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《備忘録》胸の奥に刻んでおきなさい。 小さなものごとで満足してはいけない。

osho

さあ、経文だ・・・・・・

炉祖師は言った。

様々な種類の確証の体験がある。

確証の体験は、あなたが我が家に近づきつつあるしるしだ。

人は確証の体験を理解し、それに気づいていなければならない。

なぜなら、そこから勇気と希望が得られるからだ。

それは活力を与えてくれる。

あなたは探求が無駄ではないことを、

朝がすぐそこまで来ていることを感じるようになる。

まだ夜は暗いかもしれないが、最初の確証の体験が

こもれ日のように差し込みはじめている。

星が消えてゆき、東の空が赤く染まりつつある。

太陽はまだ昇っていないが、空はもう明るくなっている・・・・・・

もうまもなく太陽が顔を出すにちがいない。

東の空が赤く染まれば、もうじき太陽が地平線から顔をのぞかせる。

鳥たちは朝の到来を讃えている。

樹々はいきいきとし、眠りは消えてゆく。

人々が起きはじめた。

これが確証の体験だ。

それとまったく同じように、霊的な道においても、

紛れもない確証の体験が起こる。

それはまだ目には見えない美しい庭園に向かって歩いてゆくと、

近づけば近づくほど、風が涼しくなってゆくのが感じられる

ようなものだ。

庭園から遠ざかってゆくと、涼しさも消えてゆく。

近づいてゆくと、再び涼しくなってくる。

もっと近づいてゆくと、風が涼しくなるだけでなく、

花の香りが、たくさんの花の香りが漂ってくる。

遠ざかってゆくと、香りも次第に消えてゆく。

近づけば近づくほど、梢で歌っている鳥たちの声が聞こえてくる。

樹は見えないけれど、鳥たちの声が聞こえてくる

・・・・・・遠くでカッコウが鳴いている・・・・・・

マンゴーの茂みがあるにちがいない。

あなたはどんどん近づいてゆく。

これが確証の体験だ。

それとまったく同じことが内なる庭園――

内なる生命、喜び、沈黙、至福の源泉へと進んでゆくときに起こる。

中心に向かって進んでゆくと、いくつかのことが消え、

いくつかの新しいことが現れてくる。

人は小さな要求に満足せず、

生命あるものをすべて救済せんとする

高邁(こうまい)な決意をもたなければならない。

そして、いいかね、確証の体験が現れはじめても、

すぐに満足してしまってはいけない。

涼しい風が吹いてくると、あなたはそこに坐りこんで到着したと考える。

涼しさはすばらしい、涼しさは喜びに満ちている。

だが、あなたは先に進んでゆかなければならない。

小さなことで満足してはならない。

それらが起こりはじめたことを喜び、

それらを道標(みちしるべ)と見なしなさい。

だが、そこはまだ目的地ではない。

それらを楽しみ、神に「ありがとう」と感謝して、

確証の体験がやって来る方向に進みつづけるのだ。

小さな要求で満足してはならない。

例えば、安らぎは小さな要求だ。

それはたやすく達成することができる。

緊張のない心の状態はたやすく達成することができる。

それは大したことではない。

心安らかで心配や不安がないというのは、

それほど大したことではない。

では、偉大なこととは何だろう?

人は目標として何を胸に抱きつづければよいのだろう?

生命あるものをすべて救済せんとする

高邁(こうまい)な決意をもたなければならない。

これが判断の基準になっていることにあなたは驚くだろうが、

それはいつも判断の基準とされてきた。

仏教ではこれを「菩薩の誓願」と呼んでいる。

内なる中心に近づけば近づくほど、

この世界に住む生きとし生けるすべてのものの

苦しみを感じるようになってゆく。

一方では深い穏やかさと静けさを感じ、

一方では苦悩するすべてのものたちへの深い憐れみを感じはじめる。

苦しみに次ぐ苦しみ、そしてまた苦しみ。

どこもかしこも苦しみで満ちている。

一方では大いなる喜びが沸きあがってくるが、

一方では深い悲しみもまた湧いてくる。

何百万もの人々が苦しんでいるからだ――

それも何の理由もない馬鹿げた苦しみを味わっている。

あなたが味わっている至福を達成することは、

彼らの生得権でもある。

だから、もう自分は至福に満ちているから、

すべては終わったのだと満足してはならない。

あなたが至福に満ちるようになっても、

すべてが終わったわけではない。

今や旅は新たなる方向へと転じる。

覚者(ブッダ)の境地を達成し、わが家にたどり着いたら、

いよいよ真の仕事(ワーク)がはじまる。

これまでは夢にすぎなかった。

今や、他の人々が夢から出てくるのを助ける真の仕事がはじまる。

弟子が達成したら、彼は師にならなければならない。

キリスト教で「キリスト意識の誓い」と呼ばれているのはこれだ。

それを本当に理解しえたキリスト教徒はいない。

彼らはそれを誤解してきた。

彼らはイエスだけがキリストであると考えている。

「キリスト」という言葉は「クリシュナ」から来ている。

それは誓いだ。

自分が救われたら、

あらゆるものを救わなければならないというのがその誓いだ。

苦しみから救われることは無上の喜びだが、

他の者たちを苦しみから救ってゆくことと比較すれば何でもない。

自分が苦しみから救われることは、

依然として自己中心的であり、

自己に焦点が合わせられている。

自己の何かが依然として残っている。

あなたは自分のことにしか関心がない。

あなたが救われたからといって、

どうしてその旅をやめることができるだろう?

さあ、今度は他の者たちを救わなければならない。

イエスが救済者と呼ばれるのはそのためだ。

だが、彼が唯一のキリストではない。

彼の前にもたくさんのキリストがいたし、

彼の後にもたくさんのキリストがいた。

これからもたくさんのキリストが現れるだろう。

覚者(ブッダ)になる者はみな、

必然的にあらゆる者を救済しなければならなくなる。

人間の喜び、安らぎ、至福は小さなものだ。

そういうもので満足してはならない。

いつか分かち合わねばならないことを、

いつか他の人々が目覚める手助けをしなければならなくなることを

片時も忘れてはいけない。

この種子をあなたのこころ(ハート)の奥深くに植えつけなさい。

仏性が花開いたときも、あなたが世界から消えてしまわないように。

仏教には二つの言葉がある。

ひとつは「アルハト」だ。アルハトとは、光明は得たのだが、

すべてが終わり、為すべきことは完了したと考えている者をいう。

彼は消え失せてしまう。

もうひとつは「ボーディサットヴァ」と呼ばれる。

彼は光明を得たが、消えず去らずに、

懸命にこの世にとどまろうとする。

彼は滞在を引き延ばし、可能なかぎり

この世にとどまろうとする。

こんな話がある。仏陀がねはん(ニルヴァーナ)の扉に到達した。

すると扉が開き、天上の音楽が奏でられ、黄金の花が降り注ぎ、

花輪を手にした天人たちが彼を歓迎しようと待ち構えていた。

ところが、仏陀は入ることを拒み、扉に背を向けた。

天人たちは驚いて、目を疑った。彼らは何度も何度も彼に尋ねた。

「何をしておられるのです?あなたは今生だけではなく、

 何生にもわたって< この扉>を探し求めてこられたのでしょう。

 ようやくたどり着かれたのに、扉に背を向けられるとは?

 私たちはあなたをお待ちしていました。

 またひとり覚者(ブッダ)が増えたと、

 天国は喜びで湧きかえっています。

 どうかお入りください!

 一緒にあなたの仏性の開花を祝おうではありませんか」

だが仏陀は言った。

「苦しんでいる者がひとり残らず救われないかぎり、

 私は中には入らない。私は待たなければならない。

 私は最後に入るつもりだ。

 他の者たちを先に入れよう」

この美しい物語によると、仏陀は今も

なお扉の前で待ちつづけているという。

扉は開いている。

いつ仏陀が入りたいと言うかわからないから、

天人たちも扉を閉めるわけにはいかない。

彼にはなかにはいる権利があるので、扉は開いている。

仏陀のために扉は開け放しになっている。

こうして天上の音楽は流れつづけ、花は今も降り注ぎ、

天人たちは花輪を手にして待ちつづけ・・・・・・

そして仏陀は外に立っている。

彼は人々を勇気づけている。

呼びかけ、挑み、奮い立たせている。

彼は人々に言っている。

「扉は開いている。

 この機会を逃してはならない。

 なかに入りなさい!

 私は最後に入ることになるだろう。

 もう扉は二度と閉まらない。

 すべての人が救われ、光明を得ないかぎり、

 扉が閉まることはない」

これは寓話にすぎないが、とほうもなく意義深い。

それを歴史的事実だと見なしてはならない。

そんなことをすれば要点を見逃してしまう。

扉もなければ、天人もいないし、

花輪もなければ、天上の音楽もない。

そして仏陀は、光明を得た瞬間に消えてしまった。

その彼がどうして扉に背を向けたまま立っていられるだろう?

誰がそこに立っているというのだろう?

だが、その誓いは・・・・・・。

仏陀が<存在>のなかに解き放ったエネルギーは今もなお作用している。

<真に>探し求めている者たちは、

今でもそのエネルギーを手に入れることができる。

そのエネルギ-はどこまでも作用しつづけてゆく、

永遠に作用しつづけてゆく。

イエスはもはやいないが、そのキリスト意識は新しい位相に入っている。

マハーヴィーラはもはやいないが、

その意識はこの生命の大海に入っている。

これらの人々は<存在>の一部となり、波動を放っている。

それがこの寓話の意味だ。

彼らは今もあなたを奮い立たせている。

そのメッセージを受け取る用意があるなら、

彼らは今でもあなたを向こうの岸辺に連れてゆこうとしている。

死を迎える瞬間、師(マスター)は無限のエネルギーの一部になる。

そのエネルギーには仏陀が加わっている。

マハーヴィーラが加わっている。

ツァラツストラが加わっている。

老子、イエス、マホメットが加わっている。

師が死を迎えるたびに、より多くのエネルギーが解放され、

それが大きな潮のうねりになってゆく。

じつに多くの人々が光明を得てきたので、

それはひとつらなりの潮流になってゆく。

あなたがたは幸運だ。

あなたの憧れが本物ならば、

あなたの願いが本物ならば、

この潮のうねりに運ばれて

向こうの岸辺に行くことができる。

それを胸の奥に刻んでおきなさい。

小さなものごとで満足してはいけない。

https://ameblo.jp/miyairikuro/entry-12572074949.html


#マハーヴィラー

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