私とTOKIOの十数年間
TOKIOに出会ったのは、小学校中学年ぐらいのときでした。
バラエティーに出ているTOKIOに両親(特に父親)がハマり、鉄腕!DASHを楽しみにし、ガチンコを楽しみにしている我が家族でした。
鉄腕!DASHに関しては、特にDASH村を楽しみにしており、夕飯を外で食べようと外出するも、番組開始までに帰れないことを判断すると、途中で家に引き返したこともあるぐらい、バラエティーのTOKIOにハマっていました。(主に父親が笑)
TSUTAYAにCDを借りに行ったとき、バラエティーの面白い人たちが音楽活動をしていることを知り、バンドTOKIOを知りました。
そして、私はバンドTOKIOにどハマりしていきました。
ちょうど中学生になり、CDをお小遣いから自由に購入できるようになったあたりで、「AMBITIOUS JAPAN」が発売されました。
リーダーがパーソナリティーをしていた「TOKIO CLUB」というラジオ番組を聞き始めました。
スペシャルウィークにメンバーの1人をゲストに迎え、好きな曲をセッションするのが、とても楽しみでした。(その当時、みんな「君を想うとき」を選んでいたので、きっと彼らそれぞれにとっての「君」がいるんだろうな、と思っていました笑)
雑誌も買い漁りました。
高校入学祝いと誕生日プレゼントを兼ねてプレゼントしてもらったのは、10周年のライブDVDでした。
会場が一体となって紙飛行機でお祝いした、と雑誌で読んだ場面を、映像で見ました。
この映像を見て「20周年のライブは、絶対会場でお祝いするんだ」と心に決めました。
年齢を重ねるにつれ、お小遣いの額も増え、シングルもアルバムも全種類買えるようになりました。
雑誌もますます買い漁りました。
ある日曜日の朝、「達也、結婚だって!」と親に起こされました。笑
彼らが非常に仲良しなこと、メンバーにはAVの隠し場所を教えておく、とか、メンバーのなにが落ちてたら誰のかわかる、とか、こちらが一切理解出来ないことで盛り上がること(笑)、音楽に対して真っ直ぐなこと、バラエティーも楽しんで前向きなこと、そんなところが魅力で、どんどん惹かれていきました。
そして、大学生になり、自由なお金も増え、自由に行動できるようになり、念願だったファンクラブに入りました。
「OVER 30's WORLD」で、ライブに初参戦しました。
CDで何度も聴いていた「城島ソング」のカッコいいアレンジに心を掴まれました。
アリーナ4列目で達也さんと目が合いました。
その頃には、達也さんのラジオも聞いており、そのことをメールを送り、読んでもらいました。(そのあとも数回読んでもらえた)
「PLUS」ツアーは、武道館にて2日連続で参戦予定でした。
3.11が起こり、振替公演の日程上、1日しか参戦出来なくなりました。
その唯一の日に、就活中だった私は、第一志望の不採用通知を受けました。
「上昇思考」で泣かされ、再度やる気をもらいました。
「1718」は、初めて連日参戦し、921をお祝いしました。
921が金曜日で、仕事終わりに走った思い出。
「sometimes」からの「The course of life」が大好きな流れでした。
最終日には、なまこ事件をアリーナで目撃しました。笑(まったく悪ふざけが好きなんだから♡←)
このあとぐらいから、あんまり音楽活動に積極的な感じを感じられなくて、少しTOKIOから離れていました。
そして「リリック」が発売。
ものすごい力でバンドTOKIOに引き戻されました。
TOKIOの音楽が、長瀬智也によって戻ってきた感覚でした。
そして、やってきた20周年。
ベストアルバム「HEART」にて、シングル1位を獲得したのが「リリック」だったことが、ファンの総意だと思いました。
ちなみに、この頃はゆずにもハマっており、TOKIOとゆずが好きな人とTwitterを通して繋がり、ライブ関係なくても旅行できるぐらい仲良くなれた友達が出来ました。
遠征の楽しさを知りました。
行けるところは全て行った。
本当にお祭りでした。
セトリも素晴らしく、初日の川口で、仕事終わりに走り、最初の3曲ぐらい聞けなかったのにも関わらず、前半だけで「もう満足できるんだけど」と言えてしまったぐらい。
そして、オーラスの武道館。
10年前に心に決めた場所に立てました。
「LOVE YOU ONLY」で泣いたのは初めてでした。
たくさん腕を振り、めちゃくちゃ腕が痛かったけど「もうどうなってもいいや」と思ったぐらいに夢中な空間でした。(翌日の筋肉痛は酷かった笑)
いつもお利口なトキヲタのワガママで、トリプルアンコールまでやって、松岡リサイタルが見れたのも良かった。笑
ここから音楽活動が続くのかと思いきや、そういうこともなかった。
CDが発売されてもアルバムは出ない。
アルバムが無ければもちろんライブもない。
そんな中での、太一結婚の知らせは嬉しかった。
会報の充実も嬉しかった。
もうすぐ25周年になっちゃうぞー、25周年はまたお祭り騒ぎが出来るのかなー、なんて思っていた2018年4月25日。
信じがたい事件が起きた。
第一報を自販機の電光掲示板で知った。
本っっっ当にばかやろう。
何してくれてるんだよ。
でも嫌いにはなれなかった。
大好きだった。
彼と絡むメンバーが大好きだった。
彼のいるTOKIOが大好きだった。
彼はTOKIOを守りたいから辞め、残された4人が彼の気持ちを尊重してくれたから、名前が残った。
それ以外「TOKIO」という名前を守る道はなかったと思う。
私は当時、解散しか道はないと思っていたから。
でも、それ以来、バンドTOKIOには会えなくなった。
あんなに鉄腕!DASHが好きだった父親も、「達也がいないと面白くない」と、4人になってからのDASHは観なくなった。
DASHに後輩が出ることが増えてきて、私もあまり観なくなった。
25周年のときのファンクラブの会費はご祝儀として支払ったが、これを最後にファンクラブの更新を止めた。
そして、2020年7月22日。
来年4月に、長瀬が退所することと、株式会社TOKIOの設立が発表された。(いい加減、情報をすっぱ抜かれる情報管理体制を、一企業としてなんとかして)
TOKIOという名前は、会社として引き継がれるらしい。
正直、また実験台か、という思いは拭えない。(ライブを映画館で同時上映するのは、事務所ではTOKIOが初の試みだったが、いかにも画期的みたいな雰囲気で後輩もやり始めたのが受け入れられなかった。きっとこれがうまくいったら、また同じ感じで、良いとこ取りされるんだろうな)
彼らの文章を読むと、5つの楽器の音がバンドTOKIOを作っている、ということが伝わってきて、嬉しくなったし、悲しくなった。
タヒチで太一が、TOKIOは5人、ということを話してくれて、涙が止まらなくなった。
太一、ありがとう。
私も5人のTOKIOが大好きだよ。
いつもバンドTOKIOに励まされてきました。
いつも前を向いているTOKIOだから、暗くなるのは止めます。
これからは、印税のためにメンバーの作った曲をカラオケで歌い、株式会社TOKIOの株を購入することで、あなた方を推していければと思います。(株について学ばなければ)
バンドTOKIO、本当にありがとう!!!
ばかやろうのせいで、本当にごめんなさい。
これからも、これまでの5つの楽器の音を聴き続けるからね!!!
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