他人の影響

ある日、知人に言われた。
「〇〇(本名)ちゃんって、人が好きだよね。」
そうだろうか?ふと思った。だって、私は結構面倒な人間だ。人を大事にしたいと言いながら、大事にしてくれてありがとうという感謝の言葉(=見返り)を無意識に求めている。ここ最近、それを自覚してからというもの、あまりの自分の自己顕示欲及び過度に不健全な自己愛に己の愚かさを垣間見るようで、ゾッとしている。その悍ましいまでの黒々しい気持ちを胸に押し込んで、打ち殺そうと、毎日自分を健全に愛することを覚えさせようと、日々努めている。

またある時、ベガスやマイファス、PTPなどが好きな同じ軽音サークルの男友達は、私にこう言った。
「君ってさ、前に友人がPTP好きだから聴いてみたって言ってたじゃん。そんなふうに、誰かにすぐ影響されるところ、僕にはないんだよね。」
モヤシのようにナヨナヨした男なので、褒めているのか貶しているのかいまいちよくわからなかったがその言葉は少しだけ私の心を焦がした。
「僕にはない」その言葉の裏側は「私にはある」ということだ。なんだか照れ臭くなった。

それと同時に、やっぱり、そう見えているんだ。という気持ちにもなった。そしてそれが良い方向にいけば、共感性を持っていろんなことができるのだろうと思い、そうした人になりたいと思う。

ただ今の私は、風邪のように人の感情に揺さぶられて生きている。誰かにいい影響を与えたい、誰かを救いたい、だから私も救って。そんな、身勝手な願いを抱いているから、他人の影響を良くも悪くも受け過ぎてしまうのだろう。

けれど、もしかしたら、この気持ちとはまた別のところで、単に誰かの影響で興味を持ち(興味本位で)はじめているだけなのかもしれない。いや,多くはそうだろう。だが,その裏に密かに潜む影を認識せずにはいられない。それは、私の底を巣食う愚かな自己顕示欲ではないか?と。それは本当の優しさと言えるだろうか?否だろう。それでも、生きていていいのだろうか。いつも迷う。

こんな時、あの歌詞を思い出す。

美しくなんかなくて 優しくも出来なくて
それでも呼吸が続くことが許されるだろうか

ギルド/BUMP OF CHICKEN

それにしても、全くこんな私でも優しいと褒める人間がこの世にいるのだから、世の中はどこまで非情なのであろうか、とも思うのである。

けれど、それと同時にiPhoneの再生リストにふとその名前が現れる時、「今彼は元気にしているだろうか?」と思いを馳せる。それは、彼だけに限った話ではない。今敏や押井守の名前を見る時、ジムノペディを聴く時、深沢七郎の名を発見する時、坂口安吾を読む時。そして、BUMP OF CHICKENを聴く時。いつだって私の中には他人の影響という名の影が生きている。

それは、私がどうしようもないほど人が好きで、人のことを考えずにはいられないからなのかもしれない。

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