AOE2で歴史を自己満語り:6.ローマ編

 AOE2の文明に関する歴史的背景を、高校世界史+α程度の知識で自己満語りをしてみる。対象は本家の45文明+妄想文明3つ。正確性については保障しないが、「こんなのあったなぁ」「へー」などを思っていただけると幸い。

 今回はローマ編。ヨーロッパ文化の根幹を成す文明です。高校世界史の資料集、浜島書店『世界史詳覧』をあわせて見るのがおすすめ。Google Mapを縮小表示で地球儀にして参照するのも良い。

 各文明の分布はこんな感じ。

ローマ帝国が東西に分裂した図(395年)
ローマ:赤
ビザンティン:紫

wikiより引用
作者:Geuiwogbil at the English Wikipedia

ローマ

ローマ共和政

 今もなお語り継がれるローマは建国神話から始まりました。ロムルスとレムスは狼に育てられ、紀元前753年ぐらいにロムルスはローマに都市を築きました。先住民のエトルリア人による支配から脱しつつ、前509年には王政から共和政に移行しました。

 ローマ共和政は市民である貴族(パトリキ)と平民(プレブス)の対立、それを治めるようにそれぞれに民会と呼ばれる国会(貴族+少数の平民のための兵員会と、平民のための平民会)が設立されており、その上にそれぞれ執政官(コンスル)と護民官が選出されます。また政治経験者が顧問役として元老院(セナトゥス)も存在していました。ほぼ貴族の執政官、平民会、元老院、この3つの権力の均衡を保つことで共和政が成立していました。

 ローマ共和政は周囲への侵攻を進め、エトルリア人はギリシア人を退けイタリア統一までしました。ここで次に対立したのはフェニキア人であるカルタゴです。ハンニバルが象軍連れてアルプス越えとかしましたが、最終的にはローマの勝利でポエニ戦争は終結します。イタリア外の支配地である属州では有力者が大規模農作地であるラティフンディアを経営し、労働力として奴隷を採用しました。この制度は軍隊の中核であった中小農民の仕事を奪い、ニートになった彼らはローマに集まってパンと見世物を要求するようになりました。彼らの役目であった重装歩兵は消え、傭兵制へと変わります。

 しかしスパルタクスの乱のような奴隷たちによる反乱が相次ぎ、ローマは内乱の一世紀と呼ばれる動乱期に入ります。グラッスス兄弟、マリウス、スラ、ポンペイウス、カエサル、クラッスス、アントニウス、レピドゥス、オクタウィアヌスといった人物が内乱平定に尽力し、(この間にフランスやエジプトなどにも領土を広げ、)最後はオクタウィアヌスがアウグストゥスという名で皇帝となり帝政のローマに移行しました。


ローマ帝国

 帝政初期の1世紀はパクス・ロマーナと呼ばれる平和な時代でした。ラテン文学は黄金期を迎え、コロッセオが完成し、トラヤヌスの時代に最大領土を記録しました。

 この時期には奴隷農場であるラティフンディアが衰退し、小作農民を労働力とするコロナトゥスに移行しました。これにより地方の権力が強まり、傭兵制による軍隊の質低下、重税による都市没落と合わせて帝国分裂につながりました。これはのちにゲルマン文化と融合して中世の封建制へとつながります。

 そのこともあって、3世紀に入ると帝国は動乱期に入ります。軍人皇帝時代と呼ばれる皇帝が次々に交代する時期が続いたり、帝国の分割統治が進んだりしました。最後には395年にローマが東西に分裂し、そのうちの西ローマ帝国はゴートなどのゲルマン人に滅ぼされました。一方の東ローマ帝国はビザンツ帝国として存続し、1453年のオスマン帝国(トルコ)の侵攻の時まで繁栄しました。


キリスト教

 キリスト教はローマの時代に誕生しました。選民思想と律法主義を持つユダヤ教に対して、パレスチナのイエスは神の前の平等、神の絶対愛と隣人愛を説きました。しかしローマ帝国への反乱と見なされ、イエスはエルサレムで処刑されました。その後もペテロパウロなどの弟子が布教活動を続け、ネロ帝やディオクレティアヌス帝などによる迫害を受けながらも信者は帝国中に拡大しました。そして313年のミラノ勅令で、帝国統一の観点から皇帝にキリスト教が利用されるようになり、392年に国教化しました。

 ローマ帝国滅亡後も、ローマ教会はヨーロッパでの権威を維持しました。大移動したゲルマン民族たちはキリスト教を国教にしてローマ教会の権威下に入ります。特にローマ教皇の加冠を受けた(次期ローマ帝国と認められた)フランク王国(フランク)と神聖ローマ帝国(チュートン)はより強いつながりを得ています。
 他にもローマ教皇はゲルマン人への布教や神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の破門、十字軍遠征の提唱、イングランド王ジョンの破門など、欧州諸国の長のようなふるまいをしていました。しかしだんだんと権威の持ち主が国王に移り変わり、1303年のアナーニ事件でフランス王フィリップ4世によって教皇が捕らえられる程には教皇権は失墜しました。

 中世はネットがないどころか識字率も低く、基本的によその土地のことを知ることはできませんでした。そこで修道士などがキリスト教の布教や聖地巡礼路の案内などを行ったという点は、いわばインターネットの役割をローマ教会が担っていたとも言えるでしょう。


 以上歴史解説でした。ちなみに東欧の国であるルーマニアはRomaniaと書き、「ローマ人の国」という意味の国名です。これはローマ皇帝トラヤヌスが二度に渡ってルーマニアを侵攻し、その一部を属州ダキアと称して支配したことが由来のようです。まあ現在はローマに加えてクマンやブルガリア、スラブやマジャールなどが混ざっていますが。


 ローマは歩兵とスコーピオンに代表される文明です。ローマではスコルピウスという小型スコーピオンが用いられていたようです。馬に乗るという発想が薄かったのが当時の西洋の特色でしょう。

 ユニークユニットの百人隊長(センチュリオン)及び軍団兵(レギオン)はローマ軍の指揮官と兵士のことです。ドロモンはビザンツ帝国の軍船で、機動力の高さとギリシア火薬の強さが特徴だったようです。コミタテンセスは帝政後期の軍団編成のようです。



ビザンティン

 ビザンツ帝国(東ローマ帝国)をモデルとした文明です。ローマとギリシアの融合文明とも言えるでしょう。ビザンツ帝国は395年のローマ帝国分裂から1453年のオスマン帝国の侵攻まで約1000年にかけて反映しました。

 ビザンツ帝国の社会はこんな感じです。

政治:皇帝教皇主義。皇帝が教皇を兼ねる
   中央集権的。軍管区(テマ)制
経済:国家統制による貨幣経済
   屯田兵、自由農民の存在
   プロノイア制
文化:ローマ文化とギリシア文化の融合→ギリシア正教の誕生

 このギリシア正教はビザンツ帝国領内の他にロシアのキエフ公国(スラヴ)にも伝播しました。


 ビザンツ帝国の歴史は、ローマ風初期、ギリシア化した中期、衰退した後期の3つに分類されます。

 初期にはユスティニアヌス大帝により元西ローマ帝国の領土の奪還が行われ、東ゴート王国(ゴート)やヴァンダル王国(ベルベル?スラブ?ポーランド?ボヘミア?)を滅ぼして、6世紀にはかつての地中海支配を取り戻しました。なおその後はランゴバルト王国(イタリア)がイタリアを征服し、それをフランク王国と共に制圧し、マグレブ地域にはイスラム勢力が押し寄せ、最終的にはギリシアトルコの範囲の領土になりました。

 中期はイスラム勢力との戦いが続きます。この頃にギリシア文化が表に出るようになりました。その影響でギリシア正教が生まれ、西のローマ教会と分裂しました。

 後期はトルコ勢力の流入の影響が大きいです。セルジューク朝やオスマン帝国といった勢力がビザンツ帝国を滅亡へと追いやります。ローマ教会に十字軍を要請したのもビザンツ帝国ですが、商業目的の第4回十字軍にて十字軍がパレスチナにラテン帝国を建国した影響で一時期ニケーア帝国として領土を追いやられたりしました。


 西ローマ帝国の後継はフランク王国や神聖ローマ帝国ですが、ビザンツ帝国にも後継がいるにはいます。ロシアのモスクワ大公国(スラヴ)です。モスクワ大公イヴァン3世はビザンツ帝国の最後の皇帝の姪を嫁にもらいました。男系ではないので厳密には違うでしょうが、孫のイヴァン4世は自らをビザンツ帝国後継者と主張してロシアでの恐怖政治やシベリア遠征などをしました。いわば大国であったビザンツ帝国の威厳を借りたということですね。


 1000年にも渡る長期国家という背景が、安物ユニットの使いやすさや建物の耐久力向上に表れています。ユニークユニットのカタフラクトはギリシアトルコの平原で騎兵との戦闘などに有効に機能しました。城主テクのギリシア火薬は水中でもそれなりに燃える不思議な火薬だったようです。


今回はここまで。次回は東欧編。お楽しみに!