変わらないはずの想い、変わっていく心

前々から少なからずの自覚はあったし、きっとそうなんだろうな、とは思っていたのだけれど、先日知人の女性に言われたことで客観的に見てもそうなんだと確信できたことがある。
どうやら、僕は思いや考えを伝えることが不得手であるようだ。自分の心、頭の中にあることを口に出す前に、「それは本当に伝えるべきことなのか」といったフィルターを通してしまって、その結果、言葉にしないで終わってしまう。
自分のなかでは、決してそれが良くないことだとは思っていないのだけれど、相手によっては好ましくない反応をされてしまうこともまた事実として存在している。言ってしまえば、恋人関係にあるような間柄の相手がそれだ。かつて恋人であった相手や、相手のほうから好意を寄せてもらっていた相手と会話するにあたって、どうやらこのフィルターは良くない方向にその力を十全に発揮するらしい。
何か言いたいことないの、だとか
あれそれについてどう思う?だとか
そんなことを言われたときに、まあこんなことに限らず日常的な会話もすべてそうなのだけれど、僕は言葉を返すことができない。

言いたいことなんて、あるに決まっている。なければ、ないと言えるのだから。

そうこうしているうちに、相手を不快な思いにさせてしまうようだ。「わたしに興味ないんですね」というようなことを言われたこともある。興味があったかと言われると自分のなかでも怪しいことはその通りなのだけれど、かといって全く無関心かと言われたらもちろんそれも違う。

前置きを長々と書いてしまったけれど、要するに僕は言葉を使う際に「使うべきかどうか」に重きを置きすぎてしまうらしい。
そんなようだから、「いつか書こう」と思った文章すら書けなくなっているのだろう。
短文からそこそこの長さの文まで、何かを書くことは漠然と好きなのだけれど、とりわけ僕はメモ書きを好む傾向にある。理由は自分でも不確かだ。明らかにしようとも思わない。とにかくよくメモ書きじみたことをする。最近ふとそのメモを見返して、「ああ、これはいつぞやこのタイトルで文章を書こうとしたんだな」と思い出したものがある。
何かの縁、といっても自分で作り出したものだから縁と呼べるかは怪しいけれど、何はともあれ僕はそのタイトルに従って何か書いてみようと思ったわけだ。その結果、今回のこのnoteに至っている。結果はこの通りで、書けなかった。
いざ書こうと思ったとき、例のフィルターに遮られてしまって、そこからはもう書けないに染まってしまっていた。「本当にこれは今の僕が書いてもいいものか」という、答えが自分のなかからしか湧き出ないような疑問一色になってしまった頭は、もう元には戻らなかった。
このタイトルで何か書こう、と思ったのは当時の僕であって、今の僕ではない。書きたい、という想いは2人の間で共通しているはずなのに、心は異なっているみたいだった。
言葉の本質は、もっと簡単でいいはずだ。もっと自由に、もっと自在に扱っていいはずだ。
だけれど、僕にはそれがどうしてもできないらしい。重く扱いすぎた言葉は、時として最も軽いものになってしまうように感じる。

ただ、まあ、こうなってしまっている以上はそれも全部仕方のないことなのかもしれない。
いつか、僕のなかに確かに存在する濾過装置も機能しなくなっていくのだろうか。
それは、なにかどこかでとても寂しいような気がしている。

それではいつか、次の自分へ執筆の手を託して、今回はこの辺りで終わりにする。

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