バラァジ・オブ・ソナチネ

越してきた先は凄い街だった。初日にストアへ行くとお爺さんが道に転がっていた。私は慌てて店員さんにそのことを伝えると、「ダイジョブいつものこと」そんなふうに笑われた。ははあ、こういうことか。妙に合点がいった。「この地域はだめね」物件選びで不動屋はそう言い、マーカーで地図の一部を括った。しかし独り身となった今の私としては、マーカーの内側の家賃相場に勝てなかったのだ。

近付くとお爺さんはアルコールランプのような臭いを放っていた。お酒の臭いではなく、理科の実験で使ったあれだ。口元でマッチを擦ったら青く柔らかな火が灯りそうだった。そうするのがこの街の流儀であるような気もした。もちろんそうはせず、私はお爺さんをそのままにして帰った。流儀を知らぬままの人助けは、何だか失礼な気がしたからだ。

駅前には地下商店街があり、広間の隅にピアノが設置してあった。一つ先の通路には段ボールの家がひしめいているにも関わらず、そのピアノだけは誰も見向きもせず、傷さえ付かぬままに黒く艶めいていた。流石にグランドとはいかないが、しっかりとしたヤマハのアップライトだった。私は時々それに座り鍵盤を叩いた。やはり誰も見向きも聴きもしなかったが、それが気楽であった。

ある日そこへ向かうと、珍しく先客がいた。痩せぎすの青年で黒ずくめの細身のスーツを着ていた。青年はラヴェルのソナチネを弾いていた。私だけがかなり遠くでそれを聴いていた。青年は最後に鍵盤に何かを置き、その重みで曲が締め括られた。

そして立ち上がり私を見た。眉間から口元、斜めに引かれた深い傷跡があった。彼はそのまま立ち去り、私は反射的にピアノに近づきそれを拾った。視線を感じて振り向けば、青年は私を見ていた。紙袋に包まれ中身は分からなかったが、ずっしり重い何かだった。今思えば馬鹿みたいだが、私はその重さと彼の眼差しに、すでに“恋と冒険〈ロマンス〉”の予感を感じていたのだ。


【続く】


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