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『守護神 山科アオイ』34. ハードボイルド

「いいか、ハードボイルドってのはな、周縁の男のロマンなんだ」
佐伯が肩が触れんばかりに世津奈にすり寄り、酒臭い息を吐きかける。世津奈は身をよじり、目で九鬼に助けを求めるが、九鬼はバーボンのグラス片手に高みの見物を決め込んでいる。
 世津奈は、佐伯にアルコールを勧めたことを痛切に悔いていた。警視庁時代、酒はもちろん、食事すらともにしたことがなかったから、これほど酒癖が悪いとは思わなかったのだ。
 ギムレットをハイピッチで3杯飲んだところから、急にベロベロになり、ギムレットをストレートのスコッチに変えてから1時間。延々とハードボイルド小説について語り続けている。肝心の和倉捜索の話は、佐伯の口から、ひと言も出ない。もちろん、世津奈の口からも、九鬼の口からも。

「おい、聞いてるのか?」
酔っ払いが絡んでくるので、仕方なく世津奈は訊き返す。
「終焉ですか。死を前にして、なんのロマンがあるのですか?」
「はぁ?」
佐伯が手にしたグラスをカウンターに叩きつけるように置く。
――うぅ、割れなくて良かった。
「貴様が言ってるのは、人生オシマイの終焉だ。違う、違う。俺が言ってるのは、円周率の「周」に、貴様には未来永劫縁のない縁談の「縁」を合わせた『周縁』だ」
「『縁談』を持ち出さなくても、その前に『縁がない』と、おっしゃいました」
 
 佐伯がマジマジと世津奈を見る。
「宝生、貴様、細かいこと言ってると出世できんぞ」
「私は、もう出世とか関係ない人生やってます」
 佐伯がグラスに三分の一ほど残ったスコッチを一気にあおり、
「マスター、お代わり」
と言う。いつの間にか、九鬼は呼び捨てにされずマスターと呼ばれ、世津奈は警部補を取られて宝生と呼び捨にされている。
  しかし、決して不快ではない。嫌で辞めた警察の階級で呼ばれる方が、ずっと不愉快だ。

「つまりだ。世間って皿の端から今にも落ちそうな所で辛うじて留まってる野郎の熱い物語だ。わかるか?」
 世津奈は、実はハードボイルド小説は、チャンドラーしか読んでいない。大学の一般教養の英語教師から『湖中の女』を教材に指定され読み終えたあと少し興味が湧き『さらば愛しき女』、『大いなる眠り』、『ロング・グッドバイ』の3作を読んだが、そこで飽きてしまった。
「周縁の男のロマン」などと言われても、まったくピンとこない。九鬼を高みの見物からリングに引き下ろしてやろうと、
「九鬼さん、ハードボイルドって、そういう物なんですか?」
と振ってみる。

 巌から削り出したような九鬼の顔の目尻と口の端にヒビが入る。九鬼が微笑みながら、言う。
「警視正の言うことは、概ね当たっている」
「おい、警視正でなく『佐伯さん』と呼べと、何度言ったら、わかる」
佐伯が目を三角にする。
「これは失礼しました」
九鬼が軽く頭を下げ、話を続ける。
「ハードボイルド小説の主人公は自分の流儀に忠実なあまり、世間の真ん中にいるのが嫌になったり、真ん中から弾き出されたりする。ところが、世間は彼を放っておいてくれない。厄介ごとを持ちかけてきて、男は自分の矜持のために闘う」
――つまり、「こじらせ男」の話なのね。
と、これは口に出さない。そんなことを言ったら佐伯がどんな反応を示すか、想像するのも恐ろしい。
 そこで、世津奈は「あれ?」と気づく。
「皿の真ん中を闊歩してらっしゃる警視正とは真逆の人の話じゃないですか」
「貴様は、俺という人間が、まったく分かっておらん!」
「私」が「俺」になった。

「俺の心はいつも周縁にある。俺は、『ハードボイルドだぜぇ』」
世津奈は、手にした炭酸水のグラスを落としそうになる。ジンジャー・エールは好物だが、5杯も飲むとさすがに胸が焼け、今は炭酸水を飲んでいた。

「そうなんですね。よく分かりました」
こいうときは、分かったふりして逃げるに限る。
「わかったなら、よろしい」
佐伯が意外とあっさり引き下がったと思ったら、思いがけない方向に話を振って来た。
「宝生、貴様の『世津奈』という名前は、変わってるぞ。『刹那的』やら『刹那主義』やらの刹那に聞こえて、非常に悪印象だ。どうして、そんな名前になったのか、教えろ」
 親がつけてくれた大切な名前の由来を、こんなベロベロ酔いどれ男に話してたまるものか。世津奈は、スツールの上で身を固くした。

〈つづく〉