見出し画像

2022年 美術館備忘録

 大晦日までに部屋の片づけが終わらなかったから、延長戦が今も続いてます。遺品整理か??ていうレベルの戦いが。

 長らく放置してた大学時代のレジュメとか教材を整理しているうちに、向き合わないといけなくなった紙類がもうひとつ。2016年から集め始めた、美術展の作品リストやフライヤー、チケット類です。

 規則性もなしに並んでいたそれを行った順に並べ替えて、ファイリングしてみました。そしたら去年は22の展覧会に足を運んでいたことがわかりまして。2021年はコロナの影響もあったとはいえ8だったし、コロナが始まる前の2019年でも13だったから去年は特別多いですね。

 「狂わないための戦い」だったのかもしれない、と思ったり。これは近年アートシーンでも注目されているBTSのRMが言った言葉です。

僕自身を弱い人間にしたくないし、恐怖に飲まれたり、食い尽くされる人間になりたくないので。僕が美術館に行ったり、植物を育てたり、自転車に乗ることは、僕が狂わないための戦いだと思います。

 この言葉を聞いたとき、ああわかるかもしれない、と感じたんですよね。昔は美術館に行くのはただ楽しいからだった。今はちょっと違う。仕事を始めて、狂いそうな毎日が繰り返される中で芸術は「ただ楽しいもの」から「自分を理性の側につなぎとめてくれるもの」になった。

 とはいえ美術館に行くのが楽しいことには変わりなく、去年行った22の展覧会および常設展も楽しかったんですよね。その感覚を、忘れないように記しておくのも悪くはないのかなとか。

 そういうわけで、去年、行ってよかった展覧会をいくつかまとめてみます。本来こういうのは年内にやるものだけど仕方ないですよね。書こうと思ったのは今なんで。

ミニマル/コンセプチュアル(兵庫県立美術館)

 ミニマルアートとコンセプチュアルアートを紹介する展覧会。私はミニマルアートは数作品しか見たことなかったし、コンセプチュアルアートは名前すら知らなかったです。

 そもそも私の興味は主に近代以前の西洋絵画にあって、好きな画家はモネ、ミュシャという典型的な「日本人美術マニア」でした。興味もなかった現代アートの展覧会に行く気になったのは、ポスターになんとなく興味をひかれたから。現代アートはあまり好きじゃないけど、これはおもしろそうだな〜と思って。
あとはまあ、狂わないための戦いが無意識にこの展覧会を選んだんですかね?(とはいえ、現代アートの展覧会にこれまで行ったことがないわけではないです)。

 ミニマルアートもおもしろくて刺激的だったけど、私が心を動かされたのはコンセプチュアルアートのほう。物質としての作品よりもコンセプトに重点を置く。究極的に言えば、作品がなくとも作品のコンセプトを記した紙があれば良い。それはなんか、私の長年の芸術に対する疑念を晴らしてくれたような気がしたんです。

 私が現代アートにいまいち興味を持てなかったのは、「それが本当にアートなのか」私には判断できなかったからなんですよね。私にも作れそうな簡単なペインティングとか、ゴミにしか見えないオブジェクト。それらが芸術と呼ばれるのは、ただ美術館やギャラリーにあるからではないのか。そんなふうに考えだしてしまうともう楽しめないじゃんか。

 この疑念を最初に私に植え付けたのがマルセル・デュシャンの《泉》なのは間違いないです。要するに私はデュシャンの真価を理解できてなかっただけなんですけど。便器がなぜ芸術と呼ばれるのか。たとえばただの紙切れだとしても、作者が芸術だと言えば芸術になるのか。

 コンセプチュアルアートを見たとき、そうだ、まさしくそれでいいんだ!みたいな衝撃がありました。紙切れひとつでさえ芸術になりうる。そこにコンセプトがあれば。

 数字を扱ったハンネ・ダルボーフェンの作品は、これが芸術?とこちらの認識を揺さぶりまくってくるのに見てると楽しい……。距離を線やカードで示して可視化・あるいは物質化したスタンリー・ブラウンの作品も面白いし、ギャラリーを飛び出して街中に作品を配置したダニエル・ビュレンの試みはまさしく私の「ギャラリーにあるからアートなのでは?」という疑念に対する挑戦という感じがしました。

 特に河原温の作品が刺さりまくった……。「Date Painting」と呼ばれる、制作日の日付を描いただけの作品。「I GOT UPシリーズ」と呼ばれる、その日起きた時間を絵葉書にゴム印で記して複数の知人に送りつけた作品など。その中でも、「I AM STILL ALIVE」とだけ記した電報を複数の知人に送り続けた「I AM STILL ALIVEシリーズ」がすごくおもしろかったです。

 河原の作品は、数字・文字に身体性や実存を託しているのかなと思います。「私は今日絵を描いた」という事実を託された日付、「私は何時に起きた」という事実を託された数字、「私はまだ生きている」という事実を託された文字。文字と数字は作家の死後も残り続けて、「その日の河原温」を証明し続ける。一方で、文字と数字によってしか保証されない実存は不確かでもあるのかもしれない。私はまだ生きている、という電報が届くとき、河原はもう生きていないかもしれない。河原は生年月日さえ不確かです。数字と文字によって表される現実には常に揺らぎがある。そもそも現実とはそんなに確かなものか?

 河原はインタビューには答えなかったし、作品の解説もしなかったから、鑑賞の解釈は私たちに任せられてるみたいですね。この鑑賞方法が正しいのか私にはわかんない。でも私は河原の作品から、身体性を帯びる数字や、実像の表象としての文字を見て取ったんですよね。そしてとても興味深いと感じました。

 アートとは絵や彫刻、映像や写真、インスタレーションであるべきだと私は考えてたけど、それをコンセプチュアルアートは覆してくれました。アートとは観念であってもいい! それは私にとっては新しい発見だったけど、懐かしさも感じさせる体験でした。

 小学校の美術の授業で、金属を使って作品を作ったことがあって。クラスメイトが金属板を叩いたり曲げたりしながら思い思いの彫刻を使ってるとき、私はひたすら空き缶の蓋を金槌で叩いて叩いて叩きまくって小さな球体にしてたんです。来る日も来る日も同じことを繰り返す私を先生は異様な目で見てたけど、作品を提出する段になって私が「何時間叩き続けても、形や大きさが変わっても、重さは変わらないことを表現しました」と書いた説明を添えれば、異様に高い評価が返ってきたんですよね。今思えば、あれは私なりのコンセプチュアルアートだったんだな〜と。そしてそれを評価してくれる先生がいたから、私は美術の時間が好きだったんだなとも。

 コンセプチュアルアートは私にあの頃の芸術に対する関心を思い起こさせてくれたし、現代アートへの苦手意識を取り払ってくれたなと思います。


ゲルハルト・リヒター展(東京国立近代美術館)

 リヒター展行きたいなあ、でも関西巡回ないからな……と思っていたら急に仕事を退職することになり、ほんなら東京、行くか! ということで3日後のホテルを取り、行ってきましたリヒター展。

 リヒターの作品をはじめて見たのは2018年横浜のモネ展でした。そのときはあまり印象に残っていなかったのですが、2022年3月にルイ・ヴィトンのギャラリーで再び見たとき面白いな……!と思ったのが東京まで行こうと思ったきっかけです。

 リヒターの作品は押し付けがましさみたいなものがなくてすごく見やすいなと思いました。20世紀後半の抽象画とか現代アートってときどき熱すぎて見てて疲れるなと思うことがあるけど、リヒターはどんなスタイルの作品にも一定の冷静さがあって見やすい。

 今回の中心作品《ビルケナウ》はホロコーストを題材にした作品だけど、それでさえも冷静さがあるというか。作品自体に息のつまるような重苦しさはたしかにあるけど反対側の壁に同作品を撮影した同じサイズの写真、左手の壁に巨大な《グレイの鏡》を配置することによって「衝撃によって鑑賞者が感情に逃げてしまう」ことを許さないスタンスを(勝手に)感じました。

 リヒターが写真を使う理由のひとつは「客観性を獲得するため」「事実の相対化」、そしてグレイは「なんの感情も呼び起こさない無の色」、鏡にもさまざまな解釈があるとは思いますがひとつには「そこに映るものを絵画として切り取る」「空間のレイヤー化」という意味がある……と思います。
 
 《ビルケナウ》を鑑賞する私たち、「ホロコーストという歴史」と「相対化された『虐殺』」の間に立つ私たちを虚無の鏡が切り取ってレイヤー化している、それが私たちを冷静にさせる この解釈が合ってるのかどうかはまったくわかりませんが

 こんなんほとんど晩年モネの睡蓮やん!て思った《アブストラクト・ペインティング》も2枚ほどあって、私がモネ大好きになったのはまさにその「最晩年の」睡蓮を見たからなので結構衝撃を受けたというか興奮しました。

 《アラジン》シリーズはガラス板に塗料を転写した作品だけど言ってみれば《アブストラクト・ペインティング》からマティエールを排除した作品? ほかにもいろんな見方ができるとは思うけど偶然性と主体性をガラスの中に閉じ込める=平面化……? それはなんだか主体性をもう一度追放する行為のようにも思うし おもしろかったです

 リヒター好きだなあ、と思ったのは彼がいつも芸術と絵画を信じているところかもしれません。現代の抽象芸術作家にたまにある「絵画・芸術への懐疑」みたいなものがあんまりなくて安心して見てられるような気がします。

 前日に先述したBTSのRMがリヒター展に行ったとインスタグラムに上げたので、おそらくいつもより混んでいたと思うのですがそれでも印象派の展覧会に比べると空いていて現代アートの人気のなさをひしひしと感じました……笑


自然と人のダイアローグ(国立西洋美術館)

 リヒター展の翌日に行った展覧会です。言ってしまえばついで、だったのですが、思っていたより骨太な展覧会だったので。

 冒頭がブーダンとマネから始まってモネに繋がったの、良! というかんじでした。
 初めて見るかもしれない、くらい初期のモネが展示されていてびっくり。印象の影も形もない、すごい!

 そしてモネの隣にリヒターのフォト・ペインティングを並べるという、この展覧会の目玉だった展示についてなんですが。モネとリヒターを並べるのは使い古された手だけど、やっぱり並べられてるとテンション上がるし意味のあることだと思いました。

 モネの「雲」は水鏡に写ったものをカンバスに映し取ったもので、リヒターの「雲」は写真に写ったものをカンバスに映し取ったもの。ここでモネの求めた絵画の本質とリヒターの探求している絵画の本質とが重なってる気がします(もちろんモネの作品が1887年のものでなく晩年のものならなおよかった)。

「絵画は、ほかのどの種類の芸術にもまして、ひたすら仮象=光に携わっている(もちろん、私は写真もそこに数え入れる)。」

 これです!! これはリヒターの言葉らしい(作品の隣にディスプレイされてた)けどまさしくモネの言いたかったことだと思います。
 「もの」それ自体を描くのではなく光を描く、それが印象派なわけですが、それをさらに推し進めて「レイヤー」に映し出された光=仮象を描く、それがモネが晩年たどり着いた境地でリヒターの探求してることなんだと思いました。

 モネとリヒター以外も充実でした。3章が「光の建築」ていうタイトルだったんですが、セザンヌから始まってシニャック、モンドリアン、クレー、カンディンスキー、ミロと続き最後にコルビュジエで締めるの、おもしろいセンス!! 「建築」という言葉が比喩から始まって最後には文字通りの意味に着地する感じが好きです。

 セザンヌも、構築的筆致が見えつつも比較的印象派のテイストの1881年の作品と、その10年後に描かれたもう完全にセザンヌという感じの作品、その2枚が並べられていておもしろー!と思いました。

 個人的ヒットはレイセルベルヘでした。隣にシニャックの作品が二つあったんですが、みんなシニャックよりもレイセルベルヘの前で足を止めていたのも印象的です。 

 カンディンスキーの〈小さな世界〉シリーズがミロを挟んでずらっと並んでるのも壮観でした!

 そして大好きな、晩年1916年のモネの睡蓮! これ〜〜!! これの隣にリヒター並べてくれ〜〜!!!! になりました。
 今回展示されてる《雲》はたしかに1887年の《船遊び》の隣にあるのが面白かったなあと思うけど! アブストラクト・ペインティングでもフォト・ペインティングでもいいから晩年モネの睡蓮の隣にリヒターを並べてほしい…!

 展覧会のタイトルロールになっていたゴッホとかフリードリヒは1、2作品しか出てなくて、印象派以降の近代絵画がわりと充実しててかなり面白かったです! というか印象派はほとんどなかった!

シュルレアリスムの作品もあったりしてよかったな……シュルレアリスム展を日本でもやってほしいです。受験生の時マグリット展行けなかったの今でも後悔し続けているので。


印象派 光の系譜(あべのハルカス美術館)

 好きなアートは? と聞かれたら印象派と返す日本人は多いと思います。私もその一人なんですけど。

 光の系譜展は、2021年からずっと楽しみにしていた展覧会です。光の系譜、ていうタイトルがまずいいですよね〜!! 私が印象派を好きなのは彼らが「光の粒を描いたから」なんです。だからこのタイトルはもうドンピシャでした。

 まずコローから始まる構成が天才……。「光の系譜」というタイトルでこれ以上の正解があるか?

 そしてブーダンからモネにつながり、さらにシニャックやレイセルベルヘの新印象派につながる! おもしろ〜! 

 時系列ではなく章ごとにテーマを定めて進められていく展覧会だったんですが、第一章を貫くテーマが「水の反射」なのがいい。それはモネが晩年にたどり着いた境地じゃないですか。そこに連なっていく作品たちが並んでいるのは胸が熱くなりますね!

 ピサロは今まで印象派のころの作品しか見たことがなかったので、スーラからバリバリに影響を受けた新印象派時代の作品を初めて見て驚きました。

 ぱっと見でセザンヌかな? と思った作品がゴーガンだったのもびっくりした……! ゴーガンもセザンヌから影響を受けてたんですね!? でもその作品の隣にタヒチ時代のよく知るゴーガンがあって安心しました

 噂のユリィは、生で見ると写真で見てたときとは全然印象が違ってて面白かった! 重くてメランコリックなのに印象派のストロークを使っているので輪郭がぼけて優しい雰囲気になる やっぱり絵画は生で見ないとだめですね。


ルートヴィヒ美術館展(京都国立近代美術館)

 良いと聞いてはいたけど評判通りの良さ! すごく骨太の展示でした。

 ピカソのキュビスムど真ん中な作品を初めて生で見たんですが、隣に西洋絵画とセザンヌに回帰しかけみたいなピカソがあったのでおもしろいな〜と思いました。ピカソは作風が変化しすぎていて、一生理解できる気がしないのですがセザンヌらしさが見えると安心感を覚えます。
 晩年の「生命力がほとばしるような」作品を理解できるようになりたいなとも思うんですけど……難しいですね。でもこの展覧会は晩年の作品もたくさん展示されていて少しは目が慣れたかな? という気がします笑。

 キュビスムに影響を受けた作品もいっぱいあったけど、やっぱりどれもセザンヌっぽさあるんですよね。近代絵画の父の名は伊達じゃない……。

 近代絵画を見るとゴッホとゴーガンとセザンヌの影響が見える作品が多くて、流石この3人はすごかったんだな〜〜……みたいな気持ちになります。

 未来派に影響受けたロシアアヴァンギャルドの作品もいくつかあって、以前中之島美術館のモディリアーニ展で初めて未来派を見たとこだったので興味深かったです。

 ミニマル/コンセプチュアル展で現代アートへの苦手意識がなくなって以降、少しずつ現代アートの勉強をしていたんですが、アンフォルメルとかポロックとかジョーンズとか、最近勉強したアーティストの作品もあって進研ゼミでやったとこだ!になりました。楽しかったです。

 マン・レイの作品があったのも嬉しかった! 初めて生で見ました! マン・レイが撮ったコクトーの写真、豪華すぎて笑っちゃった。


 他にも素敵な展覧会はたくさんあったのですが、特に私に刺さったのはこのあたりです。

 今年は美術館に行くごとにnoteに記録をつけていこうかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?