AOE2で歴史を自己満語り:10.英仏編

 AOE2の文明に関する歴史的背景を、高校世界史+α程度の知識で自己満語りをしてみる。対象は本家の45文明+妄想文明3つ。正確性については保障しないが、「こんなのあったなぁ」「へー」などを思っていただけると幸い。

 今回は英仏編。高校世界史の資料集、浜島書店『世界史詳覧』をあわせて見るのがおすすめ。Google Mapを縮小表示で地球儀にして参照するのも良い。


 各文明の分布はこんな感じ。

ケルト:オレンジ
ブリトン:赤
フランク:青
ブルゴーニュ:紫

ケルト

 スコットランド・アイルランドを中心とする文明です。元々はライン川流域を原住地として西部・中部ヨーロッパ中に住んでいました。フランスにいたケルト人はガリア人と呼ばれ、ローマのカエサルによって討伐されました。そんなこんなでスコットランド・アイルランドに追いやられたのが今のケルトです。

 ヨーロッパ文化においてはローマ文化と肩を並べる程にケルト文化が基盤となっています。現代フランスにおいて文化の起源はローマかケルトかと言われる程です。シンプルかつ豪華なローマ文化に対して、自然的で不思議なケルト文化、そこに様々な要素が合わさったのが西ヨーロッパの文化です。


スコットランド

 スコットランドはアルバ王国ダルリアダ王国バーニシア王国ノーサンブリア王国(ブリトン)といった国々の統一により成立しました。ブリトンのノルマン=コンクェスト以降はイングランド(ブリトン)の脅威が顕在化し、ローマ時代に建設されたハドリアヌスの長城を境に両陣営の争いが度々発生します。


 13,14世紀にかけてはスコットランド独立戦争が発生し、ウィリアム・ウォーレスが活躍しました。
 13世紀にはヘブリディーズ諸島をめぐってスコットランドとノルウェーが争っていました。スコットランドが勝利し、ヘブリディーズ諸島はスコットランド領となりましたが、当時の王アレグザンダー3世が跡継ぎなく亡くなります。彼は自身と"イングランド王の娘"との間に生まれた娘、彼女と"ノルウェー王"との間に生まれた孫娘を次期王に推薦しました。しかし彼女は時化の影響で亡くなり、アサル王家が断絶して王位継承問題が発生します。

 王位継承候補はスコットランドの他にイングランドやノルウェー、オランダからも出てきて13人にもなり、収拾がつかなくなりました。これを調停してくれとスコットランド諸侯達に求められたイングランド王エドワード1世は、自身がスコットランドを支配する選択肢を強要し、成立させました。


 イングランド支配の続くスコットランドでしたが、ウォーレスがラナークのイングランド役人を殺害したことを機にスコットランドの反撃が始まります。ゲリラ戦を駆使したスコットランド軍はスターリング・ブリッジの戦いで勝利を納めました。しかしフォールカークの戦いではイングランドに大敗し、7年後の1305年にはウォーレスは捕らえられ、処刑されました。

 しかしその後もロバート1世をはじめとするスコットランド勢力は反乱を続け、バノックバーンの戦いではスコットランドが勝利を納めます。1318年にスコットランドを取り戻し、1320年にはアーブロース宣言でスコットランドが復活しました。

 しかし1332年にエドワード3世の支援の下エドワード・ベイリャルが反乱の末スコットランド王となり、再びイングランド領スコットランドの状況に戻ります。これに対してスコットランド側のアーチボルトが反乱を起こしてエドワード・ベイリャルを追い払いました。しかしそのアーチボルトがeドワード3世に敗北して戦死し、元スコットランド王デイヴィット2世はフランスに亡命し、スコットランドは王不在となりました。
 その後百年戦争が勃発し、フランスの要請でデイヴィット2世がスコットランド軍を率いてイングランドを攻めますが、ネヴィルズ・クロスの戦いで大敗しました。その後は人質のデイヴィット2世と引き換えに身代金をイングランドに払い続ける日々が続き、彼が亡くなると摂政だったロバート2世が即位してステュアート朝が始まりました。


 長らくスコットランドとイングランドは対立し、スコットランドとフランスが協力関係にありました。この関係は16世紀にイングランド王ヘンリ7世の娘マーガレットとスコットランド王ジェームズ4世の婚姻により変わり、イングランドとスコットランドが接近します。エリザベス1世が跡継ぎなく亡くなると、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王になりました。絶対王政をやったため議会などから不満が起こり、ピューリタン革命や名誉革命が発生して議会が王を抑えるようになりました。そしてアン女王のときにイングランドとスコットランドが合併し、イギリスが誕生します。


アイルランド

 アイルランドではしばらくバイキングの来襲や各国の争いが続いていましたが、1000年前後にブライアン・ボルによって統一されました。12世紀頃からは諸王国による分割統治が成立していましたが、この頃からイングランド及びノルマンの侵入が始まりました。レンスター地方の王が新王によってつい王されると、彼はノルマン人に依頼してレンスター王国を取り戻しました。それを警戒したイングランド王ヘンリ2世は自ら遠征してレンスター王国を乗っ取りました。
 1315年にはスコットランドからエドワード・ブルースを中心にケルト人(ゲール人)のアイルランドを取り戻しに遠征しました。ペストやバラ戦争の影響もあって、16世紀までにはゲール人のアイルランドが復活しました。

 余談ですが、クー・フーリンをはじめとするアルスターのケルト神話はアイルランドのアルスター王国が舞台です。


 歩兵+包囲兵器、木のボーナスという、自然と融合したケルトスタイルを反映したボーナスになっています。ウォードとはホソバタイセイという植物の別名で、青色の染料が取れます。ケルトの戦士はこの染料を自身の身体に塗ってゲリラ戦を行いました。また城主テクの牙城はエディンバラやカーラヴァロックに残されています。




ブリトン

  イングランドを中心とする文明です。元々ブリトン人はローマ時代前のケルト人を指しましたが、現在ではイングランド及びイギリス(ブリテン島)に住む人々のことを指します。ブリトンはブリトン人、アングロ人、サクソン人、デーン人、ノルマン人などを含んでいます。


 ブリトン人の住むイングランドは43年にローマ帝国に征服されました。スコットランドとの境界には長城が建設され、属州としてのイングランド統治が4世紀まで続きました。
 ゲルマン民族の大移動でアングロ人とサクソン人がデンマークからやってきます。このときできたのがアングロ・サクソン七王国という7つの王国です。幾多の戦いを経て825年にはウェセックス王国のエグバードが七王国を統一します。本格的なイングランド王国の始まりです。


 そこにやってきたのがバイキングです。デーン人は度々イングランドに侵攻しました。9世紀後半はアルフレッド大王が撃退していましたが、10世紀にはクヌート(バイキング)が勝利してデーン朝イングランドが始まります。その50年後にはフランスのノルマンディーからウィリアム征服王(バイキング)が侵攻、ヘースティングスの戦いで勝利してノルマン朝イングランドに変わりました。(ノルマン=コンクェスト)

 1154年にノルマン朝が途絶えると、近縁であるフランスアンジュー伯アンリがヘンリ2世としてイングランド王になり、プランタジネット朝が始まりました。このフランス諸侯がイングランド王になったというのがポイントです。ノルマンディー公がイングランド王にもなったので、イングランド王はフランスのノルマンディーも統治しました。アンジュー伯がイングランド王になったので、イングランド王はアンジュー家のもつ西フランスも統治しました。フランス王が彼ら諸侯をきっちり従えていればよいのですが、当時は諸侯の力の方が強力でした。この事象は実質フランス領土の縮小であり、百年戦争の原因でもあります。


 そんな西フランスまで手に入れているイングランドですが、ここで評価最悪の王が君臨します。ジョン欠地王です。彼の治世ではフランス王にことごとく西フランスの領土を奪われ、イングランドのフランス領土は南西のギエンヌと北部のフランドルのみになりました。さらにはローマ教皇から破門を受け、貴族や聖職者からは王権が弱められるマグナ=カルタを承認させられました。

 このマグナ=カルタをきっかけにイギリス議会が形成されていきます。1265年にはシモン=ド=モンフォールによって議会が創設され、95年には模範議会が招集され、1341年には貴族対庶民の二院制が成立しました。近代にはピューリタン革命や名誉革命などを通じて議会形成の動きが進み、17世紀後半にホイッグ党トーリ党という2大政党が成立、89年には権利の章典により立憲王政が確立、1721年にはウォルポール内閣という責任内閣制が成立しました。こうして王による政治から議会による政治に移行しました。



百年戦争

 話を中世に戻して、百年戦争(1339-1453)の話をしましょう。フランスではカペー朝が断絶(フィリップ4世の子孫の王位継承候補がいなくなった)し、近縁のフィリップ6世を王にしました。そこにイングランドのエドワード3世が「俺の方が近縁やろがい!俺をフランス王にしろ!」と要求します。エドワード3世はフィリップ4世の娘の子でした。しかしフランスには男系男子による王位継承の義務があるため、フィリップ6世は断ります。
 このほか、羊毛の産地であるフランドルや広大なギエンヌをイングランドが領有していること、スコットランド王がフランスに亡命していることも対立要因となり、フィリップ6世は「ギエンヌよこせ。さもなくば戦争だ」とイングランドに迫りました。エドワード3世は「上等だ、やってやろうじゃねぇか」と返答したため、百年戦争が開幕しました。


 初期20年はイングランド軍の優勢となりました。クレシーの戦いポワティエの戦いなどでは、イングランドのロングボウ+長槍兵の組み合わせがフランスの騎士+石弓を次々に溶かしていきました。海戦においても、はじめはフランスがジェノヴァ艦隊を雇っていたため少し押されていましたが、ジェノヴァを金でもって不参戦を約束させてからはイングランドが優勢になりました。なおこの時期にブルターニュ継承戦争も起こっています。
 資金面などでの苦労はありましたが、フランスのクレシー、カレー、ポワティエなどは大損害を被り、王族たちも捕らえられ、第1ラウンドはイングランドの勝利という形でブレティニー条約が結ばれました。イングランドはフランス西部を手にし、捕えていたジャン2世の身代金をフランスに要求しました。ジャン2世は身代金を全額支払う前に釈放されましたが、人質の1人が脱走したため自らロンドンに赴き処刑されました。


 次王シャルル5世は事後処理に苦しめられます。増税による財政難解消、外交による敵対勢力懐柔(フランドルなど)、第2次ブルターニュ継承戦争の対応など、賢王と呼ばれる程の働きをしました。ジャックリーの農民反乱を平定したのも彼です。
 ここでスペインのカスティリャ王国からエンリケ・デ・トラスタマラペドロ1世の攻勢に耐えかねてフランスに亡命しました。シャルル5世はベルトラン率いる王軍をカスティリャ王国に遠征、ペドロ1世を廃してエンリケを王に戴冠させました。しかしペドロ1世はイングランド領アキテーヌに亡命し、エドワード黒太子率いる王軍がカスティリャ王国に遠征しました。ナヘラの戦いをはじめとしてイングランドがフランスを打ち負かし、見事ペドロ1世が復権しましたが、彼は戦費に係る負債を放棄、エドワード黒太子がアキテーヌへの増税でこれを返済しようとすると、アキテーヌの諸侯が反発、フランス高等法院に訴え、フランスとイングランドの対立が再燃しました。


 こうして始まった第2ラウンド(1369-1396)はフランスの優勢で話が進みます。大規模戦闘を避けて、弱ったところを確実に攻撃するフランス軍の戦略は、モンティエルの戦いポンヴァヤンの戦いで勝利を納めました。さらにはカスティリャ王国のエンリケ2世とも協力関係にあるため、彼がラ・ロシェルの海戦でイングランドを打倒しました。道中フランスは北西のブルターニュを取り返しました。
 国外で負け続きのイングランドでしたが、国内でも内乱が発生します。まず戦費調達のための増税によりワット・タイラーの農民反乱が発生しました。これを平定したリチャード2世は議会を捨てて親政を進め、フランスとの和睦を進めましたが、これに主戦派諸侯が軍事蜂起を起こし、最終的にリチャード2世を幽閉しました。そしてヘンリー・ボリングブルックが王位に就き、ランカスター朝が始まります。

 一方でフランスでも内乱が発生していました。当時幼少のシャルル6世の後見人としてアンジュー公ルイ1世ベリー公ジャン1世、ブルゴーニュ公フィリップ2世(豪胆公)が補佐していました。彼らやブルボン公ルイ2世は増税した金で好き勝手やるようになりました。そのため1388年にシャルル6世による親政が宣言され、上記の後見人たちは排斥されました。
 しかしここでシャルル6世が精神錯乱を起こし、国内で動揺が発生します。シャルル6世の代わりにオルレアン公が国王代理を務めましたが、ここでジャン1世が軍事クーデタにより政権を掌握します。対するオルレアン公もアマルニャック伯ベルナール7世と同盟を結んで対抗しました。これがブルゴーニュ派vsアマルニャック派の対立です。


 第3ラウンド(1412-1453)はイングランド&ブルゴーニュ派vsアマルニャック派という構図となりました。フランスの混乱はイングランドにとってはチャンスなため、ブルゴーニュ派と同盟を結び、アマルニャック派を廃してフランス掌握を試みました。アザンクールの戦いでは4倍以上のフランス軍相手に勝利を納め、トロワ条約時(1420)にはノルマンディーなど北部一帯はすべてイングランドが征服していました。これでフランス王位にイングランド王ヘンリ5世が就き、シャルル6世は排斥されました。なおブルゴーニュ派は一時期アマルニャック派に協力する姿勢を見せていましたが、王太子のシャルル7世がジャン1世を惨殺したため交渉決裂、再びイングランド側に付きました。

 1422年にヘンリ5世が急死して幼少のヘンリ6世が王位に就き、対するアマルニャック派のシャルル7世はブールジュを拠点として抵抗を続けました。互いに同盟関係を広げていくなか、イングランドはブルージュの北にあるオルレアンを包囲しました。オルレアン包囲戦と呼ばれるものです。ここからブルージュまで侵攻してアマルニャック派の崩壊を狙っていましたが、ここに南からフランス軍の増援が来ることでそのたくらみが崩壊します。このフランス軍のリーダーが村娘のジャンヌ・ダルクでした。この戦いやパテーの戦いで風向きが大きく変わりましたが、翌年のコンピエーニュ包囲戦でパリ解放を狙ったフランス軍は敗北し、ジャンヌは捕らえられました。

 ここでブルゴーニュ派とアマルニャック派の間で休戦協定が結ばれます。これを機にシャルル7世はブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)とアラスの和約を結び、ブルゴーニュ派をフランス側に付けることに成功しました。その後フランスはパリとその周辺一帯、シャンパーニュ、ロレーヌと、奪われていた領土を次々に取り返し、最後にノルマンディーやアキテーヌに進軍しました。リシュモンの活躍もあってフォルミニーの戦いカスティヨンの戦いで大勝利を納め、現在のようなフランスの領土が取り戻されました。


王政期

 百年戦争のわずか2年後、イングランドでは薔薇戦争(1455-1487)という王位継承戦争が発生しました。百年戦争で劣勢になった1430年以降、和平派のランカスター家と主戦派のヨーク家の間で「誰が戦犯か」「誰が王にふさわしいか」などで権力闘争が発生しました。この戦いは貴族vs貴族の戦いにとどめられ、農民や農村などへの被害は最小限であったと言われています。最後はランカスター家に近縁のヘンリ7世がヨーク家を打倒して、ヨーク家のエリザベスと結婚して王となり、テューダー朝を始めました。この辺りから絶対王政への移行が始まりますが、イギリスの場合はのちのスチュアート朝時代の騒動もあって議会の力も強く残りました。


 次王ヘンリ8世は宗教改革を行った王で、1534年に首長法を制定しました。当時ヘンリ8世は後継者である男児を生むことができず、6人の女性と結婚しましたが男は生まれませんでした(アン=ブーリンがよく悲劇の女性として語られますね)。離婚はカトリックの教義に反するため、ヘンリ8世はローマ教会と対立しました。「なら自分で宗教つくってやる」ってことでヘンリ8世はイギリス国教会を成立させ、カトリック世界から離脱しました。

 メアリ1世は母がスペイン王家であったため、スペイン王フェリペ2世と結婚しました。しかしこれはスペイン王家によるイングランド支配の可能性があったために反発も大きく、カトリック復活やフランス最後の英領カレーの喪失などの問題を起こしました。

 次王エリザベス1世はこれをうまく挽回しました。統一法によりイギリス国教会を確立させ、海賊フランシス・ドレークにスペインの勢力を衰退させ、オランダ独立戦争でスペインの敵であるオランダを支援して、アルマダの海戦にてスペイン無敵艦隊に勝利しました。東インド会社が設立されたのもこの頃です。この44年の治世は弱っていたイギリスが見事に復活した黄金期であると言われています。


 以降はスチュアート朝を経て立憲王政のイギリスが成立します。スペインも押さえつけ、世界中に植民地を持つ大英帝国へと進化するわけです。

 城主テクのヨーマンは独立自営農民(自作農)であり、金のために戦争に参加した彼らはウェールズ発祥の長弓(ロングボウ)をうまく使いこなしました。彼らは王政期にジェントリが行った囲い込み(農地没収して羊毛生産場に切り替える行為)で土地を失った地主らを使って工場制手工業を行ない、産業革命の基盤を形成しました。帝王テクの人狼(ウォーウルフ)はエドワード1世がスターリング城包囲の時に作成した巨大な遠投投石機のようです。




フランク

 フランク族を基盤とする文明です。フランク王国およびフランス王国が主な文明です。


フランク王国

 フランク族はオランダからフランス北部に移住し、フランク王国を建国しました。クローヴィスが初代王に即位してメロヴィング朝を創始し、キリスト教の正統派であるアタナシウス派に改宗しました。他のゲルマン民族は異端であるアリウス派に改宗していたので、フランク王国はローマ教会やローマ系住民の支持を独占しました。

 東ゴートやランゴバルトといったゲルマン民族が参入してくる中、フランク王国は地道に領土を拡大していきます。フランクには分割統治の慣習があるため、王国は基本的に複数の国の連合という形がとられました。
 そこを襲ったのがイスラム帝国(サラセン・ベルベル)でした。イスラム帝国はイベリア半島を渡って南から侵攻していきました。しかし732年にトゥールとポワティエの間の土地での戦いで、カール・マルテル率いるフランス軍はイスラム帝国軍を撃退しフランク王国の滅亡を防ぎました。(トゥール・ポワティエ間の戦い


 王ではなく宮宰だったカール・マルテルは、その活躍から実質王のような存在になっていました。彼は例のように領土を分割して息子たちに統治させようとしましたが、うんぬんかんぬんあってピピン3世が単独統治することになり、ここにカロリング朝が成立することになりました。彼はランゴバルト王国に遠征し、獲得したラヴェンナ地方をローマ教皇に譲りました。これが教皇領の始まりです。

 カール1世(シャルルマーニュ)の時代にフランク王国は最盛期を迎えます。領土はフランスに加えてベネルクス三国やドイツイタリアの一部なども支配しました。広大な領土なので、巡察使という地方行政監督官を派遣して地方諸侯(伯)を管理しました。800年には教皇レオ3世からローマ皇帝の帝冠を受けたため、実質第2ローマ帝国という扱いになりました。第3は神聖ローマ帝国です。
 文化面でも最盛期です。カール大帝は多くの知識人をアーヘンに呼び集め、カロリング・ルネサンスを起こしました。ローマの知識・文化を研究したり、各学問分野の確立を進めたり、教会を中心にフランク王国は教養水準を高めていきました。


 しかしフランクの伝統である分割統治というシステムには欠陥がありました。効率の良い統治はできるものの、カール大帝の死後は統治者同士での権力闘争が顕在化するようになりました。統治者たちは自身の権力のための政争を繰り返し、時には異民族との同盟も行い、時には王国滅亡の危機を感じて和平を行いました。しばし統一と分割統治を繰り返した結果、フランク王国は西のフランス王国(987~)、南部のイタリア王国およびイタリア諸邦(774~)、東の神聖ローマ帝国(962~)に分裂しました。


フランス王国

 カロリング朝からユーグ・カペーによるカペー朝への移行を起点としてフランス王国の歴史は始まります。なおフランス王国の王はカペー朝、ヴァロワ朝、ブルボン朝、オルレアン朝、すべてユーグ・カペーからの男系男子による継承です。これは西洋国家にしては珍しく、東洋国家の観点から言えば王朝交代ではない(カペー家の単独王朝)です。この制度はイングランドなどとの政略結婚による内政干渉などを避けるためのものでした。実際百年戦争開始のときにはイングランド王がフランス王位を要求していましたね。

 カペー朝にはフィリップ2世、フィリップ4世という有能な王がいました。2人ともイングランドの保有するフランス領を大きく取り返しました。その他フィリップ2世は第3回十字軍に参加、フィリップ4世は三部会という身分制議会を開いたり、教皇ボニファティウス8世を捕らえて教皇権を強奪したりしました。ヴァロワ朝は百年戦争を経験し、特にシャルル7世が目覚しい活躍を見せました。


 百年戦争を通じて農民反乱やペストなどを経験し、諸侯や騎士が没落して絶対王政への移行が進みました。ヴァロワ朝後期は「イタリアをめぐる神聖ローマ帝国との戦い」「ユグノー戦争」というワードに代表されます。イタリアではオスマン帝国と同盟を結んで神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)に対抗しましたが、最終的には手を退ける形となりました。それに合わせて、宗教改革でカルヴァン派を信仰していた人々(ユグノー)とカトリック信者との対立が深まり、サン・バルテルミの虐殺、ユグノー戦争へと発展しました。イギリスやスペインを巻き込んだこの戦争はアンリ4世のナントの王令により終結しました。その後は新教旧教の対立をうまくまとめながら?の政策がとられていきました。そしてルイ13,14世、フランス革命、ナポレオン、王政復古、革命、などと進んでいきますが、ここで話はおしまいです。


 フランスはまさに中世ヨーロッパの正統派みたいなイメージがありますね。フランカスロウはフランキスカを用いた兵士です。たまにRPGなどでも見かけます。ビアードアックスはその改良版です。




ブルゴーニュ

 ブルグンド人を基盤とする文明です。主にフランス東部のブルゴーニュを拠点としていました。

 ブルグンド人はドイツ北部からアルザス・ロレーヌ辺りに南下し、5世紀にグンダハールによって第一ブルグンド王国が建国されました。この王は叙事詩『ニーベルンゲンの歌』にも出てきます。ブルグンド王国は西ローマ帝国と対立し、西ローマ帝国に雇われたフン族の傭兵に滅ぼされました。
 しかし西ローマ皇帝から南部のリヨン周辺に土地をもらい、第二ブルグンド王国が建国されました。第二王国は積極的に西ローマへ内政干渉をしましたが振るわず、最後はフランク王国により征服されました。征服後はフランクの慣例に基づいて分割統治されました。

 分割統治の末、ブルゴーニュは3つに分かれました。ユーラブルグント王国キスユラブルグント王国ブルゴーニュ公国です。

ユーラブルグンド王国:黄土色
キユスラブルグンド王国:オレンジ
ブルゴーニュ公国:茶色

作者:Marco Zanoli

 ユーラブルグンド王国は在地貴族の権力の強い王国でした。933年にはキユスラブルグンド王国を併合してアルル王国を成立させましたが、神聖ローマ帝国の介入により、アルル王国は神聖ローマ帝国の影響下に置かれるようになりました。その後もブルゴーニュによる自治は認められましたが、王位は様々な家系に回され、百年戦争下の1378年、ついにアルル王国はフランスが支配することが決定されました。

 キユスラブルグンド王国はプロヴァンス王国を引き継いだ形で建国されました。王ルイ3世はイタリアに侵攻しましたが、マジャール傭兵を用いたイタリアのベレンガーリオ1世により撃退されました。負傷したルイ3世の代わりにウーゴが王国を統治することになりました。
 その間にユーラブルグンド王ルドルフ2世がイタリア王に君臨しました。しかしルドルフ2世はイタリア市民には不評で、イタリア市民はウーゴを王に選びました。こうしてキユスラとユーラの間に対立が発生する中で、仮にも王であったルイ3世が亡くなります。イタリアに付きっきりなウーゴは、イタリアを統治する代わりにキユスラをユーラに明け渡す和睦をルドルフ2世と交わしました。こうして上下ブルグンド王国は統一されましたが、プロヴァンス伯はルイ3世の家系が引き続き統治しました。


 最後にブルゴーニュ公国です。これはAOE2に強く反映されている公国で、百年戦争にも大きく関与しました。公国なので元々はフランス王国の一部であり、しばらくカペー家の傍系のブルゴーニュ家が統治していました(すなわち、このブルゴーニュは実質フランクであり、上記ブルグンドとは少し違います)。このブルゴーニュ家はポルトガル初の王朝ボルゴーニャ朝の祖でもあります。ブルゴーニュとポルトガルって繋がってたんですね。

 イングランドが羊毛を通じてフランドル伯に近づいていたので、フランスのシャルル5世は弟でブルゴーニュ公のフィリップ豪胆公をフランドル伯と結婚させ、フランドルのイングランド化を防ぎました。こうしてブルゴーニュ公はブルゴーニュの他にフランドルも支配することになりました。

 百年戦争が進むにつれ、ブルゴーニュ派(ブルゴーニュ)とアマルニャック派(フランク)の対立が大きくなりました。一時期は王権を奪ってイングランドと同盟を結んでいましたが、ジャンヌの登場とアマルニャック派の巻き返しにより、イングランドを捨ててアマルニャック派と和解しました。

 この和解をしたフィリップ善良公は、他にも北方ルネサンスを推進したり、ポルトガル女王イザベルと結婚してその記念に金羊毛騎士団を創設したりしました。なかなか有能な公ですね。


 その後は野心家のシャルル突進公がブルゴーニュ公となり、フランスに対してブルゴーニュ戦争を起こします。彼は北部のフランドルと南部のブルゴーニュを結ぶためにアルザス、ロレーヌ、そしてスイスへと手を伸ばしました。しかし各地方やケルン大司教などに手痛い返り討ちに遭い、その戦いで戦死しました。この時のスイスの力はすさまじく、のちに永世中立国となる存在感を諸外国に見せつけました。

 この戦争のあとからブルゴーニュ公国はフランスの侵攻を免れなくなります。最終的にはフランドルもブルゴーニュもフランスに帰属することになりました。


 フランスの一部でありながらもイタリアやイングランド、ドイツ、ネーデルラント、ポルトガル、スイスと様々な国と接点があり、百年戦争やルネサンスなどに大きく関わった独特の文明ですね。内政と騎士、そして火薬が特徴的な文明です。

 クースティリエはフランスの下級兵士で、シャルル突進公の軍にもその存在が確認できます。ボジョレーをはじめとしてブルゴーニュワインは有名であり、中世にはクリュニーやシトーといった修道会やブルゴーニュ公国などが製造、開発していました。一方のフランドルでは羊毛業を中心に目覚しい発展を遂げ、都市保有の民兵も招集されました。これはのちのオランダ独立などにも繋がります。おそらく帝王テクのフランドル革命はオランダ独立戦争が元ネタでしょう。


 オランダはオランダ独立戦争でスペインから独立しました。
 シャルル突進公の敗北によりフランドル(ネーデルラント)はスペインハプスブルク家の領土となりました。スペインはカトリック国でしたが、宗教革命の影響でネーデルラントにはカルヴァン派プロテスタントが広まりました。

 スペイン王フェリペ2世が異端審問でカルヴァン派を弾圧していくのに対して、ネーデルラントはオラニエ公ウィレム1世を中心に反乱を起こしました。結果ベルギーとルクセンブルクはスペインが、オランダはユトレヒト同盟を結成した新教派が支配するようになり、1600年までにネーデルラント連邦共和国が独立、1602年にオランダ東インド会社が設立され、17世紀のオランダ黄金時代の準備を整えていきました。

 その後前代未聞の大戦争である三十年戦争を経て、オランダはスイスと共に独立が認められました。



今回はここまで。次回は大航海編。お楽しみに!