「日本昔話再生機構」ものがたり 第3話産業医の闘い 6. 危険な接触
〈『ギムレット奉行の正体』からつづく〉
スリナリ医師は、街灯の光で女性の顔とIDカードの写真を比べる。二つの顔は一致していた。
「労働基準監督官のミラ・ジョモレです。改めて、よろしく」
モジョレ監督官が左手を差し出す――左利きが多いラムネ星人は左手で握手するのだ――が、スリナリ医師はその手を取らず、突き放すように言った。
「労働基準監督官が監督するのは人間の職場。クローン・キャストは管轄外のはず。お話することは、何もありません」
「あら、先生は、それで良いとお考えですか?」
ジョモレ監督官が首をかしげ甘い声で尋ねる。街灯の光がもたらす陰影が彼女の彫りの深い顔を際立たせ、スリナリ医師を引きつける。
「ど、どういう意味でしょう?」
問い返す声が裏返りそうになり、スリナリ医師は慌てる。
「クローン・キャストにはラムネ星人と同じ労働法が適用されることになっています。でも、人間にとっての労働基準監督官のような法の適用を監視する公的機関はありません。法の番人がいないんです。それでは、法の実効性を担保できない。スリナリ先生がそれで良いとお考えとは、思えないのですけど」
ジョモレが、潤んだ大きな瞳でスリナリ医師の目をのぞきこんできた。またもジョモレの魅力にとろかされ声が裏返りかねない場面だったが、今度はスリナリ医師の中で義憤が性的興奮を上回った。スリナリ医師は強い口調で言い返した。
「労働基準監督官が法の番人ですって? そんな機能を果たしているとは、私には考えられない。私の記憶が正しければ、ラムネ星では100件の過労死裁判が進行中です。どのケースでも、担当の監督官は定期査察で過労の実態は認められなかったと証言している。どのくらい真面目に査察したのでしょう? 監督官と企業が癒着していたのではないか……などとも、考えてしまう」
スリナリ医師はジョモレが怒ると思ったが、返ってきたのは真逆の反応だった。ジョモレはスリナリ医師の心をとろかすような笑みを送ってきた。
「そういう疑いを持っている方が大勢いらっしゃるようです」
「癒着の実態を認めるんですか?」
「さぁ? 他の監督官が何をしているかは分かりません。ですが、私は、どこの企業とも癒着していませんよ」
「ほら、私が言ったとおりだ。他の監督官は知らないが、自分は企業と癒着していない。あなたは、そう言う。しかし、本当にあなたが癒着していないという証拠がどこにあります? 結局、あなたも含めて全員が真っ黒かもしれない。そんな程度の労働基準監督官が法の番人であるはずがないでしょう」
ジョモレの顔にいたずらっぽい笑みが浮かんだ。
「癒着するのは、企業が監督官を恐れている証拠。私は、そう思っていますよ」
「はぁ?」
「監督官は労働法に違反した企業に事業停止命令を出すことができます。企業は、監督官のこの力を恐れているのですよ。だから、あの手この手で監督官を誘惑し懐柔しようとする。そして、誘惑に負けてしまった監督官が企業と癒着する。実に残念なことです」
「なんですか、その無茶苦茶な理屈は?」
「無茶苦茶でしょうか? 監督官が〝まっとうな仕事”さえすれば企業を強くけん制できることの裏返しの証明だと思いますよ」
「誰も〝まっとうな仕事”なんかしてないじゃないですか。企業の牽制なんか、できてない。あなたたちは、ただのお飾りに過ぎないんだ。これ以上、あなたと話しても時間の無駄だ。明日の朝が早いので、これで失礼させていただく」
スリナリ医師はくびすをかえし、駅に向かって歩き出した。ジョモレのぬらりぬらりとウナギのような反応に腹が立っていた。スリナリ医師は、何ごとも白黒つけないと気が済まないたちだ。
「スリナリ先生」
ジョモレの声が追って来るが、先ほどのように振り返ったりしない。そして、このバーにも、二度と来ない。
突然、背後で聞き慣れた、そして、嫌悪感を引き起こす声がした。
「そやけど、さっきも言いましたように、今すぐ、手ぇ打てる状態にはおまへんのや」
スリナリ医師の足が止まった。
「ここは、センセと、うちんとこの部署が協力を密にして乗り切る以外、手がない思ぅとります」
「そんな程度のことでは、とても乗り切れません!」
定例部長会でスリナリ医師とクローン・キャスト育成部長が交わした会話だ。なぜだ、なぜ、こんなところで!
振り返ると、ジョモレがすぐ後ろにいた。左肩の前に、小型の録音機を掲げている。
「これは……」
「クローン・キャスト育成部長の対応は、ラムネ星の〝やる気ゼロ管理職”全員にとって、意欲的で良心的な後輩に食い下がられたときの〝はぐらかし方″ の手本ですね」
モジョレがいたずらっぽく笑う。
「いったい、どうやって、録音など」
スリナリ医師は口が渇いてうまく発音できない。
「さぁ、どうやったのでしょう? ともかく、これで私の話にお付き合いいただけますね」
ジョモレが言葉に圧を加え、スリナリ医師は思わずうなずいていた。
〈『エル・スリナリ医師の闘い/6. 魔の時間』につづく〉