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暗い夜に行く路

これは、或る本を読めない、私の自分語り。

その本とは、志賀直哉「暗夜行路」───あまりに有名な作品で、近代文学好きな人なら読んだことがある人も多いだろう。

かくいう私も、読もうと思っていた。いや、思っている。思っているけれど、何度も本棚に手を伸ばして、手に取ろうとして、また本棚に戻している。またある時は図書館で見かけて、読んでみようと思って、手を伸ばすけど、ふとまた「あの日」を思い出して、ふいに涙をこぼしてしまって、手にできていない。また或る時は、フォロワーさんが呟いた暗夜行路の字面だけで泣きじゃくってしまって、なにも手につかないこともあった。今も、私はこれを書きながら涙を堪えられずにはいられない。

この小説には、私が忘れられない、大事な思い出がある。そして、私はこの思い出の為に、未だに暗夜行路を読むことが出来ずにいる。

それは或る秋の日のこと、私の父方の祖母が、ふとこんなひと言をこぼした。

「かえりたいな」

その頃、祖母は生まれてからずっと生活していた漁師町の土地から、市街地にある私たち家族の家へ移り住んだ。祖母が移り住んでからの生活は、それはそれは賑やかになって、おおむね順風満帆だった。(と、私は思っている)

 だけど、この頃の大学受験を控えていた私ときたら一日平日授業時間外で5時間、休日は最大10時間の勉強を自分に課していて、相当なストレスで胃を痛めていた。その為、祖母が「蛍草、おまん(あなた)そんなに勉強しよったら身体壊すやいか」「蛍草、おまんは身体が弱いんやから。(生まれつき腎臓に持病がある)人間、勉強はいつでもできる。でも身体壊したらなんもできん(出来ない)。人間は身体が資本やけん。」「ほどほどにしぃ!」と言われた。たしかに、当時忙しかった母に代わり、家族全員分の洗濯物の取り込み、風呂掃除、昼食の食洗機のセットなど、家の家事の多くを私が一手に引き受けていた。その上での受験勉強である。常にピリピリしていて、自律神経の不調で息苦しさや全身の震え、全身の神経痛に悩まされることも多かった。祖母の前では勿論ずっと隠していたけれど、滲み出る疲弊した孫の姿は、今思えば間違いなくストレスなどで若くして身体を壊して亡くなった祖父の姿に、重なるものがあったのだろう。

そんな余裕のない私でも、祖母がこぼした言葉の意味は、すぐに理解できた。漁師町に住んでいた祖母は、懐が広くて、男勝りな性格から親戚や友人に好かれていた。幼い頃、祖母の家に長期休みに滞在した日など、お隣さんが一日に何度も来て、お茶やお菓子、お寿司や果物と一緒に色んな話を咲かせていた。そんな姿が印象的だったから、きっと我が家では満足できていないんだろう、そう思ったのだ。そう思うと、なんだか悲しくなって私は洗面所の隅っこで声を殺して泣いた。祖母が、まるでどこかに行ってしまうのではないかと思ったからだ。

そしてその時、そういえば録画していた江戸川乱歩の「人間椅子」の実写を見返すつもりだったことを思い出した。私はこれしかない、と思った。祖母を誘って、テレビで観た。祖父は本が好きだったけど、乱歩は読んでいなかったし、祖母が何かの小説にハマったという話は聞いたことがない。きっと陽気な祖母が好きな物語では絶対ない。それは分かっていた。承知の上だ。だけど、なんか、なんかわからないけど、今一緒にいるしかないと思った。この人を独りにしてはいけないと思った。

そして、それを観終わって、お風呂の準備をして、お湯が貯まる間、私は祖母のところで話をすることにした。実は数週間前から、祖母と話をする機会を増やさなければとは思っていたが、私に時間がなかったのでどこか空き時間はないかと考えた時、お風呂のお湯が貯まる時間を思いついたのだ。ちょうど小噺をするにはいい時間で、そこで私は祖父の酒癖の話や、父親の話などさまざまな話をしたのだった。

そして、その日の夜は本の話になった。私が最近ある小説家にハマっている話をして、祖父の書斎から本をたくさん抜き取っている話をすると、祖母は微笑んで言った。

「あの本は、ぜーんぶ、蛍草のものやけん。あんたが好きになんでも持って行きなさいや。おじいちゃんも喜んどるわね。」

私はそれにいたく感動して喜んでいると、ちょうどお湯が溜まったサインが流れた。仕方なく、そこで話を終えて、ちょうど両親や姉も帰宅して、みんなで夕食を囲んだ。そこでも一悶着あったのだけど、そのあと、私はまた祖母の部屋に行った。いつもなら勉強の為に誰よりも早く机につくけれど、その日は話し足りなかったのだ。

そこで、私は祖父の書斎から白樺派とホイットルセイに関する本に祖父のペンが挟まっていることを話した。そして、最後に私は書斎から志賀直哉の「城の崎にて」を引き出した話をして、次は「暗夜行路」を読もうと思っている、と言った。すると、祖母はこれまで見たことのないほど穏やかな表情と声で、こう言った。

「おじいちゃんはねえ、いっつも布団の横の机に正座してね、本を読んだりなんだりしてね、ようけ(沢山)読んだわね。布団の中でも、こーんなに、ね。」

確かこんなふうな言葉だった気がする。ちゃんと一言一句記憶している訳ではないけど、こう話して、ベットの脇の祖父の写真を見つめていた。


それから、夜も遅くなって、祖母と私はいつも通りおやすみ、と言い合って部屋に戻った。私は勉強を終えると、部屋の中でフォロワーと通話をしたりした。通話を終えると、喉が渇いたのでキッチンへ向かった。足が悪い祖母は、一階に部屋が設えられていて、その隣がキッチンだった。だが、その日はいつもなら消えているはずの電気が、点いていた。

「おばあちゃん?」
問いかけるが、反応がない。だけど、すやすやと眠っているので、そのまま軽く布団をかけて、電気を消して、水をキッチンで汲んで、眠りについた。



そして、それが私と祖母の最期になった。


朝起きて祖母の部屋に行くと、もう帰らぬ人となっていた。私が掛けた布団の中で、静かに目を閉じて、でも、本当にただ眠っているだけのように綺麗な、祖母の姿がそこにあった。

私は、自分を責めた。あの時、なんで気づかなかったのか、と。電気を消さずに、息をしているか確認をちゃんとしておけば。何度もそう思って、今もそれを思って、頬を濡らした。


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通夜・葬式を終えて、色々ようやく心の整理がついた時、ポツンと本棚から、浮いて見えた本があった。

志賀直哉 作 「暗夜行路」

これを見て、急に、思わず、声に出して泣いた。暗夜行路を見た瞬間、祖母と交わした最期の瞬間がフラッシュバックした。それと同時に、カメラのフラッシュが焚かれるように、言葉が次々と紡がれていく。

なんで、もっと長生きしてくれなかったの。成人式の振袖姿、見てくれる約束だったでしょう。こんな、祖父の命日の数日後に、まるで見透かしたかのように、私が高校でいじめに遭っていない確認までして。しかも叔母さんには祖父の書斎の本は持っていくなって言ってたらしいのに、私には最期の夜に許して、狡い。なんで、なんでおばあちゃんなの。そう思って、泣いた。
岩波文庫の、茶色に変色した本がさらに汚れていくのも気にならないほど、涙が溢れた。目の前がモザイク状になって、もうぐちゃぐちゃで、でも胸の中は酷く温かい。嬉しい。悲しい。愛おしい。言葉が、ぐるぐるした。

志賀直哉の暗夜行路に触れるたび、それは起こった。もう、一生この小説は読めないかもしれない。そう思っていた。いや、今も思っている。


でも、もうすぐ、今年の秋には三回忌になる。
ちゃんと、読めるだろうか?
分からない。でも、この文章で、少しでも区切りをつけたいと思っている。
そして、ちゃんと読了した暁には、祖父の文庫本と、祖母が生前、病弱で入院した時に私にくれた満開の向日葵を、墓前に供えようと思っている。

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