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なぜ、「生きててごめんなさい思考」になってしまったのかって話

ひとつ前の記事でも、それ以前にも、何度か「生きててごめんなさい思考」があるのは書いたのですが……
なんでそうなっちゃったのかな、そしてなんで抜け出せなかったのかな、っていうことを整理してみます。

【実家で】
・褒められなかったから。
・いつも、誰かと比べられていたから。
・周りのような「すごい人」にならなければ、愛される価値は、ここにいていい価値はないのだと思ってしまったから。
・両親の仲が悪く、存在していいと思えなかったから。
などなど……

【自分の心理】
・「自信のない、弱気でかわいそうな自分」「何もできない私」でいれば、両親にかまってもらえる。
・聞き分けの良い子を演じていれば、「こうしなさい」「ああしなさい」って、指示がもらえる。関心を向けてもらえる。
・かまってもらえて、両親は機嫌がよくなって、一石二鳥。
・ついでに、自分で決めなくていい。その選択に責任とらなくていいし、そもそも考えなくていいし、両親は機嫌が良くなるし、一石二鳥、三鳥、四鳥……

かまってちゃんだったんだなー、私。
ついでに怠惰だったんだと思います。言われた通りにしている方が楽だから。しかも両親の機嫌がよくなるなんて最高じゃん。


そして、大人になってもずっと変われなかったのは、大人になってもかなり長いこと親と癒着していたことに加えて「大丈夫なフリをしてきたから」っていうのもあると思う。

別に私、そこまで自己肯定感メッタメタなわけじゃないよ。大丈夫。
(本当は全然大丈夫じゃない)
自信があるわけじゃないけど、別にそういうことで病んだりもしない。
(ちょっとのことで病みまくり)
明るいタイプではないけど、どちらかというとひとりが好きなだけだし。
(半分本当)
とにかく、本当は死にそうに自信がなくて、鬱々とした日々も多いみたいな、そんなこと全然ないから。だから大丈夫だよ?
(生きづらすぎて死にそう)

このnoteを振り返っても思うけど、根本がメソメソしているのなんてどこからどう見ても滲み出まくってるのに、それを隠そう隠そうとしていたから。
自分自身にすら、嘘をついて。蓋をして。
だから抜け出し方を見つけるのも遅くなってしまったような気がする。
認めなければ、何も始まらないよね。

そして、認めないように、見ないようにしてきたのは……

自己肯定感がめちゃくちゃに低いことなんて、見せてもいいことない。きっともっと「自分が”すごい人”とは縁遠い人間=存在価値がない」ってことを晒すだけ。かまってちゃんだなんてことは、もっと晒したくない。はずかしい、みっともない。
そんな深層心理があったんじゃないかなって。


失敗の理由とか、不出来な部分とか、隠すことほど無意味なことってないね。
改善したければ、ちゃんと認めて、現実的に考えなくちゃ。そして行動に移さなくちゃ。あるいは、正しく誰かの手を借りなくちゃ。
本当は隠したくてたまらないけど!すました顔してたいけど!



客観的にもう一度考えてみても、やっぱりうちの両親は子育てが下手くそだったとは思う。そして両親の仲が悪いことって、基本的に子供には悪影響しかないと思う。
そこにいろんな想いが残ってしまっているのもまだ事実。
だけど、そこから抜け出そうとしなかったのは紛れもなく自分自身。

いつかこの先、ちゃんと自分で自信を持てる生き方を積み重ねられたなら、そのとき初めて両親の育て方なんてどうだってよくなるだろうし、その他の「うちでよかった」と思える部分に目を向けることができるのかな、生まれてきたことに心から感謝できるのかな、って思っています。
今は、まだ。

正直、気を抜いたらネガティブに戻ってしまいそう。
そんな時は何度でもここを思い出して、前を向いて。

ゆっくり、いこう。

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