宮本輝「不良馬場」あの日の仁川の阪急杯 競馬の持つ悲しみについて
宮本輝 短篇集『星々の悲しみ』より
「不良馬場」
ある春先の休日、河野勲は雨の降りしきる中、阪急電鉄今津線のとある駅に降り立つ。それは入院中の同僚、寺井隆志を見舞うためであった。
寺井は若くして肺病に冒され、すでに2年もの間この病院内の隔離施設への入院を続けていた。
河野と寺井は大学時代から苦楽を共にし、会社の同期でもある深い仲だ。
だが、河野は友人にして同僚である寺井を見舞うことを先送りにしていた。寺井の病は、それまで親密だった二人の関係に粗目の浮いたようなひび割れを入れたのだった。
もちろん、すでに結核は死に至る病ではない。根気よく治療を続ければ、仕事に復帰できる可能性はある。
それでも長く社会から途絶され、病院内の人々とだけ関わって生きている寺井には、もう今までの日常には戻れないのだという諦めが芽生えつつあった。
肺病によって社内での栄達の道から外れたことへの失望と、それでも捨てることの出来ない自負心とが、会話の中で寺井の言葉の端々に浮き出てくる。
一方で話の聞き役になっている河野もまた、目の前の友人に話すことのできない秘密を抱え、話の核心へと踏み込むことを躊躇している。
短篇であるだけに行間に余白があり、詳細は明かされないままストーリーは進んでいく。
寺井は河野に対して気さくに振る舞おうとするが、二人のあいだには見えない溝が穿たれたようだった。
そんな空気を嫌ってか、寺井は昼下がりの病院から河野を競馬場へと誘い出す。
無断での外出は禁止されているが、看護婦の目を避けて二人は病院から抜け出すことに成功する。
電車は競馬に向かう人々ですし詰め状態になっていたが、それをなんとかやり過ごし、競馬場までたどり着いたのだったが、予想を上回る観客の多さに二人は人いきれを覚えた。
止まない雨の中で、寺井の体調を気遣った河野は次のレースを最後にしようと提案する。
そのレースは1番と5番の馬が有力視されていた。
河野は人気通りに1-5を買い、寺井はやや人気薄を狙って1-3と買い目を決めた。
河野が馬券売り場(「穴場」)から戻ると、寺井は苦しそうな様子で馬場からすぐそばの柵に凭れ掛かっていた。
スタートの時刻が差し迫る中、寺井はひと月ほど前にあった出来事を物語る。
入院者たちと花火を見物に行こうと病室を抜け出して河原へ行ってみたはいいものの、花火大会はじつは前日の開催だった、という他愛のない出来事だったが、寺井にとっては大きな気づきがあった。
そこで憑き物が落ち、胸に巣食う肺病なんか打ち破ってやるのだと決心がついたのだと。
レースが始まり、わずか六頭立ての馬たちは靄の中を向こう正面からコーナーへと向かい、直線へと入った。
そして馬場のすぐ近くに陣取った河野と寺前に馬群が迫ってくる。ついに目の前を通り過ぎようとしたとき、一頭の馬がぬかるみに倒れ込んだ。
あの五番の馬だった。
思いも寄らない展開に読者は虚を突かれ、戸惑う。
少し長いが、省略すべきところが見つからずそのまま引用した。
それだけ、この箇所は迫真さに富んでいる。
宮本輝の精巧な描写は、今目の前で苦しみ、のた打ち回るサラブレッドの悲鳴が聴こえてきそうなほどだ。
この場面で、この短篇は唐突に幕を閉じる。
雨の降りしきる競馬場での悲劇は、何を暗示しているのか。
希望の見えた寺井を打ちのめすような一撃か。それとも、一寸先はわからないという運命の行く末は、明暗どちらともつかぬ未来だということか。
河野の買い目は1-5。寺井の買い目は1-3だった。
果たしてレースの結果がどうだったのかは、この小説では触れられていない。
この点も、この短編の面白いところである。
「不良馬場」が収録された短篇集『星々の悲しみ』は、「螢川」「泥の河」により太宰賞、芥川賞を受賞し鮮烈なデビューを飾り、充実期にあった宮本輝が、短篇においてもそのストーリーテラーとしての才能を発揮した秀作と言えるだろう。
宮本輝がたいへんな競馬ファンであることはよく知られている。
小学校五年生のときにサラブレッド三大始祖の一頭、ゴドルフィンアラビアンの物語に胸をときめかせて以来彼は競馬の虜になった。
婚約者のための結婚資金を使いこみ、サラ金の世話になり、時としてすってんてんになって阪神競馬場からの帰り道を歩いて帰ったほどだった(「拝啓アラビア馬・ゴドルフィン様」『二十歳の火影』所収)。
そしてなんと言っても彼には『優駿』という競馬を主題にした小説があり、この作品によってJRA馬事文化賞を受賞するという快挙を成し遂げている(フィクション作品が馬事文化賞を受けるのは極めてまれなことである)。
「不良馬場」は、宮本輝の知る競馬の美しさと儚さが凝縮されたような作品なのである。
あの日の阪急杯
ここからは、私の個人的な想い出である。
毎年2月のこの時期になると、自分の大学受験期のことを思い出す。
私は一浪しているから、そこには二年分の思い出が詰め込まれている。
2月になると、私立大学の学部試験が次々に実施される。だから、2月の日付のうちのいくつかは、受験した大学の学部名とともに、記憶の中にいつまでも刻みついている。
一年目の大学受験。センター試験で思わぬ大失敗をした私は一次試験の足切りを喰らい、志望していた国立大学の二次試験を受けることが出来なかった。
国公立大学の試験日は例年2月25,26日と決まっている。
今まで目標としていたこの二日間、私はやることがなくなってしまったのである。
この年はちょうど競馬開催日である土日と重なっていた。
ほんらいであれば受験の当日。
後期試験もあるにはあったが、こんな日に集中して勉強などできるはずもない。家を出た私は、ぐずついた空模様の中を阪急電車に乗り、阪神競馬場へ足を向けた。
地元の身びいきかもしれないが、阪神競馬場の白いスタンドや、羽根のような屋根に覆われたパドックはとりわけ美しい。
ただ、あの日も馬場状態は不良。
冷たい冬の雨が地面に突き刺さるように降っていた。
メインレースに組まれていたのは芝1400mのGⅢ阪急杯。
フルゲート近い15頭立ての出走馬の中に、コスモサンビームという馬がいた。
コスモサンビームは、朝日杯フューチュリティステークスを勝って2歳チャンピオンとなったものの、翌年のNHKマイルカップではキングカメハメハに破れ、その後脚部不安に見舞われたこともあって長く勝利から見放されていた。
だが4歳秋になった前走スワンSで久しぶりに勝利を収め、この日は同じ芝1400mの条件とあって2番人気に押されていた。
父はザグレブ。
極めて地味な血統であるが、ホッカイドウ競馬から中央競馬に乗り込み、弥生賞を勝利するなどクラシック戦線を沸かせたコスモバルクの父と同一だった。
雨に濡れた大阪スポーツの馬柱とにらめっこしたのち、私は阪急杯の本命をコスモサンビームに決めた。
長い低迷期を脱し、復活の兆しを見せるコスモサンビームに、どこか自分の行く先を重ねていたところもあったのかもしれない。
馬券を購入し、発走の時刻が迫ってくる。
大型ヴィジョンで放映された中山記念はバランスオブゲームが鮮やかな逃げ切り。
そして15時45分、場内に阪急杯のファンファーレが鳴った。
スタートが切られ、果敢に飛び出したローエングリンが引っ張ったペースは、600m通過34.6。荒れた馬場にしては速い時計だった。
ピンク帽のコスモサンビームは五分のスタートを切り、同じ勝負服のコスモシンドラーと並んでやや後方寄りに陣取った。
3コーナーから4コーナーへの中間地点。
順調に追走していたかに見えたコスモサンビームだったが、各ジョッキーの手が動いた勝負どころで突如後退し、馬群から消えた。
尋常ではない事態が起こったことはすぐにわかった。
単なる「競走中止」ではなく、馬は前のめりに崩れ落ち、騎乗していたジョッキーもすでに濡れたターフの上に投げ出されていた。
人馬ともに、危険な落馬事故だった。
しかし、それは1/15の落伍に過ぎない。
すでに後景に追いやられている。
レースは直線に入りクライマックスを迎え、中段から鮮やかに抜け出した11番人気ブルーショットガンが後続を振切って一着でゴール板を駆け抜けた。
ブルーショットガンの鞍上、松永幹夫はこの日が騎乗最終日。
GⅠを7勝したこの名ジョッキーは調教師試験に合格し、38歳の若さで騎手を引退することが決まっていた。
松永は自身の最後の重賞騎乗を見事に勝利で飾り、詰めかけた観客からはこの快挙に喝采が上がった。
すでにメインレースの幕は引かれ、人々は12レースの出走馬を見るためにスタンド裏のパドックへと足を向けている。
そんな中で私はすでに歓声の消え去ったスタンドに立ち尽くし、いつまでも遠い第4コーナーを見つめていた。
傍らに停止した救急車はそこを去らず、やがて一回り大きな馬運車が到着すると、そこに生気を失ったコスモサンビームの馬体は運び込まれていった。
やがて観客たちはスタンドへ戻り、何事もなかったように定刻通り発走した最終12レース、松永幹夫は一番人気ルージュバックを駆ってしっかりと勝ち切り、通算1400勝を達成する有終の美を飾った。
鮮やかすぎるコントラスト。
とうぜんコスモサンビームの経過などには目もくれず、松永幹夫の快挙のほうに身を寄せたファンが大半だったろう。
しかし、元から沈んだ境遇で阪神競馬場に足を運んだ私は、どうしてもコスモサンビームのことが頭から離れなかった。
突然の斃死、哀れ。
一度は栄光を掴んだはずのG1馬の生命が一瞬にして失われ、死体となって運ばれていった様。
あの強烈な印象は、今も去らない。
競馬を愛する者としての責任
よく知られているように、競走馬の身体はひどく脆い。
きわめて人為的な配合の下に、そのスピードのみを高めることを目指されたサラブレッドは「ガラスの脚」を持つと言われ、ふとした衝撃で故障し、回復不能となることも少なくない。
そして競走能力を失った馬の多くには、安閑として余生を送るという未来が待っているわけではない。
わたし達は競馬が、そうした物悲しさの上に成り立っているイベント(興行、スポーツ)であることを知っている。
競走馬は経済動物である。
人間の都合によって生まれ、人間の都合によってその生命が奪われることもままある。
引退後の競走馬が穏やかな余生を送れるよう支援するという試みがあるのは承知の上だが、そこには限界がある。
年間7000頭もの競走馬が生産される中で、すべての馬をケアできるわけではない。
500キロを超える大型動物である馬を飼育するには、多大なコストが強いられる。そのため用途変更という名の殺処分は、競走馬の生産が競馬という経済活動の中にある以上避けられない事実だ。
そしてあの日の阪急杯は、改めて競馬の残酷さを私に印象づける出来事だった。
あのコスモサンビームの死と、宮本輝の「不良馬場」とは、わたしの中で深く結びついている。
以上、今回は個人的な想い出を添えて、宮本輝の短篇「不良馬場」を紹介した。
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