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令和三年四月―五月 石川の旅(四)

 三日目、五月一日の目的地は金沢市内の「にし茶屋街」であった。茶屋街と名付けられてはいるものの、要は嘗て遊廓があった界隈である。目的はこの遊廓街で生れ育った作家、島田清次郎の資料館である。
 島田清次郎、通称島清については各自調べて頂いたほうが早いと思うが、大正時代に『地上』という青春小説を二十歳で出版し一世を風靡、だが傲慢不遜な言動で次第に不評を買い、遂には統合失調症を発症して精神病院に入院、昭和五年に三十一歳で歿するという、嵐のような人生を駆け抜けた作家である。遊廓で育った経験を生かした『地上』の遊廓の描写は非常に写実的で迫真のものであり、病身にも関わらず無理に大勢の客を取らされた娼妓が死に、それを見た別の娼妓が発狂する場面などは壮絶である。今では忘れられた作家であるが、一読の価値はあると思う。


 にし茶屋街は一本のさほど長くはない通りがあるきりで、「金沢市西茶屋資料館」はその奧まった一角にある。だがその前に昼食を摂ることにし、向いの「桜桃」という店で金澤カレーを食べた。ルーがどろりとしているのが金澤カレーの特徴であるらしい。食事後に資料館へ入館した。さほど広くない二階建てで、入場は無料である。一階が島田清次郎の展示館で、パネル解説のほか当時の本や映画化された際の台本などが幾つか展示されている。さりげなく展示されてはいるが私が思わず注目したのが、昭和初期に新潮文庫から出された『地上』の第二部「地に叛くもの」で、これは国会図書館サーチで検索する限り、日本中のどの図書館にも収蔵されていない幻の本である。戦前の新潮文庫には解説などは附されていないのだが、実際に手に取って読んでみたい気持にも私は駆られた。
 さて島田清次郎の展示室を出て二階へ上ると、そこには当時の茶屋の一室が再現されている。紅い壁がまさに遊廓といった感じの派手さで、片隅には芸妓が使った三味線もが併せて展示されていた。それを見て階下へ戻ると、出掛けに女性の案内員の方が「ありがとうございました」と声を掛けて下さった。「雨がやんで良かったですね」
「ええ、本当ですね」と答えた私は折角ならと思い、「『地上』、読んだことがあるので来られて良かったです」
「おお、本当に」『地上』を読んだ者など珍しいのだろう、案内員の女性は驚いた表情で笑いながら、「どうでした? やっぱり若い心にぐっと?」
「そうですね、やっぱり力がある小説だなと」実際に短くまとめようとすると、中々上手く言えないものだった。「主人公の、偉くなるぞ、という気持が。それから遊廓の描写もリアルでした」
 不注意にも私は「遊廓」といった言葉を使ってしまったが(実際、作中では茶屋などという言葉は全く出てこないので茶屋などと言うのは却って不自然だが)案内員の方は笑顔で、「ね、実際に育った経験がね」と答えられた。これがこの一人旅での、唯一の会話らしい会話であった。



 さて、案内を見た私は室生犀星記念館がここから近いことを知り、そこへも行ってみることにした。犀星は島清ともほぼ同時代の作家であるが、私は彼の作品を読んだことがない。それでも関心がないわけではなかったし、これをきっかけに読んでみることになるのもいいと思えた。
 犀星の記念館はにし茶屋街とは反対側の、住宅地をやや奥へ進んだ一角にあり、案内はあったものの中々見つけづらい場所にあった。何故こんな場所に、と思ったが、近付いてみると「室生犀星生誕地跡」と刻まれた石碑があり納得がいった。これは一室のみであった島清の資料室とは異なり、それなりの規模を持つ本格的な資料館である。
 犀星は私生児として生れ、幼くして近所の雨宝院という寺院に預けられたという。その寺院は茶屋街からここに来る間に通った、犀川大橋のたもとにあるのを見ていたので、すぐにあそこかと理解することができた。長じて俳句を作り始め、やがて小説家となる。初期の「デビュー三部作」はいずれも感傷的(と書いてあったかどうか忘れたが、そのような趣旨だった)な作品で、その内の「或る少女の死まで」は題名を知っていたし、岩波文庫に三作が収められているのを知って、いずれ読もうと心に留めた。その後は社会を生きていく人々を描いた「市井鬼物」へと作風が変化していったそうだが、こうした作風の変遷というものは作家個人の関心の変遷を物語っているだけに非常に興味深く感じられる。特に印象に残ったのはこの部分であった。
 丁度このとき記念館では「美しい本 山口蓬春」という企画展が催されていた。蓬春というのは犀星の本の表紙絵を手掛けた人物で、犀星が本の装幀に大いに注意を払っていたことがわかり非常に興味深かった。犀星自身が書いた表紙の題字が没になったものも含めて幾つも展示されていたり(実際に使用されたものの上にはトレーシングペーパーが貼られている)気に入ったらしい蓬春の絵(『續女ひと』の表紙の蝶の絵)を送ってくれるよう編輯部に依頼する手紙があったりと、実に貴重な資料の数々が見られた。



 犀星記念館を出ると私は更に歩いて、石川四高記念文化交流館へと向った。これは旧制第四高等学校(現在の金沢大学の前身)の資料館で、何と街中に、明治時代に建てられたその煉瓦造りの本館が当時のまま残っている。以前にこのような煉瓦造りの校舎を京都の大谷大学で見たことがあるが(三島由紀夫の『金閣寺』にも出てくる)近代建築の中でも一番古いものに属するだけに、間近に立ってみるとそれが乗り越えてきた歴史の重みに圧倒されるほかない。
 私は近付いてその建物を見上げた。その縦長の窓には古い木枠の硝子が嵌め込まれており、昔の建物らしく一階のものすらもかなり高い位置にあって、中を覗き込むことはできない。しばしその教室の窓を見上げて佇んでいると、私は妙な感覚に襲われた。それは嘗て、遠い時代に私はこのような校舎に通っていたことがあったのではないか、という思いである。勿論そのような事実は私にはない。だが前世というべきか、いつかどこかで明治の頃の私は、着物を着、下駄を履いてこんな煉瓦の校舎へと足を踏み入れて授業を受け、時にはこの高い一階の窓から、下を通り過ぎる級友に声を掛けたこともあったのではないか……そんな強い空想が脳裡をよぎった。しばらく私は懐かしさにも似た感傷に浸りながらその場に佇んでいたが、やがて正面玄関から入館して見学に入った。


 内部は入って右手が有料の石川近代文学館、左手が無料の四高記念館となっている。金沢ゆかりの作家と言えば泉鏡花、德田秋聲、室生犀星が特に有名であるが、他にも様々な作家の展示があった。紹介されていた鏡花の『河伯令嬢』などは、過去の伝説と現在とが交錯する非常に面白そうな筋立てで、創作のアイディアにも役立ちそうであったのでこれも心に留めた。
 だが中でも印象深かったのが、「現代作家」コーナーに展示されていた廣津里香で、真先に目を惹いたのが荒々しい筆致で描かれた何枚もの水彩画であった。パネルを見ると白黒写真ではあるものの、先程見てきた近代作家の写真とは大きく異なる、若く現代的な女性の写真があった。だが歿年を見ると驚いたことに昭和四十二年(一九六七年)、既に五十年以上前に二十代で亡くなっているのだ。油絵製作中にシンナーにより死亡したということだが、展示されている詩文など(こういった作品は彼女が亡くなってから、遺族により出版されたのだという)を見ると、現代で俗にいう、メンタルに問題を抱えた人であったようだ。若くして死ぬというのは、痛々しいと同時にどこか人を惹きつけるものがある。大切に保管されてきたであろう水彩画の筆致やその肖像写真を見ても、その死から既に五十年を経ているということが、何か信じられぬ気がするほどだった。


 次に私は建物の左半分を占める、四高記念館のほうへと向った。言うまでもないことだが四高は当時の超エリート校であって、教養主義がこれほど衰微した今、こういった時代の学生生活に憧れている面が私にはある。地元もこの学校の誘致に力を注いたということが書かれており、開校時に地元の有志から寄贈されたという、ブリタニカ大百科事典の並ぶ棚も、書見台と共に置かれていた。
 特に印象に残ったのは、四高の校風を表す「超然主義」である。これは世間に流されず、且つ社会と積極的に関わっていくという姿勢を表すもので、寮が火事で焼失し、その焼跡で自炊しながら寮生たちがよそに移らず生活を続けたという出来事があった際に確立されたものなのだという。「超然」と刻まれた応援団の太鼓や書などもあり、この力強い校風を今に伝えている。現代はとかく情報過多で社会に流されずにいることが難しい時代だと思うが、百年以上昔の学生たちの決意を感じていると、ここで一つのヒントを与えられたようにも私は思った。
 他にも、当時校内で発行されていた雑誌や、運動部の活動を今に伝えるものなど(他の学校の運動部と交された挑戦状などというものもあった)、見応えのある展示が大量にあった。二階には驚くべきことに、玄関の上の屋根に上るために四高生たちがしばしば乗り越えたという窓があり、余りに多くの学生が屋根の上と室内を出入りしたために、その窓枠の下の部分は大いにすり減っていた。嘗ての学生たちの息遣いまでが感じられるようで、これがそのまま保存されているということの尊さを強く感じた。


 この日、天気はかなり怪しかったのだが、外へ出る頃には愈々雨が降り始め、風も強くなってきていた。私は少し離れたところにある、一部保存されている旧石川県庁舎の建物(現在は石川県政記念しいのき迎賓館)へと向ったが、雨と風のために写真を撮ることもままならない。幾度か折畳み傘を風に引繰り返され、一通り外観を眺めてから帰ることにした。近代建築が保存されていることは喜ばしいのだが、通りとは反対側の部分が取り壊されて硝子張りになっている姿には、やはり一種の痛々しさを感じる建物であった。(続く


《石川旅行記・記事一覧》
第一回(出発、内灘海岸)
第二回(モテル北陸)
第三回(加賀観音、ユートピアランド跡)
第四回(にし茶屋街、室生犀星記念館、石川四高記念文化交流館)
第五回(石川県西田幾太郎記念哲学館、かほく市の海岸)
第六回(金沢城、兼六園)

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