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Water【創作】

コップの水を、飽きることなく眺めていた。

やがてゆっくりとそれを飲み下し、iPhoneに表示された曇空文庫の読了ボタンを押しながら、水に味がないことを確かめる。そんな彼女の名は菊尾暁──彼女が持つ数多の名の中で珍しく彼女自身が決めたのでない、かの名前を少なからず気に入ってゐた───そして彼女はこれを読み終えたら、意気揚々と青い鳥に自分の想いを綴らせる気でいた。しかし、読了した今、それは菊尾にとって気が沈むことに他ならない。薄汚れた鳥籠の中の青鳥をじつと見つめる。コップの水を少し分け与えてやって、ふふんと嗤ってやった。すると窓の外から水が滴る音が耳を叩く。それに気を取られていると、今晩食べる米を研ぐことを思い出す。米を研ぐ時の冷たい水と白濁する水、菊尾はこれが幼少期から好きだった。だが、今はこれらの要素がどこか不安を煽り、菊尾の気に障る。脳内の片隅にはあの小説が浮かぶ。初読の時は普段おとなしい大学教授に放課後、個室に引き摺り込まれるやうな不快かつ末恐ろしい心地がしたものだが、読み終えた今、ただただ薄墨色の陰鬱を感じる他ない。

嗚呼、水、水、水。そういえばこの小説も色んなことを暗合して陰鬱になる小説だった。嗚呼、あの小説の最初───レイン・コオト。雨、水。途端に息が出来なくなる。菊尾は耳を塞ぎたくなった。水のコトコトした音が響いて、或る作家のアルファベットの文字が脳内を叩く。数日後に命日を迎えるあの苛立たしい作家の名前も浮かんで、さらに鬱陶しくなった。

ガシガシと米を研いで、水を流す。白が排水溝に流れて、研ぎ終えた米を炊飯器へ持っていく。炊飯器の色、白。白か。次々と早合点していく自分を俯瞰した時、あの小説の影響を受けているであろう己を自覚する。大きなため息をついて、菊尾は文章を紡ぎ始める。

コップの水はいつのまにか蒸発して消えていた。

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