なんでもない1年の終わりに、僕はまだ夢を見ている

どうも。よわのあきです。
前回の投稿から、2ヶ月以上空けているけれど、別に投稿ペースを定めてやっているわけでもないから、気にはしていない。先月の末に、“投稿すれば連続記録ですよ”といったような文面が表示されたけれど、僕は趣味娯楽の類が義務のそれへと変質することがとても苦手で、それを見た瞬間に気持ちがどこかへ行ってしまった。
2023年という年の最後の日だから、というわけでもないけれど、特にやらなければならないこともないから、締めくくりという体裁で書いておいてもいいだろう。

僕は、自分に対して向けられる幸せといったものを素直に受け取ることができない。何かいいことが起きているときや、これから幸福が訪れるかもしれないという状況をに対して、怖さや苦しさを覚えている自分がいる。
どこかの誰かは今も不幸な目にあっているのに、だとか、もちろんサバイバーズギルトを抱えているとかそういうことでもない。
理由ははっきりとはわかっていないままだけれど、とにかく僕は自らを幸福のなかに置いておくことがうまくできない。

今年は、どんな1年だっただろう。
来年の3月には、このまま過ごしていれば僕は大学を卒業しているはずだ。まあ、入学したときにちょうどコロナが流行り始めた影響で、1年半〜2年に届くか、というくらいしかキャンパスには足を運んでいないから、これといって思い出なんていうものはない。大学という場所での親しい友人などというものはもってのほかで、そもそも人付き合い自体が下手な僕に大学時代での知り合いもいない。見事に空洞で、いつかこの思い出のなさが何かの形で利用されないことだけを祈っている。
振り返ってみても、自分1人で積み上げたものは何もないような気がする。
それでも今年は、出会いがあった。
本、酒、それに、人。
僕にはもったいないとさえ思える大きな出会いには恵まれた年だったかもしれない。
何かの巡り合わせが運んでくる幸せな時間は、いつか僕の前に遥かに大きな不幸が姿を見せる前兆だと、僕はそう思っていた。いや、今でもまだその考えは心や頭を超えた、僕というものの深い部分に根を下ろし続けている。だから、思っているとするほうが正しくはある。
それでも、僕は少しずつ、自分の幸せを信じようとする努力をするようになった。
ここまで書いておいてなんだけど、僕は別に不幸になりたいわけではない。ただ単純に幸福に対する懐疑心が強いだけで、不幸そのものを強く願っているというものとはまた違う。

幸せな時間や幸せな夢は、そこから目覚めたときに大きな恐怖を運んでくる。
自分の幸せが紛い物であったことを知覚するとき、それはより一層大きな力を持って目の前に現れる。そうであるならば、はじめから幸せというものを疑っていたほうが楽で、ずっとそうしてきたから今の僕がいるのだろう。
でも、少しずつ、幸せに付き合うことをしてもいいのかもしれない。これは決して、僕が前向きになったとか、なろうとして変わる努力をしているとか、そういうことではない。
仔細は省くけれど、ただそうしてみてもいいと、思ったというだけの話だ。

1年が終わろうとしている。なんでもないただの1日のはずだけれど、世界は少し騒々しい。
変わることは苦手で、嫌いだ。それでも僕はこの世界で、もう少しだけ夢を見続けていようと思う。

それではまた、次の自分へ。

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