授業で先生が熱心に話せば話すほど退屈だった。クラスを仕切っていた優等生に見える女子生徒が、誰もが考えつくようなありきたりなことを雄弁に語れば周りは拍手して、先生もそれを過剰に褒めていた。最初のころは僕も何度か先生の指名で当てられていたし、小学生らしく素直に自分の気持ちをそのまま発言もしていた。ただその度に、もう少し何かないのか、そういうことは言ってはいけない、なんてことを言われて放課後に職員室に呼び出されていた。いつからか僕に発言の機会が回ってくることはなくなった。“皆さんの思ったままの意見を聞かせてください。自分の気持ちを隠すのが一番いけないことです。どんどん色んな意見を出し合いましょう”なんてことを偉そうに授業の冒頭で言っていたので、僕はそれに従っただけです。なにかおかしなことをしたつもりはありません。と、呼び出されたときに先生に言ったこともある。ただそんなときは、決まって“口答えはしてはいけない”や“屁理屈はよくない”なんてことを言われた。僕は口答えなんてしたつもりはないし、言われた通りのことを誰よりも忠実に実践しただけだったのだけれど。こんな態度が災いしたのか、学友なんてものは夢のまた夢だった。

 学年が上がるにつれて学校の教師たちからも煙たがられるようになっていった僕だったけれどただ一人、アザミという教師だけはよく話し相手になってくれた。呼び出されて怒られているときも、傍にいて僕の意見を聞くようほかの教師に促してくれたこともある。僕に対する説教が終わって部屋から出た後、職員室の中でアザミ先生が彼よりも立場が上の教師に怒られていたのを僕は知っていたけれど、そこでまた意見を言ったとすれば、先生がまたいわれもない理由で被害にあってしまうことも理解していたから、なにもすることはできなかった。
「自分の意見は大事にしなさい。怒られ続けても曲げる必要はないよ、小学校は義務教育とかいうやつのおかげで絶対に卒業できるからね」
 落ち着いた雰囲気のなかに時折、目の前にいるようで遠いどこかにいるような違和感を感じさせるような不思議な人だったから、アザミ先生と過ごした時間のことはよく覚えていて、大抵のことなら会話の内容まで自然に思い出すことができる。先生とは僕が四年生に上がってから五年生が終わるまでの二年間で実に多くのことを話したし、多くのことを聞いた。先生の考え方は当時の僕に生き方を指し示してくれたといってもきっと過言なんかじゃない。
「なあ、クスノキ。君のものの考え方は素晴らしいものだよ。誰もそれを邪魔する権利なんてない。大切にしなさい。絶対に」
 これが記憶にある中の先生の言葉で最後のものだ。その日は五年生の春休み最後の日で、暇つぶしのために学校の図書館に足を運んだ帰りに先生と少し話したときの言葉。
「約束します」
 当時の僕はたった一言だけそう返して、会釈して家へ向かった。きっと言葉の意味もよくわかっていなかっただろうに。

 翌日、六年生に進級して最初の、生徒と職員全員が集まって行われる集会のなかにアザミ先生の姿はなかった。後で知ったことだけど、どうやら昨日僕と会う直前まで行われていた数回に渡る職員会議で先生の転任が決定されていたらしかった。昨日は、これからも話す機会なんてものはいくらでもあると考えていた僕は素っ気ない挨拶だけで終わらせてしまったけれど、先生は僕の言葉をどれだけ信じて受け取ってくれただろうか。ただの社交辞令のような口約束として伝わっていなければいいんだけれど。お世話になった二年間のお礼すら言えていない。自分の中で当たり前に存在していたものが急に取り除かれたのだ、ということを徐々にハッキリと自覚していったとき、僕は初めて自分ではないほかの人を思い涙を流した。

 アザミ先生のいなくなった学校というもので、僕の居場所はいよいよなくなったといって差し支えなかった。六年生という、精神的にもまだまだ未熟で、少し大人のような振る舞いをしたがり始める時期において、同学年の子供たちからしてみれば僕のような存在は標的にしやすかったのだろう。僕はどちらかといえば程度の重い、いじめにあった。本来そういうときこそ教師の出番ではないのかとも初めのうちは思ったけれど、六年間で自分の評判を教師の価値観でいつの間にかどん底にまで落としていたことに加え、アザミ先生という後ろ盾ともよべる存在を失っていた僕へのいじめは黙認されていたように思う。学校で起きているいじめなどにおいて教師が役に立たない場合、次に頼るべきは両親であるべきなのだけれど、僕の家ではそれも望み薄というか、可能性は皆無に近かった。
 物心ついていたころから両親の夫婦仲は決して良好といえるものではなかったように思う。小学校に上がる前から夫婦喧嘩は絶えなかったし、食事も家族揃ってとった記憶はない。僕の中にある両親像というものは、お互いを罵っては暴力を振るいストレスの捌け口として子供に手をあげる。そんなものだ。こんな家庭環境に身を置いている僕としては、学校で受けているいじめについて話そうなんてこれっぽっちも思わなかったし、話したところでなんの解決にもならなかったであろうことは明白だ。これらの理由から小学校でのいじめは─あくまで小学生が行える範疇のものだが─とどまることを知らなかった。

 中学校に進学してからも同じ小学校から来た数人によって続いたいじめは、僕の想定していたよりも驚くほどにはやく終わりを迎えることとなった。理由は単純明快なもの二つ。一つは何をしても大した反応をしない僕へのいじめに飽きが来たこと。もう一つは、別のいじめの標的を見つけたからだ。まったく知らない小学校からきた小柄な男子生徒がその新しい標的になっていたが、別段助けようだとか、先生に相談しようとは僕は思わなかった。いじめられている当の本人である彼自身が彼の置かれている境遇に何も言っていなかったし、そうであるならば何も思っていないんだなと考えたからだ。あとあとになってから考えてみれば、きっと彼はそうではなく、やめてほしいだとか嫌だとか、もしかしたら殴り返してやるとでも考えていたのだろう。ただ僕はいじめられていてもやめてほしいと思ったことはなかったし、みんなそう思うものだとおもって育ってきた。僕にはそれが普通だった。

 いじめは受けていたものの小学校の授業は真面目に受けていたし、暇さえあればいろいろな本を読んでいたことが幸いだったのか、僕にとって中学校の勉強はそれほど難易度が高いと感じるものではなかった。だから授業を受けている間は合法的に時間が過ぎてくれる一番の暇つぶしだった。ありがたいことに進学した学校は強制的に部活に所属させるようなことはなく、放課後になると僕は決まって学校の図書館に足を運んだ。理由はこれもまた簡単で、家庭環境のせいだ。家に帰りたくない、というこの気持ちが理由だった。なにか部活動に打ち込めば時間も潰せたのだろうけど、部費なんか払える状況にない家だったから結果としてこういう形に落ち着いた。ただ学校は下校時刻が決められていたし、図書館は比較的早くに閉館してしまうのでぎりぎりまで学校にいるわけにはいかなかった。学校を出たあとの時間の潰し方に困る期間がしばらく続いたとき、僕は一人の少女と、大げさに格好をつけた言い方をすれば─運命的とも言える出会いを果たすことになる。



二章

 中学校での生活に順応し始めたころ、夏休みというものは訪れる。中学校に上がってきてから知り合い、新たな友人関係を築き始めたころから始まる長期休暇というものは、待ち遠しかったと感じるものであると同時に少し寂しい気持ちになるものなのだろう。クラスメイトたちのいついつに遊ぼうとか、このあと遊ぶときに連絡先教えて、なんていう会話が色んなところから聞こえてきて、少しうるさすぎるくらいだった。当の僕はといえば、友達と呼べるものは図書館の本くらいのものだったから、帰りのホームルームが終わったらすぐその友達のもとへ向かうことしか考えていなかった。
「よくもまあ飽きもせず毎日毎日通えるもんだね。一年の間にここにある本全部読みつくされそうだ」
 図書館のほかの教室より少し重いドアを開いて、窓際奥のいつもの席に荷物を下ろした時、そう声をかけられた。声をかけてきたのはこの中学の図書教諭であるクルミという名の女性だ。入学したその日からずっとここに通っている僕のことを気にかけてくれていて、最近はよく言葉を交わすようになった。授業を担当している各科目の教師を除けば、中学校でまともに話しているのは彼女だけだと思う。
「唯一の友達ですから。友達に毎日会いに来るのはおかしいことですか?」
「あら、アタシは友達じゃなかったか」
 そう言われてみれば、たしかにクルミさんと僕は友達と呼び合える間柄かもしれない。ただなんとなくそんな対等な関係ではなく、尊敬できるような人とでもいうようなところに位置付けていた。年齢が自分よりも上の人で僕と話してくれたのがアザミ先生だけだったから、知らず知らずのうちにそう思うようになっていたのかもしれない。
 そんな風に考えていた僕に彼女は、それと、と加えて言った。
「別になにもおかしくないよ。この質問に答えるの二回目」
「二回目?」
 彼女は答えずに僕の反対側に対して指をさした。
 そこには、肩あたりまで伸びた髪を上手にまとめて、手にした本にのめりこんでいる少女がいた。
「あの子にも君と同じこと言われたの。彼女も毎日ここにきてるんだよ。君は気づいてなかっただろうけどね」
 そろそろニンゲンのお友達も作りなさいよ、とだけ言い残して、クルミさんは事務室の奥へその姿を消した。思い返せばずっと─おかしな話だとは自分でも思うけれど、人間の、しかも同世代の友達なんて考えたこともなかった。そもそも友達ですらない同級生のクラスメイトと話した経験さえ、記憶には残っていない。正直な話、友達を作る─というと少し偉そうだから、友達ができると思っていたのは高校生になってからだと考えていた。まさかそれよりも三年はやくその機会が巡ってくるなんて。まあ、これも全部向こうで座る彼女にその気があればのことになってしまうから、ここはひとつ素直な気持ちで話しかけてみようとそのとき僕はあっさりと、ほんとうにあっさりとその気持ちになった。
「やあ。君は彼の友達だって話を聞いた。実は僕もそうなんだ」
 思い返せば我ながら偉そうな第一印象だと思う。けれど僕はほかにかけるべき言葉を知っていたわけではないし、このときかけたこの言葉は頭の中で推敲するまでもなく口から出たものだったから、仕方ないといえば仕方ない。僕が声をかけた彼女は、僕のほうに顔を向けて何も言わなかった。クルミさんと話しているわけだから恐らく無口というわけではないと思っていたけれど見当違いだったのだろうか。それともさすがに言葉が足りなかったのかもしれない。
「君が読んでいるその本、『虹の麓』だね。僕も読んだことがある。読み終わったらでいい、その世界を旅した気分を聞かせてほしいな。どうだろう、何かの縁ってやつで、僕と友達になってくれるとありがたい」
「旅って?」
「ああ、ごめん。僕は本を読んでいるときその世界を旅している気分になるんだ。つまりはただの感想だよ」
 私にはなかった考え方だと、彼女はひどく真剣に見える表情で考え込んでいた。
「あなたは色んなことを教えてくれる?」
「そうだね、知識は豊富な自信がある。僕はクスノキ。君は?」
 彼女はこれまた真面目な顔をして、なるほどとひとちたあとでこちらを見上げて言った。
「私はササユリ。よろしく、クスノキ」
 こちらこそ、そう僕は彼女に返して握手をした。

 それからというものの、僕が当初計画していた夏休みの図書館での過ごし方は大きく変わり、本を読みに行くという目的のほかにササユリと会うという目的がそこに書き加えられることとなった。図書館には大抵同じ本が二冊以上置いてあったから、同じ本を同時に読み始めてどちらがよりはやく読み終えることができるか、その本の世界を旅した記録をどれだけ話せるかなどのある種勝負ともよべるもので競い合ったりした。また僕は彼女の知らない世界のことを話し、彼女もまた僕の知らない世界のことを教えてくれた。

 一年生のうちに図書室にある全部の本を読み切る─という偉業はさすがに達成することはできなかったけれど、二年生の九月にもなれば大方の本は読み終えてしまっていた。そんな僕たちの興味は、小説から図鑑の類へと移行していて、ササユリは植物─とりわけ花の図鑑に強い関心を示していた。僕は読みはすれど、彼女ほど惹かれていたわけではなかった。ただ楽しそうに花の知識を付けていくササユリを見ているのが心地よかった。
「クスノキはそうだな、なんの花だろう」
 ふいにそんなことを言われた僕は、普段なら適当で差し障りのないことを言って過ごすはずだったけれど、その言葉については柄にもなく真剣に考えてしまった。たくさんの花たちに囲まれた世界の旅を続けている彼女が僕自身をどんな花に例えてくれるのだろうかと、ただ純粋にそう思った。
「水仙。白いやつね」
 結論を出したのはササユリではなくクルミさんだった。貸出カウンターに肘を立てて笑いながらそう言った。なぜその花に例えたのかの理由は言ってくれなかったから聞こうとしたら、後ろでササユリが僅かに笑いながら確かに、なんて言って納得していたから僕は少し冗談めかして言った。
「ひどいな、教えてくれてもいいのに」
 クルミさんはササユリに教えてあげなとでもいうような顔をしていた。
 ササユリはそれを受けて、
「水仙、そのなかでも白い花弁を咲かせる水仙の花言葉は『尊敬』とか『神秘』、『素朴』なんだよ。どこまでも正直なのに周りにはそれを不思議がられるクスノキに確かに似てる」
 そう言った。
 水仙という花にそんな花言葉があったなんて知らなかったけれど、説明されてみればたしかになるほどと思える理由だった。
「それなら納得できるね」
「ま、水仙はエゴイズムの花だからそこもね」
 クルミさんがさらにそう付け足していった。自分の意見はできる限り曲げないように過ごしている僕の言動は実際周りからみればエゴに映るのも頷けた。
「それにしてもクルミさんが花に詳しいなんて知りませんでした」
「まあ言ったことなかったからね。そっちに詳しい知り合いがいたってだけ」
 そう言った彼女の顔はどこか悲し気のあるように見えたけれど、一瞬だったために確信を得るには至らなかった。

 修学旅行など、生徒たちが喜んで然るべき学校行事も僕には関係のないことだった。旅費が用意できない僕はそもそも行けるものではないし、何より僕には行きたいという気持ちもなかった。担任である教師はなんとかして連れて行ってやるといってくれたけれど、僕はそれをできるだけ丁寧に遠慮した。ハッキリ言ってしまえば迷惑だった。

 みんなが修学旅行を楽しんでいる間も、僕は図書館に通い続けた。ササユリはというと、僕と同じ理由で修学旅行には行っていなかった。ただ彼女の場合は僕のような劣悪な家庭環境というわけではなく、祖父母のもとで暮らしているからというものだった。

 中学校生活三度目の秋を迎えるころ、僕とササユリは学校の蔵書のすべてを読み終えていた。これは僕の人生において数少ない、誇れるものといえるかもしれない。

 高校へ向けた進路を考え始めたころ、僕たち二人は別に話し合ったわけでもないのに同じ高校を進学先として決めていた。必要最低限のお金だけは出してくれていた両親だったから、高校の入学金は何も言わずに払ってくれたようだった。家から遠く離れた学校を選んだことに関しては何も言わず、数日後そちらのほうが都合がいいと言わんばかりに、一人暮らしをするためのお金がリビングのテーブルの上に置かれていた。

 それから数週間後、僕は地元から遠く離れた町へ引っ越した。


三章

 高校生になると、小学校や中学校と同じようにはいかなくなる。特に僕の場合はそれが顕著で、一人暮らしを続けていくためにはいくつかのアルバイトをしなければならなかった。そのせいもあって、僕が学校の図書館で過ごせる時間は中学校時代の僕が聞いたらまず信じないであろうというところまで、比べるまでもなく少なくなった。一方ササユリも今まで通りというわけにはいかなくなっていた。僕と違って家を離れずにこの高校を選んだ彼女は、登下校に時間がかかるため、あまり長く学校に留まるわけにはいかなかった。僕たちは休み時間などの限られた時間を惜しみなく図書館に捧げた。アルバイトがない日にはササユリと一緒に帰ることがほとんどだった。高校生にもなって、男女が二人で下校しているとなると、根も葉もない噂を立てられるものだ。
「別に気にしてないし、クスノキとならいいかな」
 前に一度聞いたらササユリはそう言ったから、僕たちは一緒に帰ることをやめなかった。僕自身も嫌な感情は抱いていなかったからそうしていた。ある日の帰り道、いつものように帰るつもりが、普段通っている道が舗装工事をしている影響もあって、通りが混みあっていた。だから僕たちはいつもとは違う、少し回り道をして帰ることにした。

 そして、そこで見つけた。普段からそこまで人が通っていないことが明らかな裏道に店を構える、小さな花屋を。

 初めてその花屋を見つけた時、僕たちの足は無意識のうちにその店へと向かっていた。その店は、人々が数えるほどしか通らないであろう閉塞的な世界に、実に多くの色を添えていた。見方を変えれば、そこに咲く無数の花々が裏道という世界の色をすべて奪っているかのようにも見えた。

 その花屋はそれほど大きくないながらも、多種多様な花を売り出していた。薔薇ばらにガーベラ、カーネーション。向日葵ひまわりに─あれは芍薬しゃくやくだろうか。

 開花時期が異なる色んな花が飾り売られている。造花やドライフラワーもあるのだろう。店の中は静寂に包まれていて、しばらくの間僕たちはたくさんの花の鮮やかさとみやびな香りに視覚と嗅覚を預けていた。だから僕は、ササユリに名前を呼ばれてもすぐには反応できなかった。
「聞こえてる?」
「あ、ああ、ごめん。なに?」
 驚きながらもそう返し彼女のほうをみると、そこにはここの店員だと思われる二人の男女が立っていた。年齢的にはクルミさんと同じくらいか、それより少し上といったところだろうか。
「やあ、いらっしゃい。ここに学生の客が来るなんて珍しいな」
「いつもの道が工事をしていたから、回り道をしたら見つけたんです」
 声をかけてきた男性は優しく柔らかな笑みを浮かべて、
「そうだったんだな。花が好きならゆっくりしていくといい。退屈はしないと思うぜ」
 そう言った。

 それからというものの、僕とササユリはこの裏道を通って帰ることが普通になった。僕はアルバイトが、ササユリは家のことがあったから頻繁ではないし、そこまで長い時間滞在するわけでもなかったけれど、僕たちは足繁くそこへ通った。もとから一つのところへ通い詰めることに慣れていたこともあって、特に苦ではなかったし、本当に自然に通っていた。そこで働いている二人のうち、男性のほうはツツジ、そして女性のほうはノマチという名前だった。店で話しているとき、大抵の場合僕はツツジさんと、ササユリはノマチさんと話すことが多かったけれど、もちろん逆もあったし、四人で話すことも少なくはなかった。ツツジさんが話すのは、決まって彼自身が最も好きだという花の話だった。彼は四人でいるときやササユリと話すときは基本的に聞き役に回る男性だったが、僕と話すときに限ればとても雄弁で饒舌な男性だった。
「どうしてその花が一番なんですか?」
 何度目かの話のときに僕は彼にそう聞いたことがある。ツツジさんは、嬉しそうとも照れ隠しとも見える顔で、
「初めて見たとき、奪われた。一瞬だ。これまで見てきたどんな花より可憐でなぁ。この世にここまで美しい花があるんだって思ってからは、もう止まらなかった」
 そう言った。それからというもの、彼は時間さえあれば毎日のようにその花を見に行ったという。少しでもその花に目を奪われていたかったという。
「花に声をかけてやるとよく育つって言うだろう?だから俺はその花に声をかけたんだ」
 嬉々として語っているときの彼の言葉は独特の雰囲気を持っていた。端的に言ってしまえば、ツツジという男性は話すのが上手な人間だった。彼の話なら何時間でも聞いていることができた。だから彼が何度その花の話をしようと一切の飽きはこなかった。毎度新しい話を聞いているような気分さえするほどだった。

 その一方で、ノマチさんはどんなときもあまり積極的に話すタイプの女性ではなかった。彼女と話すときは基本的に僕がなにかを話し、彼女からはいくつかの質問が飛んでくる程度のものだった。僕が質問したことには基本的にはなんでも答えてくれたけれど、その程度だ。そんなノマチさんだったけれど、ただ一度だけ彼女が自分から話したことがあった。その日はツツジさんの体調が優れないらしく、店にいたのは彼女一人だけだった。僕と、ササユリと、ノマチさん。普段そこにない空気間の影響か、何とも言えない雰囲気が流れたとき唐突に彼女が言った。
「わたしの一番お気に入りのお花、なんだかわかる?」
「芍薬の花だと思います」
 少しだけ悩んだあと、ササユリはそう答えた。ノマチさんは整った顔を綻ばせて、当たり、と言った。
「中でも、わたしのお気に入りは赤いお花の芍薬なの。その花言葉は『誠実』。綺麗な見た目と芳しい香りに加えてまっすぐな花言葉をもつお花」
「そのブローチも、芍薬だったんですね」
 僕が彼女がいつも身に着けているブローチを見てそういうと、彼女は静かに、だけれど特別の笑顔で
「ええ。彼がくれた宝物よ」
 と、そう言った。そのとき僕はその端正な微笑みのなかに隠れた、なにかを見つけ出していたのだと思う。そう思う。



「クスノキ、今日の夜って暇?」

 高校生になって初めての冬に差し掛かった十二月の半ば、僕はササユリにそう聞かれた。別に大した予定もなかった僕は、
「アルバイトが終わったあとなら暇だよ」
 と答えた。何の用事があるのか聞いてみたけれど、ササユリは教えてくれなかった。僕としても絶対に今知りたいわけでもなかったから、その場でそれ以上追及することはなかった。

 学校での授業が終わり、僕はそのままアルバイト先へと向かった。

 いつものように自分の仕事をするだけでよかったはずなのに、その日はあまり仕事が手につかず、先輩から軽く注意を受けるほどだった。

 それでもなんとか仕事を終え、あらかじめササユリと約束をしていた小さな公園に向かうと、すでに彼女はそこのベンチで座って待っていた。
「やあ。遅くなってごめん」
「クスノキ、もしかして緊張してる?」
 ササユリは立ち上がってズボンを払いながらそう言った。
「どうやらそうみたいだ。今までこんな経験がないからかな」
 何の用事だったのかと口を開く前にササユリが歩き出してしまったから、僕は少し早く歩いて彼女についていった。

 普段は歩かない夜の街並みに、僕たちはしばらくの間色んな思いを巡らせた。ここはこんな顔を見せるんだとか、あの店はもう閉まってるんだとか、そんなようなくだらないものだったけれど、僕はそんな時間がたまらなく好きだった。
「そうだササユリ。僕が一番好きな世界を教えてあげるよ」
 ふと今日なら、行ける気がした。僕は彼女の手を引いて、まだ人々の生活感が残る大通りを抜け、街灯もないような狭く小さな交差点へ連れて行った。
「ここ?」
「うん。だけどまだだな。その世界はほんのひと時なんだ。でもね、ササユリ。その一瞬だけは、世界が止まるんだ」
 まだなんのことかを理解できていないようなササユリを見て、僕はもうすぐだから目を閉じてと告げる。そのまま十数秒が経って─
「いまだ」
 目を開いたササユリと、僕の前に現れたのは、車も人もいない中、置かれた信号が全部赤に染まる一秒未満程度の世界。
「空気が澄んだ冬の季節に、すべてが止まる一瞬。その中で僕たちだけが動いている世界。これが昔から大好きなんだ」
 そう言った僕の声が聞こえていたかはわからない。ササユリはただ、
「私も好き」
 とだけ言った。

 その後はお互い無言で夜の道を歩いて、もとの公園に帰ってきたときに再びササユリが口を開いた。
「これを渡すために呼んだの。遅くになっちゃって申し訳ないけど」
 彼女が僕に渡してきたのは、手袋だった。なぜだかわからないというような表情が出てしまっていたのか、ササユリはもうすぐクリスマスだからと言った。
「冬休みはたぶん家にいるから、渡せるうちに。さっき手冷たかったしいい選択だと思うな」
「ありがとう。ただそうとわかっていれば僕も何か用意しておいたんだけど」
 苦笑いを浮かべながらそう言った僕に、ササユリは出会ったころから変わらない清らかな笑顔で言った。
「もうもらったから大丈夫」
「もしかしてさっきの景色のこと言ってる?」
「私はあれでよかったから」
 そう言われてしまうと、これでいいんだろうと不思議と腑に落ちてしまう。ササユリがいいならこれでいいのだろう。
「ならいいけど。冬休みまでもう少しあるけど、入ったら体に気を付けて」
「そっちもね」
 その日はそのままササユリを駅まで送っていって帰った。

 冬休み前の数日間、僕たちは普段通りの生活を過ごした。最後の日は帰りに花屋に寄って帰った。そうして迎えたササユリのいない冬休みに、事件は起きた。


四章

 ササユリが実家で過ごしている間も、僕はいつもとなんら変わらない生活だったが、学校がない分時間が増え、町の図書館やあの花屋で過ごす時間が多くなっていった。初めのうちはササユリがいないことに疑問を抱いていた二人も、僕がざっくりとした事情を話せば理解してくれた。必然といえばそうなるかもしれないけれど、僕らは三人で話すことがほとんどになった。とは言っても、基本的に話すのは僕やツツジさんで、ノマチさんはやはり多くを語りはしなかった。僕は今までササユリが知っている花の知識を頼りに会話をしていたから、彼女がいないとなると花屋で働く二人の話が少し難しくなる。中学時代に関心を持たなかった弊害がこんなところで出てくるなんて思いもしなかった。何か新しいことを自分から知ろうとするのは思っているよりも大変なことだけれど、そんなとき僕はいつもこの言葉を思い出すようにしている。
「どんな知識にも無駄はない。人間は知識欲の生き物だから、知ろうということをやめたときそいつは人じゃなくなってしまう。死んでしまうんだよ。生きるために、人であり続けるために知り続けなさい」
 昔アザミ先生が言っていた言葉だ。僕自身勉強ができなかった、苦手だったということはないけれど、この言葉を思い出すと不思議と理解が早くなる気がした。だから何か新しいことを始めるとき、新しいものを知ろうとするときはこの言葉を思い出す。アザミ先生の色んなことに対する考え方は僕には全部新鮮だったから、僕は
「どうして先生はたくさんのことを知っているんですか」
 そう聞いたことがある。先生はただなんでもなさそうな表情を崩さないまま静かな声で言った。
「知っているわけじゃない。これが私の考え方であり、出した答えであるというだけのこと。私はずっと独りだったから考え続けただけです」
 そのときの僕は、なるほどとしか言えなかった。そのあと先生は同じような質問を僕にしてきた。
「では、君は自分の考え方をどう説明しますか?」
 考えてみれば、似ていたような気がした。僕はアザミ先生に出会うまで独りだったと言える環境で生きてきたから、自分で考えて自分なりに結論付けるしかなかった。
「だから君の考え方は素晴らしいものなんです。私は君の見ている世界がすきですよ」
 先生との会話を思い出しながら僕は町の図書館で花に関する本を読み漁った。これだけ読めば、ササユリには追いつけなくとも多少の話はできるだろう。

 次に花屋に足を運んだとき、二人は接客に追われていたので僕はしばらく店内の花を眺めて過ごした。改めて見てみれば、ここは本当に多くの花を置いている。そういえば中学生のとき、ササユリは僕のことを花に例えようとしたことがあったことを思い出した。実際に例えたのはクルミさんだったけれど。そこで思う。ササユリは、例えるならばどんな花だろう。何種類か考えてみたけれど、候補は上がりさえすれど、これだという花は出てこなかった。
「やあ、待たせて悪かったな。待たせたお詫びに俺の大好きな花の話を聞かせてやるぜ」
「そんなに待ってないですよ。今日はその花のどんなエピソードなのか楽しみです」
 接客を終えたツツジさんは僕のほうへ来たことを合図にするかのように、いつものように自分のお気に入りの花について語りだした。

 話がひと段落したとき、座って話を聞いていたノマチさんを含めた二人に僕は聞いた。
「突然ですけど、ササユリを例えるならどんな花だと思いますか」
 そうだな、とツツジさんはしばらく考えていた。ノマチさんのほうはすでに答えを出しているような顔だったけれど、ツツジさんが答えるのを待っているように見えた。
「俺が彼女を例えるなら、ラナンキュラスだな。あの子は不思議な魅力があるように感じる」
 一理あるな、と僕は思ったけれど違った。というより彼からの答えは正直なんでもよかった。初めから気になっていたのはノマチさんから出てくる答えで、それを聞きたくてわざわざ二人に聞いたといってもいい。
 しばらく考えたあと、彼女は一つの花の名前をあげた。僕は満足だった。さっき自分でいくつか候補を出していたうちの一つが、まさに彼女の口から出た花の名前だったということもあっただろう。
 どうやらツツジさんは彼女の答えを疑問に思ったようだったけれど、ノマチさんはそれに答える代わりに少しだけ僕のほうを見た後、わずかに微笑んだだけだった。
 僕は、ありがとうございましたとそう言った。


 冬休みも半ばに差し掛かったとき、僕はツツジさんと献花についての話をした。献花というものは花を捧げる行為を指す言葉だけれど、神様や御霊前に供えることやお供えされる花そのものを献花と呼びもする。

 その日は自分が献花として捧げられるならどんな花がいいか、というような話をしていた。半分、いや確信に近い形で予想していたけれど、ツツジさんの答えは彼が愛してやまない一番のお気に入りの花だった。
「でも献花としてっていうのは少し違うな。俺は死ぬときはその花の前でがいいんだ。なんならその花に殺されたっていい」
 なんてな、と彼が笑うのと同時に、後ろで座りながら花瓶を洗っていたノマチさんが手を滑らせたのか、花瓶を落として割れた音が響いた。
「珍しいな」
 大丈夫かと声をかけつつ彼女のほうへ向かったツツジさんに、大丈夫と返すノマチさんの声は心なしかいつも聞いていた声とは違ったように聞こえた。

 思えばこのとき、僕はこれから起きる事件を今ここで止めることもできたはずだった。ただそんな気は一切起こらなかった。


 冬休みが終わり、初日の授業が終わった放課。久しぶりに会ったササユリが僕のところへ来た。
「クスノキは聞いた?あのお店のこと」
 数日前に、近くの花屋で事件があったらしい。殺人事件。あまり名の知られていない辺鄙な街の事件だったからか、ニュースで取り上げられもしない程度のものだった。
 事件が起きた裏道沿いの花屋は、学校帰りの僕たちが時々足を運んでいたあの場所だ。
 被害に遭って亡くなったのは、その花屋で働いていた男性。誰かがそう言ったわけではないけれどわかる。つまりはツツジさんのことだ。
 そして事件の容疑者として疑いをかけられているのは同じくそこで働いていた女性。ノマチさんだ。素直な気持ちを言うならば、悲しい事件だ。僕は─おそらくササユリも、あの花屋で過ごす時間は嫌いじゃなかった。どちらかといえば好きだった。あの二人と話す花の話は好きだったし、なによりも居心地がよかった。裏道の世界の色彩を奪いつくしたかのようなあの店は、そこに生きる命も奪ってしまったようだ。町を通る人々や学校の生徒の話を聞く限りなかなか凄惨なものだそうだ。ただ「らしい」という話は尾鰭が付くものだから実際のところはわからない。決まってみんなが言うのは、真っ赤な花が不自然に現場に落ちていた、というものだった。
「もちろん聞いたよ。それに、犯人は彼女で間違いないとも思う。僕はこれから会いにいくつもりなんだけど、君は?」
「でも、ノマチさんはあれから見つかってないんじゃないの?」
 怪訝そうな顔を見せるササユリに、僕は言う。
「大丈夫。見当はついているよ」
 僕は、言えばササユリは一緒に来てくれる確信があったし、実際そうなった。なにより、僕が一人だけで行ったところでなんの意味もない。彼女がいないとだめだった。
「そうだ。それと一人連絡してほしい人がいるんだ」
 学校からの帰り道、僕たちは普段とは反対の道を歩いていた。ササユリは僕が記憶している限り来たことがない道だ。ただ、僕は冬休みの間に一度だけ訪れたことがある。僕と、ツツジさんと、ノマチさんの三人で。
「今向かっているところは、あの二人にとって特別な場所なんだ。僕は冬休みのうちに一度連れてきてもらった」
 ササユリは僕の言葉に黙って耳を傾けている。そうするしかないといえばそうなんだけれど、ずっと黙っているのは比較的新鮮なものだった。
「きっと彼女はそこにいる。そのとき君は君が思ったことを言えばいい」
 しばらく歩き続けて何本か道を抜けたあと、そこは唐突に姿を見せた。

 見渡す限りに花が咲き誇る、彼女たち二人だけの花園。咲いている花はすべて芍薬の花だ。
「長い時間をかけて植えて、育ててきたんですよね」
 その芍薬の花たちに囲まれて咲いているように立っていたのは、事件の容疑者であるノマチさんその人だった。


五章

 花たちに彩られた中心で、ノマチさんは普段は丁寧に纏めている長い髪をほどいて風に棚引かせた。ここに咲いている芍薬の花は、彼女のお気に入りである赤色のものだけではない。ピンク色のものに、白色のものもある。
「ピンクは『はにかみ』、白色のものは『幸せな結婚』でしたね」
 彼女は言葉では返さず、手にしていた三本のそれぞれの色の花を咲かせた芍薬をこちらに向けて風にのせた。それが答えというわけだ。
 色を無視した、芍薬の花全般を指す花言葉は確か─
「恥じらい」
 僕とノマチさんの間で交わされたやり取りをみて、ササユリは大体のことを察したらしい。花言葉を僕の代わりに告げたササユリの声は力強いものに聞こえた。僕はノマチさんに聞いた。
「僕がツツジさんと話した献花の話、知ってますよね」
「献花の話?」
 ササユリが知らないのは当然だ。ササユリのいない間の出来事だから。
「君が居ない間に話したんだ。お供えされる献花はどんな花がいいかってね。彼はいつも僕に話してくれていた大好きな花の名前を挙げた」
 僕の話を聞いているササユリの顔はいつもと変わらない真剣そのものといった顔だったけれど、ノマチさんはいつもの彼女からは想像できないような恍惚にも似た表情をしていた。
「ツツジさんは、その花に囲まれて─看取られて死にたいと言った。加えて、死ぬのだってその花が原因なら構わないとさえ言ったんだ」
「その花には人を殺せるくらいの毒性があるっていうこと?」
 真面目でまっすぐなササユリの考え方に思わず笑ってしまう。毒性。たしかにそれは間違っていないんだと思う。
「今思えば羨ましいな。僕は夢が叶ったことも、夢を見つけられたことすらもないから、自分の望んだ最期を迎えた彼のことが。彼は自身が最も愛した花の隠れた毒に殺されたんです」

 この世界の現代で生きている僕たちにとって、普通というものは何を、どういったものを指すんだろう。“一般的”“常識”“正常”そして─“誠実”。

 ツツジさんはその花で死にたいとは言っていたけれど、勿論冗談のつもりだったはずだ。言ったあとに笑っていたことからもそれはわかる。二人は一般的に見たら仲睦まじい恋人だったのだと思う。お互いがお互いを想い、愛していたのは事実だろう。ただ─僕からしてみれば少しだけ、そうではなかっただけで。

 周りからすれば普通だったとしても、僕にはその正常が言う異常を彼女から感じていた。ササユリを花に例えるなら何か、の話をしたときに一番強くそれを感じた。僕らが生きるこの世界では、大人になるにつれて自分を貫くことが難しくなる。だからアザミ先生に考え方を曲げないと約束をした僕も、少しの妥協くらいなら覚えたし、覚えざるを得なかった。けれどササユリはひたむきに自分の道を歩こうとする。中学生からの付き合いだから、長いと言える関係性かはわからないけれど、そんな性格のために人とぶつかることも珍しいことではなかった。それでもササユリは自分を貫く。貫けてしまう。そんな彼女を見た“普通”の人なら、まず彼女には前向きな印象を持っておかしくないのに。

 世間から言えば、歪んだ狂愛。僕たちにしてみれば、命を奪えるほどの誠実な愛。

 彼の殺されてもいいという気持ちを誰よりも誠実に受け止めた、愛されたじょせい。もちろん僕は人を殺すつもりなんてものはないけれど、彼女の考え方には心の底から同意できる。僕はこの殺意あいじょうによって起きた事件が悪いものだとは思わない。だから僕はササユリをここに連れてきたんだ。
「僕は、あなたのその誠実さというものがよくわかります。言われた通り彼の言葉に向き合ったんだから」
「それでもここに来たのは、彼女のため」
 ノマチさんはそう言ったけれど、僕からしてみれば少し違う。
「それもあります。けれど、ササユリだけじゃなくあなたのためです」
 僕が言うのはこれくらいでいい。というよりも、もう僕には言うことがなくなった。別に僕は彼女を裁きたいわけでもない。償いを求めるなんてこともない。ノマチさんに対して僕が思っていることを伝える。僕が個人的にしたかったのはこれだけで、あとはササユリたちが話せばいい。
「クスノキはそれでいいと言ったけど、私はそう思えない。クスノキも同じように人を殺すの?」
「いいや。気持ちはわかるけれど、実際にそんなことはしないし、できないな」
「それも違うよ」
 少しだけ、僕は自分でも意外なほどに驚いた。今までササユリとは色んな話をしてきたけれど、僕が言ったことをここまでハッキリと否定されたことはなかった。
「人を殺した人の気持ちがわかるなら、それは自分にもできるっていうことだよ」
 今度も、僕は自分でも意外なほどに納得した。何か言葉を返そうとしたけれど、口からは息が抜けていっただけだった。
「誠実さっていう気持ちは、人を殺さない。ノマチさんが初めからツツジさんに対して思うままに接していれば、きっとこうはなっていなかったと思う」
 ササユリの言葉を聞いて、初めて、少しだけ、ノマチさんの表情が揺れたように見えた。やっぱりササユリを連れてきてよかったと、そう思う。
「あなたは誠実じゃない。ツツジさんに自分を隠して嘘をついたから」
「─誰もが、あなたたちのように素直に生きられるわけじゃないのよ。あなたたちより少し長く生きてるわたしはそれをしってるの。だから隠すの」
 彼女の考え方は何度も言うように理解できるけれど、彼女がなにを抱えてきたのかは僕たちにはわからない。だから僕はササユリに頼んだんだ。

「花屍累累。今のあんたの顔ね」
 俯きながら影を差していたノマチさんが、驚いたように顔をあげる。向ける視線は僕とササユリの向こう。
「クルミ……あなた、どうしてここに」
「アタシのお友達二人に呼ばれたの。まったくとんでもないことしたもんね」
 中学生のころクルミさんが言っていた、花に詳しい知り合いというのはノマチさんのことだった。花屋に通うようになってしばらくしころ、僕とツツジさんが話しているときにツツジさんが昔のアルバムを見せてくれたことがあって、そのなかにノマチさんがクルミさんによく似た女性と写っているものがあったことで知った。だから僕はササユリに頼んでクルミさんを呼んだのだ。
「昔、よく花を枯らしてたアタシにあんたが言った言葉。色んな花が枯れてるのを見て、死屍累累に例えて作った言葉」
「懐かしいこと、覚えてるのね」
「あのときアタシ言ったはずなんだけどな。そのままの、どっか独特で面白いあんたで居なって」
 クルミさんによれば、学生時代に仲のよかった二人だったけれど、ノマチさんが周りと違う自分を隠し始めたことで疎遠になった、ということだった。今思えば、クルミさんが僕やササユリを気にかけてくれた理由もここにあるのかもしれない。クルミさんも、自分は大切にしなと言ってくれていたから。
「まだ、大丈夫。正直なまま全部言えばいい」
 夕方、日が沈むころに頬をほとばせて流れる涙は、雨を受けて雫を流す美しい花のようにも見えた。


 ノマチさんが立ち去ったあとの花園で、僕ら三人は沈む太陽の光を受けていた。
「大したことできたようには思わないけど、これでよかったかな、クスノキ君?」
「ええ。それに大したことだと思いますよ」
 首を傾げるクルミさんと、何も言わないままのササユリに僕は言う。
「昔、お世話になった恩師が言っていました。ほどけてしまった糸を、ほどける前とまったく同じように結びなおすのは至難なことで、人と人の関わりもそれと同じだ、と。一度離れてしまっても最後まで結び続けようとしたクルミさんは凄いと思います」
 ありがとう、と少しだけ間をおいて笑い、背を向けた彼女に僕は続ける。
「急に呼んでしまってすみませんでした。思ってたよりずっと早くて、少し驚きました」
 たまたま近くにいただけよ、と言った彼女は、今度こそその場を後にした。

「ねえ、クスノキ」
 なんだい、と僕は答える。
「私はこのままでいいと思う?」
 君はどう思う、と僕は言う。
「私はこのままの私でいるのがいいな。曲げたいとは思わない。変かな」
「いいや。─普通だよ。それでいいんだ」
 だけど、とササユリは前を向いていた体を僕のほうに向けて、続けて言った。
「私にはきっと言葉が足りないんだと思う。だからクスノキ」
「なにかな」
「もっとたくさんの言葉を教えてほしい。世界のことだって」
「それは長い付き合いになるね」
 僕は足元に咲いていた赤い色の芍薬を一本取ってササユリに渡した。

 まずは、僕の世界から誠実に伝えていこう。百の世界をササユリに教えたとき、この気持ちを教えてみるのも面白いかもしれない。

 僕たちにとって、普通というものは何を、どういったものを指すんだろう。“一般的”“常識”“正常”そして─“誠実”。

 それはきっと、今の在り方だ。生き方だ。

 それぞれの誠実さが実っているんだ。今ここに咲く赤の芍薬の一本一本にも。


                     了


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どうも、よわのあきです。

この短編小説は高校生くらいのときに趣味の範疇で書いたものに一部手を加えて編集したものです。
といっても、編集前のものを知っている人が本当に一握りしかいないので、もしこの記事が不特定多数の目についた場合、これがこの小説だと思ってもらっても全く問題がないものとなっています。編集前を知っている人が読んだ場合、違いを見つけることができるという楽しさがあるかもしれません。

しかし、僕は例によって極力人目につかないことを前提かつ信条としてnoteを楽しんでいる人間なので、大勢に見られることは想定していないんですね。
なので、本当に限られた方の目に触れて、少しだけでも楽しんでもらえたらと思うのです。

それでは、普段の記事とは違いましたが、次の自分へ。

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