AOE2で歴史を自己満語り:13.山岳編

 AOE2の文明に関する歴史的背景を、高校世界史+α程度の知識で自己満語りをしてみる。対象は本家の45文明+妄想文明3つ。正確性については保障しないが、「こんなのあったなぁ」「へー」などを思っていただけると幸い。

 今回は山岳編。新文明のアルメニア・ジョージアの話です。
 高校世界史の資料集、浜島書店『世界史詳覧』をあわせて見るのがおすすめ。Google Mapを縮小表示で地球儀にして参照するのも良い。

 各文明の分布はこんな感じ。

ジョージア:青
アルメニア:赤


コーカサスの歴史

共通の歴史は大体こんな感じです。

独自の文明、王国(~5,7世紀)

ビザンツ帝国、ペルシア帝国、イスラム帝国の支配下(5,7~8,9世紀)

独立(8,9~11世紀)

モンゴル、トルコの来襲(12~16世紀)

サファヴィー朝、オスマン帝国、ロシア帝国による分割統治(17~19世紀)

ソビエト連邦支配下(1911~1990)

ソ連崩壊に伴い独立、今に至る(1990~)

 近隣の強国に支配されたり、逆に保護してもらったりしながらうまく生活していました。ビザンツ帝国、イスラム帝国、モンゴル帝国、オスマン帝国、ロシア帝国など各帝国がぶつかる最前線の土地であるため、国家存続にはかなり苦労したことでしょう。

 今回は主に古代、中世の独立王国について見ていきます。




アルメニア

 元吹奏楽部民にとってアルメニアと言えばこの曲。

 民族楽器ドゥドゥク。いい音。

全体の歴史はこちら。


古代アルメニア王国(bc190-ad428)

 古代のアルメニア王国はセレウコス朝シリアとローマ帝国の間の時期に、中東北部にて繁栄しました。

 紀元前の中東の統一国家は、前8世紀のアッシリア王国に始まりました。全盛期の王アッシュル=バニパルが有名で、その街並みは異世界作品のモデルになったりもします。
 しかしその支配はかなり抑圧的だったため100年もたたずに反乱で滅亡、4王国に分裂しました。エジプト、新バビロニア、メディア、リディアです。バビロン捕囚もこの新バビロニアでの出来事です。
 それらを征服した帝国がアケネメス朝ペルシアです。以前イスラム編で書いたように、交通網を整備したりして中東エジプトから中央アジアまで幅広く統治していました。
 そこを侵攻したのがマケドニアのアレクサンドロス大王です。イスカンダルとも呼ばれる彼は、バルカン半島から東征してアケネメス朝をすべて征服しました。これを機にオリエント文化とギリシア文化が融合してヘレニズム文化が誕生し、個人主義や自然科学などが発展しました。
 アレクサンドロス大王が病死すると、後継者争いで帝国が分裂しました。カッサンドロス朝マケドニア、リシマコス朝、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアです。特にセレウコス朝シリアは中東やペルシアを幅広く統治していましたが、後続のバクトリア(ギリシア系)やパルティア(ペルシア系)に帝国東部を奪われ、ローマにも負けて衰退していきます。

オリエントの歴史ざっくりまとめ

 そんなセレウコス朝シリア(文明でいうとビザンティン)の1地方であったアルメニアは、セレウコス朝の衰退と共に王国として名乗りを上げるようになります。これが古代のアルメニア王国です。有名な王は建国者のアルタクシアス1世、最盛期の王ティグラネス2世です。ティラグネス2世は中東北部の広域に影響力を広げましたが、ローマとの戦いには負けました。

 ローマの同盟国となったアルメニアは、ローマvsパルティア・ササン朝ペルシアの戦いに巻き込まれるようになります。その結果、アルメニアはローマのみならずササン朝ペルシアにも従属する形となり、そのまま衰退していきました。428年まで形は存続しましたが、実質1世紀までの王国だったとも言えるでしょう。


バグラトゥニ朝アルメニア(885~1045)

 中世アルメニア王国その1、バグラトゥニ朝アルメニアです。9世紀のイスラム帝国(アッバース朝)の衰退とともに登場し、ビザンツ帝国による征服によって終焉を迎えました。

 9世紀のアルメニアは西のビザンツ帝国と南のアッバース朝の板挟みとなっていました。しかし南のアッバース朝では各地で「お前がカリフだぁ?ふざけんな、俺がカリフだ!」という声がいくつも上がり、アッバース朝の影響力が弱まっていました。

 バグラトゥニ朝もこの機を生かして勢力を拡大し、アショト1世が王国を建国しました。その中身は各地に地方王国が存在する分王国群であり、その中にはアラブ人の統治するものもありました。地方分権の著しいバグラトゥニ朝はアショト1世の死後に本格的に分裂の危機に至りましたが、次王スムバト1世がサージュ朝トルコに侵攻、処刑されると、アルメニア人同士での結束が強まってサージュ朝打倒に成功し、再び1つの王国としてまとまりました。

 結束力の高まったバグラトゥニ朝ですが、周囲にはまだビザンツ帝国やアッバース朝、ラワード朝クルド(ペルシア)といった天敵が存在し、中央政府は軍備拡張に追われることとなりました。一方で分王国であるヴァスプラカン王国のガギク1世がアルメニアの政治経済を大きく成長させました。経済においては陶磁器、織物の輸出や各地からの輸入が盛んになり、宗教においては多くのアルメニア教会の建築物が各地に建造されました。

 しかしガギク1世(中央政府の王の方。同姓同名は紛らわしいね)の死をきっかけに王家が分裂、内紛状態になったところでビザンツ帝国がアルメニアを征服しました。ただ当時のビザンツ帝国も力が弱まっていて、東から来たセルジューク朝(トルコ)には勝てませんでした。ここからアルメニアはセルジューク朝、フラグ=ウルス(モンゴル)、ティムール朝(タタール)といった遊牧民族に支配され続けました。マリク・シャーをはじめしばらくはアルメニアの保護が手厚く行われていて経済や芸術の成長は続きましたが、フラグ=ウルスがイスラム化した辺りからアルメニア政策が弾圧へと変わってしまい、アルメニアは苦難の時代が続くこととなりました。


キリキア・アルメニア王国(1080-1375)

 最後にキャンペーンにもなっているキリキア・アルメニア王国の紹介です。十字軍国家の隣で繁栄した王国です。

 11世紀のキリキアではビザンツ帝国がハムダーン朝(サラセン)を追い出して、アルメニア人の長官をキリキアに送りました。この長官は世襲化されて力を蓄え、キリキアにはアルメニア人が集結するようになりました。やがてセルジューク朝が西に進路を曲げてビザンツ帝国を圧倒するようになると、キリキアにはアルメニア長官らによる国々が現れたり消えたりしました。

 そこに来たのがルーベン1世という移住してきたアルメニア貴族でした。一説にはバグラトゥニ朝の子孫であるとも言われています。彼はキリキアにアルメニア王国を建国し、一大貿易国家としての繁栄の一歩を進めました。

 周囲の情勢は十字軍vsセルジューク朝に移り変わっていきます。アルメニアは十字軍の加護を得てセルジューク朝を撥ね退けましたが、ビザンツ帝国への臣従という道は避けられませんでした。キリキア・アルメニア王国は1199年にビザンツ帝国の下で正式に承認され、貿易国家として繁栄しました。

 しかしそこにやってきたのはモンゴル軍(フラグ=ウルス)。モンゴル軍に敗北したアルメニアはフラグ=ウルスと同盟関係を結び、軍事支援と引き換えに経済、宗教の自由を得ました。但し敵対のマムルーク朝(サラセン、トルコ)にはモンゴル=アルメニア軍は次々に敗北してしまい、そのままアルメニア王国は衰退の一途を辿りました。


AOE2では

 大国との関係をコントロールしながら、うまく経済や宗教を発展させていった、というのがアルメニアの特徴です。経済テク効果upや聖なる箱ボーナスにも反映されています。騎兵が有名だったとも言われるアルメニア軍ですが、AOE2でも内政に裏付けされた騎士+戦闘神官ラッシュという選択肢も取れます。

 戦闘弓(複合弓)は木や竹、動物の骨や金属など、複数の材料で作られた弓のことです。小型で高威力なため、馬上でも使える上に長距離まで射程が届きます。一方で製作に手間がかかり湿気にも弱く、さらには弓を引くのにかなり力がいるのが難点です。

 戦闘神官はジョージアのケヴスル族の民族衣装サムケドロニを着て、片手に短剣、片手にアルメニア十字を持っています。歴史的背景はよく知りませんが、アルメニアが独自の宗派アルメニア正教をもっているという背景はあります。

 城主テクであるキリキア艦隊の当時の実力はよくわかりません。帝王テクのフェレテルはいわゆる聖なる箱です。




ジョージア

 ジョージアは黒海の東側でうまく自治権を確保しながら存続していました。しばらく東西(南北)に分かれていましたが、11世紀にジョージア王国として統一されました。
 名前の由来については諸説ありますが、ジョージアは英語由来、グルジアはロシア語由来のようです。また聖ゲオルギウスはジョージアをはじめとするキリスト圏の英雄です。


西(北)ジョージア

コルキス王国(bc13世紀)
 コルキス王国は紀元前13世紀に黒海東部で栄えた国です。青銅器文明として栄えたコルキスですが、紀元前8世紀に北の遊牧民族の攻撃を受けて崩壊し、紀元前6世紀にアケネメス朝ペルシアの支配下になりました。その後ギリシア人が入植したり、一時期イベリア王国、ポントス王国、ローマに支配されたりしました。コルキスはギリシア神話にもよく登場し、メデイアキルケーなどがコルキス出身だったりします。

ポントス王国(bc281-bc64)
 ポントス王国は紀元前に黒海南部で栄えた国です。元々はアケネメス朝ペルシアの属国でしたが、紀元前281年に独立しました。特にミトリダテス6世はコルキスや黒海北部のボスポロス王国を征服し、スキタイ人にも勝利して黒海沿岸を獲得しました。しかしローマには勝てずに征服されました。

アブハジア王国(778-1008)
 
しばらくローマ帝国、ビザンツ帝国の支配下に置かれることとなった西ジョージア。しかしイスラム勢力の撃退や領土獲得などを通じて力をつけ、8世紀頃には北ジョージアがアブハジア王国として独立しました。背景には北方のハザール人(クマン)の援助があったようです。
 特にジョージ 1 世の頃から東へ勢力を広げるようになりコーカサスでの権力が大きく拡大しましたが、しばらくすると各地方がその支配から抜け出すようになり、アブハジア王国は無政府状態にまで陥ります。そこに後述の南ジョージアのイベリア王国バグラトゥニ朝のバグラト3世が王に君臨し、ジョージアの南北統一が成立、ジョージア王国となりました。


東(南)ジョージア

イベリア王国(bc302-ad580)
 
西ジョージアのコルキス王国の隣にはイベリア王国が存在していました。ただ独立国として繁栄していた時期は短く、その大半はセレウコス朝シリア(ビザンティン)、ローマ帝国、ビザンツ帝国、ササン朝ペルシアの支配下にありました。この間にゾロアスター教、ミトラ教からキリスト教(東方正教)への国教変更が行われ、支配下での自治権を維持し続けました。
 しばらくササン朝ペルシアの支配下に置かれ、580年頃には皇帝によってイベリア王権が廃止されてイベリア公国に降格していました。

イベリア王国(888-1008)
 しかしイスラム勢力がイベリアに進出してササン朝を追い出すと、バグラトゥニ朝が反イスラム勢力として力を強め、イスラム勢力を一掃してイベリア王国を復興させました。隣国のアブハジア王国、アルメニア王国、ビザンツ帝国などとしばらく同盟と戦争を繰り返し、最終的にはバグラト3世がアブハジア国王を兼ねるようになって統一王国であるジョージア王国を成立させました。


ジョージア王国(1008-1490)

 ジョージア王国は初期の11~13世紀に黄金時代を迎えます。ダヴィド4世タマル女王辺りが有名です。
 ダヴィド4世は隣国で最盛期で合ったセルジューク朝(トルコ)の脅威に対抗すべく中央集権を進め、撃退してさらに多くの戦利品やトビリシ地域を獲得しました。さらには宗教政策なども進め、東方正教の国内での影響力も高めました。この功績は子や孫にも引き継がれ、セルジューク朝やビザンツ帝国を圧倒させました。
 タマル女王はダヴィド4世のひ孫にあたります。彼女は国防を成立させると同時に刑罰改定も行い、クーデタも粉砕しました。一時期消えていたビザンツ帝国の残存勢力トレビゾンド帝国を援助したり、サラディン率いるアイユーブ朝(サラセン)支配下のエルサレムにあるジョージア教会を返還させたりもしました。サラセンも一目置くほどには強力だったようです。

 しかし黄金時代はモンゴル来襲と共に終わりを迎えます。モンゴル帝国はジョージアを支配下に治めましたが、その後もジョージアの反乱は続きました。ギオルギ5世は衰退していたフラグ=ウルス(モンゴル)への貢納を止め、再び地中海貿易やトレビゾンド帝国などとの交流を進めました。さらにはジョージア人のエルサレム巡礼も成立させました。

 ギオルギ5世の下で再び繁栄するかに見えたジョージア王国ですが、ティムール帝国によりその夢は崩壊します。王国は1490年に分裂し、近世・近代になってオスマン帝国、サファヴィー帝国、ロシア帝国の三強に分割支配されるようになりました。


AOE2では

 粘り強く故郷を守り続けた点は、ジョージアの防御ボーナスに強く表れています。彼らの主力軍だった重騎兵もゲーム内で頻繁に登場します。

 モナスパはジョージア王国のダヴィド4世が設立した傭兵の騎兵隊です。セルジューク朝との戦いなどで活躍しました。
 城主テクのスヴァンの塔はジョージア北部のスヴァネティでよく建てられた塔のことです。世界遺産にもなっているこの塔、強そうですね。
 帝王テクのアズナウリ騎兵のアズナウリとは最下層の貴族のことです。彼らは社会的な自由度が高かったそうです。家にいないから人口スペースが空くってことなんですかね?



ここまで全45+3文明を解説していきました。いかがだったでしょうか。
今後の自己満語りは予定はないですが、気が向いたらまた何か書こうと思います。

ではでは('ω')ノシ