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#11 “MEN UNTITLED” Carolyn Drake

MEN UNTITLED by Carolyn Drake
伊藤 明日香

MEN UNTITLED by Carolyn Drake (TBW books 2023)

もう一度、最初から始めよう。

いわゆるアート史をさかのぼると、最初から始めることは何度も試みられてきた。
そうでしょう?表現は繰り返され一般化された商品、例えばTシャツやあなたのスマホの壁紙、建設途中の敷地を覆う仮囲いに至るまで消費されるとそれを逆手に取ったり極端に身近なものになったり目に見えるものでは無くなったりバナナになったりして、その度に表現を試みるものは幾度も立ち返ってきた。そして、Carolyn Darkeが試みたことも同様である。この本がいったい何を撮っているのかわからないように思えても安心して欲しい。

2014年にイスタンブールからアメリカへと拠点を戻し、2017年にMAGNUM PHOTOの会員となった。帰国以前の10年ほどはトルコ、ウクライナ、中国などで抑圧や支配への抵抗、そこから自己の定義を試みるコミュニティに興味を抱き制作活動をしていたという経歴から想像するに、アメリカへの帰国は自身の再定義を試みようとしたのではないかと私には思われた。ミソジニー、家父長制、白人至上主義的な文脈の一端は伝統的なアメリカンフォトグラフィの輝かしい歴史だ。そしてそれは塗り替えられつつある。
97名の写真家が名を連ねているMAGNUM PHOTO会員のうち女性は13名。そして会員のプロフィール写真をみてわかるがほとんどがおじいちゃんフォトグラファーだ。私も彼らから必死で写真を学ぼうとしてきたし、実際に素晴らしい歴史の一端を記録に残し続けてきたことで現在の写真があることは間違いない。しかし、その伝統的な構図やコントラストや求められる被写体像を崇め続けることは写真が現代でのアートとして認められづらく古臭い写真展が生み出され続けることを牽引してしまっていると私は思う。そうしたことから「世界最高の写真家集団」(wikipediaより)という評価は果たして現代でも通じるのか疑問を抱くのだが、そんなMAGNUM PHOTOに在籍するCarolynの視線はその内側から、写真の歴史のみならず私たちの意識を変えようとしている。
冒頭に提示される燃え盛る炎は何かの終焉のようなものを意味するのだろうか。

彼女が(ここでは”彼女”と記すが正確ではない可能性がある。彼女はこの写真展へのインタビューでホルモンの変化が影響した自身の性の変化について触れており、割合で言うと現在は何パーセントが女性として自身を定義するに残っているのか定かではないからだ。)記した言葉に以下のようなものがある。

1."Images can describe, abstract, interpret, but they are not absolute."
2. “between people, between places and between ways of perceiving.”

こういった言葉からも今回の作品、その制作を進める中でも彼女が抱いていたこと、そして人となりが読み解け始めるのではないだろうか。

彼女が向ける視線の先にいる対象、そのほとんどは中年を超え、裸体に近い様相をした白人男性だ。そしておそらくはヘテロセクシャルの中流階級と思われる。表情はページをめくるたびに物悲しげになり、時には懺悔のような姿勢をみせる対象からは従来の被写体として写真に写されてきた男性のイメージとかけ離れていると感じるかもしれない。シワがより皮膚は身体から垂れ下がりペニスは本の全体を通して下を向き続けているがそれでも誇示しようとする腕力は椅子を持ち上げる程度だ。

それとは対照的にケンタウロスの像、まるでデスマスクのような蛸壺、そして銃。仮面や鏡などで自身を見せまいとするのはその事実に気づいているからか。銃の写真はアメリカを象徴するようなモチーフだがこれらの銃は猟銃だ。あたかも自身は獲物を狩る側の人間であると自負しているかのように。しかし逆にその滑稽さは際立ち、ままならなさを抑圧するように(もしくは抑圧を受けるように)締め付ける鉄の冷たさ。悲しさは隠し切れていないどころかその真の姿を明らかにする。

全体を通してみても暖かさを感じる要素は極端に削がれ、鉄やコンクリートの色が続くが、それゆえに唯一温度を感じられる、ある意味この本での救いとなっているのは肌の色だけだろう。その対照的にも光り始める美しさが徐々にではあるが、何度も読み返すたびに現れてくる。(もしくは気付かされ始める。)

”ヌード”という従来の形式は男性から男性の身体への視線から始まり、男性から女性、女性から女性へと広がっていった。現代では身体の外側のみを描くよりもむしろその内面を表現するべく用いられることが多くなっていると思われるが、美術館で目にするような身体は男性が”理想とするべき”男性性の象徴だったのだが、Carolynが今回提示するのは女性から男性、とりわけ現代の男性”性”への視線だ。彼女が語るにその領域は描かれていなかった”空白”に感じられたという。歴史だけをみると女性が男性を描くことは往々にして行われてきたがここで向けられ可視化されたものは男性がもつ男性性の仮面だろう。中にも登場するが表紙としても選ばれている4つのキリストの顔が並んでいるのはおそらくホモソーシャル的特性の比喩だと私には思われる。いわゆる”男の絆”、”俺たち” か。制作の土地としてアメリカを選んだ理由にもその意味合いは強い。とりわけ自身を誇示する俺たちの銃が向けられているのは鏡に映る自分自身。これは警告とも受け取れるし彼女からみた嘆きとも取れる。

色々考察した中でも気になるのは蛇のモチーフだった。フレームに巻きつく蛇は男性自身をフレーミングしようと誘惑しようとするキリストの象徴か、もしくはまた違った意図があるのか。この点については誰かの意見が聴きたいなあとぼんやりしている。ちなみにこのMEN UNTITLEDの前作であるKNIT CLUBにも蛇は登場しているのだがその様相は今作とは違い、アナコンダのように太い身体が木の幹と一緒に女性ごと締め上げているのではと思わせる。どちらにせよ救いをもたらす要素ではなさそうだが彼女の言葉を思い出してほしい。この本の中だけで決めつけてしまうことはどうやら出来なさそうだ。

"Images can describe, abstract, interpret, but they are not absolute."

話はそれてしまうが、このブックレヴューを書こう。 よーし今日は書こう! 
としてダラダラとして、なんだか手につかなくなっていた私は先日Wim Wendersの”PERFECT DAYS”を観にいってしまっていた。(水曜日には提出しますよ。なんて小林さんにいったのに気づけばもう金曜日だ。)あそこに登場するのも中年を超えた男性像だがCarolynが描く男性像とは全く違う。しかし、両作品はある意味同じことが言えるように私には思えた。毎日の質素な単調さに従事しその人生に差し込む木漏れ日に豊かさを感じる平山は現代人にとってみれば実は難しい選択肢を進んだ人間だ。だからポスターには堂々と”こんなふうに 生きていけたなら”と載せれるのではないだろうかと思えた。要は、そんなふうに生きたい、生きてみたい、生きれない。という生きづらさみたいなものを抱える男性像が両作品とも鑑賞者のなかに立ち上がってくる、現代的な男性性の問題を提起しているように思える。

Wim Wendersの話はこのくらいにしておくがCarolynの作品が立ち上げているのはそんな機能不全に陥りそうな現代の男性性の危うさ、そして解放だ。描かれることを逃れようとしてきた空白。その空白は現代になって現れたのではなく、実はずっと存在していた。ただ目を向けられてこなかったんだ。こうしたフェミニズム的ととれる作品への姿勢は権利や平等性についての表現をさらに押し広げてくれる。従来の意識、観念が通用しなくなっていることはいうまでもなく、逆にそれらを今まで通りに作用させよう、させたい、と押し通すことに無理がでてきているのだと訴えられている。そして実はその意識は自身が望んだものではなく社会によって植え付けられたものではないのかと彼女の作品から伝わってくる。

Fetal Positionと題された最後の写真に映る老体は裸体で”胎児”のポーズをとりながらもスニーカーを履いている。何かにすがるように、祈るようにもみえるポーズだがその最後の最後までも脱ぐことができないのはそのスニーカーであったようにもみえる。
あたかも産まれながらにして履かされているそれは果たして自分のものだったのだろうか?

Carolyn Drake

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執筆者
伊藤 明日香
言葉が好きです。写真も好きです。
instagram @asukait
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