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靴の甲が汚れていない人間 台湾人作家 呉明益のことばから

久々に昼間、午後の二時過ぎに乗った東西線で、向かい側に座ったサラリーマンの革靴はどれもピカピカだった。
確かに東京メトロ東西線に乗る人びとは、日経新聞を持っている割合が異常に高い。大手町や日本橋などのオフィス街が路線であるからなのだろうが、なにやら高度なビジネスを生業にしている人、という感じがする。
ちょっと現在の私には、縁があるとは言えない世界だ。

そういえば台湾の作家、呉明益の小説『自転車泥棒』にはこんなフレーズが出てくる。

靴の甲がいつも汚れていない人間を、僕は信用しない

呉明益『自転車泥棒』

目線を落としてみると、私の黒い革靴の甲は職業柄いつも汚れている。細かなキズだったり、白く浮いた濁りだったり。
今の職場でも、前職のときも同じだった。
呉明益にすれば、私は「信用に足る」人間ということになる。

靴の甲が汚れているのは真摯に働いている証拠だ、そんなことを呉明益は言いたかったような気がする。

もちろん私の同僚や上司にも、いつも革靴をキレイに整えている人もいる。
そういう人を、私は尊敬する。

ただ、呉明益のことばは、忙しさに感けてこまめに靴を磨きもしない私には、自分を勇気づけてくれるフレーズなのである。

正確な文言を引用したいのだが、私の散らかりすぎた部屋では、『自転車泥棒』はうず高く積み上がった書物の山のどこかに埋もれてしまい見つからない。

たしか、「いつも」という一語が入っていた気がする。革靴が磨いてあるだけで信用されないというのは、理不尽すぎるからだ。
ただ、それが入っていなかったような気もする。
革靴が磨いてあるだけで信用しないという、ある種尖った言葉に深い印象を受けたのかもしれないからだ。

いずれにせよ、小説の本筋とはあまり関わらないことにこだわってしまった。
だが、ひとつのフレーズが、いつまでも私を捕えて離さない。優れた書き手による小説には、得てしてこういうことがある。
それが文学の面白いところだ。


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