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令和三年四月―五月 石川の旅(五)

 四日目の五月二日、私はかほく市へ向った。ここに石川県西田幾多郎記念哲学館があることを、調べて知ったためである。文学館を含め、記念館というものが中々に面白いということを知ったのは、この旅行の三日目に私が得た大きな収穫であった。
 西田幾多郎は「善の研究」で知られる哲学者であり、私もその著書と共に名前だけは知っていたが、詳細については殆ど知識はなかった。恐らくこの記念館がなければ、今後も殆ど接点はないままであったろう。
 この日私は北上して最寄の宇野気駅で降り、かほく市の地を踏んだ。平仮名地名の地をまともに訪れたのはこれが初めてのことである。ここは平成十六年に河北郡の宇ノ気町、七塚町、高松町の三町が合併して誕生した地で、河北郡南部の大きな地を占めるから「河北」の名を採ったのは正当であるのだが、どうして素直に漢字表記の「河北市」とせず平仮名にしてしまったのだろうかと惜しまれる。


 記念館まではやや距離があった。宇野気駅は小駅で、駅前も昨日の動橋駅ほどではないにしても小さな商店が点在するのみで栄えているとは言い難い。ここからやや南へと歩いていくと記念館に辿り着くのだが、その道中で町章らしきものが刻まれているマンホールの蓋に幾度か出くわした。調べてみると案の定宇ノ気町、七塚町の町章で(高松町のものとは遭遇しなかった)その内に見られなくなるであろうものであるので、写真に収めておいた。因みに興味深かったのはそのいずれにも「宇ノ気・七塚」と二つの町の名前が併記されていることで、恐らく下水の管理は合併前から両町が共同で行っていたのであろう。



 さて、しばらく歩く内に天気が崩れ、雨が降り出した。結局最終日以外の総ての日で雨に見舞われたわけで、つくづく天気には恵まれなかった旅行であった。しかも尚悪いことに、私は左折すれば記念館へ辿り着けるという看板の標示を見て、その手前の道で折れてしまい、とんでもない大廻りをして辿り着かねばならない羽目になった。思わず看板に悪態をつかざるを得なかったほどに、ようようにして到着したときには悪天候も相俟って疲弊していた。
 西田幾多郎記念館は、丘陵に沿うように建築された、モダンな鉄筋コンクリート造りの巨大な建物である。丘の麓には、打ちっぱなしのコンクリートの擁壁に挾まれた昇降機があり、これを使って丘の上へと上がると、正面玄関が控えている。振り返ればかほく市の田園地帯を一望することができる、素晴らしい眺望が広がっていたが、そのときの私にはこれ以上野外でゆっくり景色を眺めていられる余裕はなかった。入場料を払って館内へ入ったときには、安堵の息をつけた。


 展示は「哲学とは何か」といったところから始まり、そこを通り抜けると西田の生涯に関する映像が流される部屋がある。こうした大勢の人が行き来するところで、じっと坐って観ていることが苦手なので、大体は素通りしてしまうのだが、このときは来館者も多くはなかったのでひとまず観てみることにした。ここで印象に残ったのは、西田は決して恵まれた人生を送ってきたわけではないということである。師範学校を中退し、それから昨日私が見学した四高に入学しているが、ここでも校風の変化に馴染めず中退してしまう。その後東京帝国大学に入るが、四高を卒業しなかったために待遇は選科生というものであった(詳しくは知らないが一段下の待遇であったということだ)。
 私は学校を中退したことはないのだが、中退というのは、私にとってはとんでもなく大きな問題である。勿論西田にとっても大きな問題であったのであろうが、年表ではそんなこともあったのかと流されてしまいがちなそんな経歴に、偉人の苦悩が垣間見えるようであった。
 しかもそれだけではなく、西田は若い頃に相次いで親族を亡くしており、その中には最大の理解者であった姉も含まれている。更に子供も三人も亡くしており、後に見た展示の中には「何故天はこの老人をここまで苦しめるのか」といった内容の書簡もあった。これが強く脳裡に刻みつけられたのは、私自身、昨年に祖母を亡くしているからかもしれない。
 展示はそういった数々の書簡の実物、原稿の複製などが主であり、肉声を聞くことのできるコーナーなどもあって、昭和二十年の終戦前に亡くなったこの哲学者を、実に身近に感じることができた。前述した通り西田は様々な苦難を経ながら学問に打ち込み、「善の研究」というベストセラーから始まって、様々な書物を著しつつ哲学の道を極めていくことになる。西田のみならず展示には彼の周辺の様々な人々に関するものもあり、遠い距離にある偉人としてでなく、苦悩しつつ或る時代を生きた一人の人間として、西田幾多郎を見ることができるように思った。これは昨日の犀星記念館でも感じた感覚である。
 展示を一通り見終った後、いい加減腹が減っていたので、館内のカフェでカレーを食べた。最上階の展望ラウンジへも行ってみたが、雨は愈々強くなり、天井から床までの大きさの硝子窓に、風に煽られた雨粒が激しく打ち付けていたので、早目に館を出てそれ以上行動する気力をなくし、取り敢えず図書室に入ることにした。そこで珍しい、この地元で発行された暁烏敏全集などを眺め、ふと気が付くと背後の窓の空には日が射していた。雨は上がったらしい。外へ出ることにして立ち上った。


 因みにこの記念館にはホワイエという空間があり、円形の天窓の下が吹き抜けになっていて、そこに椅子が二脚置かれている。その周辺の壁なども全て、打ちっぱなしのコンクリートである。詳しい案内板があったかどうかはよく覚えていないが、どうも哲学を体現した空間であるらしく、並んでその椅子に腰掛け、目を閉じている若い女性などもいた。因みに、似たような「空の庭」という空間も展示の最後にあって、これは四方を壁に囲まれた、四角く切り取られた空のほかにはなにもないという場所である。ただ如何せん雨であるので、ちらと出てみただけで私はすぐに退散してしまった。
 このホワイエを含め一通りのものを見終えると、私は雨のやんだ屋外へと出た。今度はこの丘の上から、かほく市の一角の風景をゆっくりと見渡すことができる。それから今度は昇降機を使わず、正面の階段を下って「哲学の道」と名付けられた小路へ入り、そこから敷地外へ出た。
 この記念館のほかに、周辺には特にそこまで強く行きたいと思える場所はなかったので、再び海に行こうと私は思い立った。既に内灘海岸で日本海に接してはいるが、それよりも更に北の海を見てみてもいいと思ったのである。


 だが地図で見るとそれほど離れてはいないようなのに、海までは意外と距離があった。しかも最初、県道五十六号線がのと里山海道と交叉するところから海へ出ようと思ったのだが、どうもそこまで辿り着いてみると、海道の下をくぐって海へ至る道には歩行者が通れるような空間がなく、そこからは海へ出ることができそうになかった。そこでやや南へ進むと、「海と渚の博物館」という施設があった。入ってみようかとも思ったのだが、時計と看板とを見ると、既に午後五時を過ぎており閉館している。しかしついこの間の午後五時からは考えられなかったほどに日はまだ高く、春が来て日の長くなったことを改めて実感した。
 博物館には入れなかったが、そこから西へ続いている人気のない道があり、海道の下をくぐって、更にその先へと通じていた。進んでいくとそこは松の樹々に挾まれた細い道で、海まで行けることは間違いなかった。辺りに人の姿は全くなく、静かな海と対面することのできる昂揚感が私を満たした。
 松林を抜けると、そこは海に面した高台だった。左側は崖になっていて、その突端は崩れ、立てられていた木製の柵が、急斜面に吸い込まれるように崩れ落ちている。崖下は砂浜になっていたがそこへ降りる道筋は見つからない。余り崖の突端に近付くと足元が崩れそうな、危険な場所だった。
 正面には灌木に挾まれて小路が続き、その向うにやや広い草地があった。強い風が吹き付け、目の前には雲に覆われた暗い空の下、荒れた日本海が広がっていた。非常に寒かったが、この光景は壮観だった。


 海というものは何故人を惹きつけるのだろう。雄大な、人の決して征服することのできぬ光景を目の当りにすると、自身の存在の瑣末さを実感させられるためであろうか。長い人生の旅の果てに今、ここに立って北の海と対峙しているということの意味を、内灘の時にも増して考えた。西田幾多郎の人生を概観してきた後だからこそ、そんなことに思いを馳せもしたのかもしれない。
 私にも様々な人生の悩みがあり、それは海と対峙したとて何ら具体的にどう変るものでもなかったが、今こうして果てしない海と向い合っていると、何か総ては些少な問題に思われてくるのは確かな事実だった。自分の一生など、この寄せては返す海の無限性に比すれば、余りにも短い一瞬にしか過ぎないのだ。どんな人間もいつかは、この沈黙する自然の永遠性の中に呑み込まれてしまう。だがそれは悲惨な事実としてではなく、何か安心感のある、還るべき場所を見つけたような感情を以て受け止めることができた。


 ……しばらく私はテトラポットの手前の、高台の土地を徘徊していた。だがこの場所は、ひたすらに寒かった。名残惜しく思いながらもやがて立ち去り、住宅地の辺りまでやってきたとき、雲が去って夕日が現れ、その光が海に照り映えている光景が、樹々の間からちらと見えた。
 再び私は空腹になっていた。夕飯にはやや早いようにも思われたが、記念館でカレーを食べてから何時閒かは経っていたし、そもそも私にとってはそれほど充分な量ではなかったのである。しばらく歩いて、イオンモールかほくへ行くことにした。
 イオンモールかほくは、調べたところでは北陸最大級のイオンであるらしい。実際に来てみると確かにかなりの大規模であった。出入口をくぐると、当然のことではあるが大勢の買物客が歩いており、安心感と同時に親近感を覚えた。何しろ先程の海では、辺りにはただ一人の影もなかったのである。
 料理店は色々あったが、その一つの「ぶどうの木」の前で悩んでいると店員の女性に声を掛けられたので入ることにし、オムライスを註文して食べた。その後は館内をうろつき、映画館までがあることを知って覗いたが、遅くもあったので敢えて観ようと思えるほどの映画はなかった。
 それから、すっかり暗くなった道を宇野気駅まで戻って、金沢へ帰ることにしたが、駅までは徒歩であるとかなりの時間が掛かり、更に疲れたことを憶えている。(続く


《石川旅行記・記事一覧》
第一回(出発、内灘海岸)
第二回(モテル北陸)
第三回(加賀観音、ユートピアランド跡)
第四回(にし茶屋街、室生犀星記念館、石川四高記念文化交流館)
第五回(石川県西田幾太郎記念哲学館、かほく市の海岸)
第六回(金沢城、兼六園)

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