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『守護神 山科アオイ』18. 悪魔と取引

「私には、『〈顧みられない熱帯病〉と闘う会』が私の提案に乗ってくるという確信など、なかった。むしろ、『闘う会』のような評価の高いNGOは、機密漏洩が”見え見え”の情報提供を無視する可能性が高いのではないかと不安だった。しかし、私は、『闘う会』の他に、私の抗マラリア新薬を製造提供できるNGOもNPOも考え付かなかった。私は、藁をもつかむ思いで匿名の手紙を出したのだ」
「でも、何の反応もなかった」と、慧子。
「そうだ」
和倉がうなだれる。

 世津奈が首をかしげる。
「私は『闘う会』の人間ではないので、確かなことは言えません。しかし、マラリア特効薬が会社の方針でお蔵入りしてしまう。それを、そのまま『闘う会』に伝えた方が、『闘う会』にも手の打ちようがあった気がします」
 和倉が驚いた顔で世津奈を見る。
「それは全く気付かなかった。私は、自分が開発したクスリを、一日でも早く工場の生産ラインに乗せることで、頭がいっぱいだった」
 慧子が和倉の目をのぞきこむ。
「そんな風に焦っていた和倉さんのことだから、香坂直美が『闘う会』の一員と名乗って接近してきたとき、彼女を疑わなかたったのではないかしら。そして、香坂直美に新薬情報を渡した」
世津奈とコータローが顔を見合す。

 和倉が自嘲の笑みを浮かべる。
「香坂直美が接触してきたときは、躍り上がるくらい喜んだよ」
世津奈が何か言おうとするのを、和倉が手で制する。その顔から自嘲の影は消えている。
「だが、私は、医薬品研究のプロで、しかも、アフリカで保健行政のために働いた人間だ。香坂直美と少し話しただけで、たちまち、彼女が『闘う会』のメンバーではなく、産業スパイだと気づいた」
「じゃ、香坂直美にクスリの情報は渡さなかったんすね」と、コータロー。
 
 アオイは、自分の中で引っかかっていることを口にするかどうか迷った。それは、アオイにとって、事実であって欲しくないことだったから。
 しかし、もし事実だった場合、それがマイナスの出来事なだけに、自分が取り上げなかったら、そのまま封印されてしまうかもしれないと思った。アオイは、口を開いた。
「和倉さん、あんた、香坂直美に抗マラリア新薬の情報を売っただろ」
和倉が一瞬たじろぐ。
「売ったんだよな」アオイはダメ押しする。

 和倉が態勢を立て直し、アオイに食ってかかる。
「失礼なことを言うな。私は、産業スパイだとわかっている人間に機密情報を流すような、腐った研究者ではない」
「腐ってなくても、機密情報を流すことは、ありうる」
慧子が冷ややかに言う。
「なんだと?」
和倉の言葉が荒れる。
「たとえば、そのスパイに情報を流せば、お蔵入りの新薬が日の目を見ると確信できた場合とか」
慧子が付け加えると、和倉の顔から血の気が引き始める。

「そうなんすか? 和倉さん」
コータローがメガネの奥の目を丸くして和倉を見る。
「和倉さん、あなたは、香坂直美の雇い主を確かめた。そうですよね」
慧子の突っ込みに、和倉は答えない。
「雇い主がアフリカの国だとしたら、レソトピアあたりかしら?」
慧子が水を向け、アオイは、和倉のYESという反応を感じる。
 世津奈が慧子に反論する。
「慧子さん、レソトピアと言ったら、独裁者エウケ・レ・レの暴政で悪名高い国です。アフリカの貧しい人々のために抗マラリア新薬を届けたいと念じている和倉さんが、最も取引したくない国のはずです」

「評判は悪い。でも、力がある。エウケ・レ・レは、アフリカで影響力を強めたい中国と欧米諸国を巧みに秤にかけ、どちらからも最大の援助を引き出し、国内のインフラを整備してきた」
「ですが、豊富な鉱物資源から得た富の大部分を軍備増強につぎ込み、国民は貧困にあえいでいます。そして、エウケ・レ・レを批判する人々は、みな監獄の中です」
世津奈が熱くなる。
「監獄の中か、もう、あの世っす」
コータローが付け足す。
「ええ。でも、その強欲と軍事力があれば、自国内はもちろん、近隣諸国にも抗マラリア新薬を広めることができる」
慧子がしゃらしゃらと答える。
「まさか!」世津奈とコータローが同時に絶句する。

「そのエウケ・レ・レだよ。私は、香坂直美がエウケ・レ・レに雇われていることを確かめ、彼女に新薬情報を売った」
和倉が投げ出すように言った。
 アオイは、自分の直感の正しさに自信を持つと同時に、起こって欲しくないことが起こっていたことに胸を痛めた。
「なんで、そんなことをしたんです!」
と非難する世津奈に、和倉は悪びれずに反論する。
「慧子さんの言うとおりだからだ。エウケ・レ・レは暴虐な独裁者だが、強欲で強大な軍事力を持っている。奴なら、私の抗マラリア新薬が、どれほどの富を自分にもたらすか、すぐに計算できる。そして、人道援助という名目で近隣諸国に軍を派遣し治安を確保して新薬を販売する手口を思いつく」
「だけど、エウケ・レ・レは欲張りなんだろ。せっかくの安い薬を高く売るぞ」
アオイが反論する。

 和倉ではなく、慧子がアオイに答える。
「きっと、高く売る。でも、既存の抗マラリア薬よりは、安く売る。そうしないと新規参入できないから。そのおかげで、抗マラリア薬に手が届く人が増える」
世津奈が反論する。
「でも、既存の抗マラリア薬を駆逐して市場を独占したら、たちまち値上げしますよ。既存薬以上の価格をつけるに違いない。そうなったら、抗マラリア薬に手が届く人が、今より減ってしまう」

 世津奈の反論に、慧子ではなく、和倉が答える。
「私は、エウケ・レ・レが抗マラリア薬市場を独占しても、価格を上げるとは思わない。むしろ安値を維持し、近隣諸国のできるだけ多くの人々に届けることで、近隣諸国への影響力を増大させようとするはずだ。近隣諸国に対する影響力を増大させれば、中国と欧米諸国からの援助を一層引き出しやすくなる。長い目で見れば、この方が、エウケ・レ・レにとって得になる」
「抗マラリア薬を武器にアフリカの盟主になることも不可能ではない。そういうことね」
慧子が言い、和倉がうなずく。

「でも、和倉さん、エウケ・レ・レに新薬情報を売ってはいないっすよね。『闘う会』に無償提供を申し出たんだから、エウケ・レ・レにも無償で提供したんでしょ」
コータローが言う。
「まさか」と、和倉。
「金は受け取った。なんで、エウケ・レ・レのような悪党にタダでくれてやらなきゃいけない。取れるだけの金をとって当然だ。もっとも、私は交渉事にはうといから、本当に取れるだけの金を取れてはいないと思う。香坂直美は私に金を渡すとき苦い顔をしていたが、腹の中ではほくそ笑んでいたことだろう」
「その金を、あんた、どうしたんだ?」
アオイが訊くと、和倉は
「いつか会社にばれたら、私はクビだ。機密漏洩の前科があっては、他のどの製薬会社も雇ってくれない。だから、贅沢をしなければ100歳まで暮らしていけるだけの額を生活費としていただいた。残りは、国内の医療NGOに匿名で寄付した」
と答えた。

「新薬情報を金で売ったことと、創生ファーマの違法な臓器購入を内部告発したことと、実は、関係があるんだろ」
アオイが突っ込むと、和倉が
「勘の鋭いお嬢さんだな」
と、あっさり認める。
そのとき、慧子のスマホに幸田からのメールが届いた。

〈「19. 調査指示」につづく〉