時間の止まる瞬間はたしかにある。不思議な力はいらない、きっと。

こんばんは。よわのあきです。
僕としてはとても珍しく、昨日に引き続いてまた文章を書いている。書きたいことはたしかにあるのだけれど、まずは昨日書いて、そして投稿した文章について話をしておこう。おかなければいけないと、そう感じた。
昨日書いた初回の文章で、僕は言っている。
「人目につかない形式で、文章を書いて残しておく」
この心構えに嘘はない。しかし、今この文章を書いている段階で、昨日の文章には20を超える「♡」が押されている。人目についてしまっている。なぜか。
僕は昨日文章を書き終えたあと、これで自分の何かを残しておけると思って、まあ、気分が良かった。そして、システムに言われるがまま、ハッシュタグをいくつか付けて投稿したのである。原因はこいつであるのだろうなと、そう思う。そりゃあもちろん、誰にもフォローされずにいて、何もつけることがなければ、人目に触れる可能性はゼロだとは言わないまでも、限りなくゼロに近づけられたはずだ。けれど、「人目をさける」と宣言した存在自らが「検索用のタグ」を付けているとは、馬鹿げた話になった。そして、なんとフォローをしていただいたという旨の通知すら来ていたではないか。フォロー、という現実を、「よわのあき」は嬉しく思っています。ありがとう。
さて、こうなってしまってはもう当初の構想はあってないようなものであるはずだ。人目に触れるなら触れたらいい。コメントが来るわけではない、ハッシュタグをアクセサリーにして、文章が鮮やかになるならそうしよう。

昨日までの振り返りはもう終わりにしよう。僕が今、書きたいことを綴ろう、そうしよう。
創作活動と呼ばれる境界に少しでも踏み入れたことのある存在が、一度はカタチにしようとすること。「時間を止めること」。これは単純に僕だけの思いであるので、共感はいらないし、否定もないけれど、やはり「ないものをあったことにできる」ことは、創作活動の持つ大きな美点だと思う。どうしようもなく生きなければならない世界では、どうすることもなく成し得ないものをカタチにできることは、楽しいし綺麗なことだと、そう思う。
当たり前と言いたくないけれど、時間は止まらない。時間だけではなくて、ありとあらゆるものは止まらない。この世のただひとつの絶対は「変わっていくこと」だけで、「不変」はあり得ない。
変わっていくことだけは、変わらない。
僕は、変わらないものが好きである。ないからこそ好きなんだろう。きっと。そんなものはないと、そう断じるのは勝手であって、好きにしたらいい。僕にその考えを強要しないでほしいだけである。
変わらないもの、止まらないものはこの世の全てだけれど、僕は、時間の止まる瞬間を知っている。いたずらに話を長引かせようとしてしまうのは、物書きの悪くも良くもあるクセだろうから、もうこのあたりにしよう。

「信号が赤になるとき」。これが、僕が最も好きだと言えるであろう世界の姿である。
ただ片方の信号が赤になっているのではなくて、もとは青信号だったほうのものが、赤になる一瞬。
歩行者用と車両用のものが、全て赤になる、ほんのわずかに、けれどたしかに「世界の時間が止まる瞬間」が、僕はとても好きだ。
この景色をいちばん輝かせるのは、車も、人もいないときなのだけれど、それがなかなか難しかったりする。普段は多くの人が通る道が、自分1人を残して世界を止める瞬間に、何か変わらない姿を見ている気持ちになれるから、いい。
冬の澄んだ空気をもつ夜、大通りとは呼べない交差点で、自分1人と止まった世界。いい。
まさにこの季節がうってつけなので、もしこの文章を見る人がいたら、世界と止まりに行ってほしいな。自分だけのものにしておくには、大きすぎるような気がするから。僕以外に知っている人がいれば、僕がいなくなった後も「変わらない景色」として残ってくれるんじゃないかと、そんなふうに。

時間の止まる瞬間はたしかにある。ゆっくりと、そして追いつけない速さで動く時間のなかに、僕たちは身を置いている。だけれど、たまには止まってみたい。
そう思ったときに、その景色が映し出されると、気持ちが楽になるような思いになる。止まるときに、不思議な力は、特別な勇気は、いらない。きっと。

誰かに見られる可能性を考えてしまうと、文脈を意識してしまうけれど、そういうことはもう考えないで、これからも気が向いたら文字を残そう。
では、また次の自分へ。

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