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生きづらさを感じている人に遠慮しない

「出力を80%に抑えて余裕を持つ」というのに馴染んできた
普段の受け答えにも余裕が出てきた

SNS上のチャットやブログでも同じことをやりたい
これらではまだ力が入っている



「生きづらさを感じている人に遠慮しない」というのにも慣れてきた

これまで自分が行動を起こすとき、「生きづらさを感じている人が自分を見たら辛いだろう」と思って躊躇することがあった
ただ、結局のところ、生きづらさを解消するには自分で行動を起こしてもらうしかなく、こちらが遠慮しても助けにならない

できることがあるとすれば「どんな行動を起こせばいいのか」を知ってもらうことだ
明確な答えはないが、自分がしたことの共有はできるので、そのブログを書いた

今後は、生きづらさを抱えた人に遠慮を求められた場合、応えるかわりにこのリンクを送ろうと思う
そして遠慮はしない

この考えが馴染んできて、この遠慮がこれまでいかに自分の行動を阻んできたかがわかった

自分が遠慮をするようになった原因は母にある
母も生きづらさを抱えていたようだが、自ら行動を起こすことはなく、かわりに不機嫌になったり、泣いたり、私の要望を無視したりした

これらは私にとってストレスだったため、母に遠慮して行動を変えざるを得なかった
この姿勢が残っていたのだろう

「質問したい」「相談したい」というのは構わない
自らアクションを起こしているからだ

「その行動はやめてくれ」とか「こう行動してくれ」とかを、自身の生きづらさを背景に伝えてくるのは問題だ
応えても誰も幸せにならない



自分が制約から解放されているのを感じる
生きづらさを感じない人ってこういう感じなのかもな



じゃまたね
読んでくれてありがとう



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