AOE2 キャンペーンの元ネタをググった程度で解説するだけの記事 Part2

 キャンペーン解説Part2。AOFE以降の追加キャンペーンの解説です。一部キャンペーン解説が長くなっちった。(´∀`)
 Part1はこちら。

 キャンペーンの難易度は、新しいキャンペーン程難しい気がします。Part1で紹介したAOKやAOCのキャンペーンは、人口制限もあって比較的やりやすいです。これは当時公式が想定していたプレイが人口少なめのものだったからなのでしょう。しかし、AOFEや歴史上の戦い(一部)から少し難しくなり、以降の追加キャンペーンはどれも手ごたえのあるものが多いです。プレイヤーのレベルが高くなるにつれて、キャンペーンも手ごたえのあるものに仕上げたのでしょう。
 なので、ウォーレスの次のキャンペーンはAOK、AOCのものがおすすめです。ジャンヌダルクやアッティラ、バルバロッサ、エルシッドあたりが特におすすめです。


The Forgotten Empires

 AOFEのキャンペーンはHDからDEになる時にリニューアルされた。

アラリック

 ゴート 418年前後

 アラリックがイベリア半島に西ゴート王国を建国する話。ゲルマン民族の大移動において、西ゴートはポーランドからルーマニア、ギリシャ、イタリアを経由してイベリア半島にたどり着いた。

ドラキュラ

 トルコ、マジャール、スラヴ 1431~1476年

 ドラキュラのモデルとされる、ワラキア公国のヴラド3世の話。西は神聖ローマ帝国、東はオスマン帝国、北はハンガリー王国の圧力に悩まされた。ドイツ人やトルコ人への迫害、虐殺などがドラキュラ伝説の元とされる。

バーリ

 ビザンティン 871~1071年

 南イタリア東岸にある都市バーリ。元々古代ギリシャの植民市で、ローマ帝国、ランゴバルト、ベルベルのイスラム国家アグラブ朝、ビザンツ帝国、ノルマン人のシチリア王国、というように支配者が変遷していった。

スフォルツァ

 イタリア 1427~1450年

 ミラノ公国の傭兵隊長スフォルツァの話。うまく世を渡り歩いたスフォルツァは、マキャヴェリの『君主論』にて理想的な政府と傭兵隊長の例として挙げられた。

パチャクテク(エルドラド)

 インカ 1438~1470年

 クスコ王国の王パチャクテクが、王国をインカ帝国に再建する話。大規模に街を整備したり、多くの小国をまとめ上げたりした。
 HD版のキャンペーン「エルドラド」は、途中でクイズが出されたりして面白かった、簡単だったけど。

プリトヴィラージャ

 グルジャラ 1180~1192年

 チャーハマーナ朝のプリトヴィラージャ3世が、隣国との恋愛事情と外交事情に悩み、西から来たゴール朝の侵略に対抗する話。


The African Kingdoms

ターリク イヴン ズィヤード

 ベルベル 711~732年

 イスラム帝国ウマイヤ朝の軍人で、イベリア半島を征服した。ジブラルタルの語源でもある。西ゴート王国やフランク王国メロヴィング朝を相手に戦った。このキャンペーンの続編がトゥールとなる。

スンジャタ

 マリ 1235年

 マリ王国の創始者であるスンジャタ・ケイタの話。自身の叙事詩も存在している。ソソ王国の魔術師王スマングル・カンテを相手に戦った。ちなみに、スンジャタの弟の孫がマンサ・ムーサである。

フランシスコ・デ・アルメイダ

 ポルトガル 1476~1509年

 ポルトガルのインド洋進出に携わった人物。香辛料などの貿易をめぐってイスラム商人と対立し、インド北西のグジャラート王国(グルジャラ)やエジプトのマムルーク朝(サラセン)などと戦った。

グディト

 エチオピア 960年

 アクスム王国王女グディトがザグウェ朝を建国する話。ザグウェ朝に関しては未だにわかっていないことが多いらしい。


Rise of Rajas

ガジャマダ

 マレー 1293~1364年

 マジャパヒト王国のジャヤナガラ王の危機を救ったことで宰相に抜擢されたガジャマダの話。現在のインドネシアにはガジャマダ大学が存在しているらしい。

スーリヤヴァルマン1世

 クメール 1006~1050年

 クメール帝国のスーリヤヴァルマン1世の話。チャンパ王国(南ベトナム)にも同名の王がいるため注意。wikiにはチャンパ王国の方しか載っていない。
 クメール帝国は別名アンコール朝であり、真臘の流れをくむ国家である。その名の通り、アンコール=ワットを建造したのもこの国である。なおアンコール朝は基本的にヒンドゥー教の国であり、アンコール=ワットもヒンドゥー寺院なのだが、時々上座部・大乗仏教も信仰されており、アンコール=ワットの北にあるアンコール=トムは仏教寺院である。AOE2では、スーリヤヴァルマン1世を仏教徒として扱っているが、wiki見る限りヒンドゥー教徒な気がするのはただの私の勘違いだろうか?
 スーリヤヴァルマン1世は、タイのハリプンチャイ王国やラヴォ王国と戦った。

(Wikipedia、2022/4/22時点の内容)


バインナウン

 ビルマ 1538~1581年

 タウングー朝の王バインナウンが、当時分裂状態だったタウングー朝をまとめ上げ、タイのアユタヤ朝やその北のラーンナータイ王国などに侵攻した話。なお、バインナウン没後、タウングー朝はまた分裂状態になる。

黎利

 ベトナム 1418~1427年

 明の支配を受けていた北ベトナムで、黎利が北ベトナムを独立させ黎朝を建国する話。当時の明皇帝は永楽帝、洪熙帝。


The Last Khans

ティムール

 タタール 1370~1402年

 第2のモンゴル帝国と呼ばれるティムール朝を建国したティムールの話。チンギス=ハンの子孫の国、西チャガタイ=ハン国から自立し、同じく子孫の国であるイル=ハン国、キプチャク=ハン国を攻撃。インドの3番目のデリー=スルタン朝であるトゥグルク朝を攻撃。1402年のアンカラの戦いでオスマン帝国を撃破した。

 ちなみに、タタールは様々な民族を指す総称である。そのため、同時期のモンゴル高原にも「タタール」と呼ばれる勢力がいた。中国人は彼らを「韃靼」と呼んでいた。ボロディンのオペラ組曲『イーゴリ公』の『韃靼人の踊り』は、タタールというよりかはクマンをモデルとした曲であり、どちらかと言うと次の「コチャハーン」に関係している。

コチャハーン

 クマン 1222~1243年

 ボロヴェツ族のコチャハーンが、モンゴル帝国軍ジェベ、スブタイの遠征を食い止めようとする話。ルーシ諸侯(バイキング)と協力して食い止めようとするが、カルカ河畔の戦いなどで敗北した。
 敗北して降伏した人々や土地はキプチャク=ハン国に組み込まれた。コチャハーン達一同はハンガリー王国に逃げ、居住を許可された。しかし、貴族に不審がられ、コチャハーンは殺害される、ついてきたボロヴェツ族一同は略奪を働くようになり、そのままブルガリア帝国へと移動した。

 その一昔前、1180年ぐらいに同じくボロヴェツ族を率いた者にコンチャークという人物がいるが、このコンチャークに対してノヴゴロド・セヴェルスキー公イーゴリが遠征を試みたのが『イーゴリ遠征物語』であり、オペラ『イーゴリ公』のモデルとなった話である。『韃靼人の踊り』は『ボロヴツ人の踊り』とも呼ばれている。

(Wikipedia、2022/4/22時点の内容)


イヴァイロ

 ブルガリア 1277~1281年

 第2次ブルガリア帝国の農民だったイヴァイロが、モンゴルの略奪や皇帝の権威失墜の現状を見て農民反乱を起こし、自ら皇帝ともなった話。ビザンツ帝国やキプチャク=ハン国と戦った。


Lord of the West

エドワード長脛王

 ブリトン 1264~1307年

 プランタジネット朝のエドワード1世の話。彼は身長が190cmもあり、「ロングシャンクス」などと呼ばれた。
 ウェールズやスコットランドに侵攻したり、アキテーヌをめぐってフランスとも戦ったりした。多くの戦争のための戦費調達のために、広範囲な社会階層の人々を招いて模範議会を開いたが、その結果諸侯や議会と対立した。
 その後スコットランド支配の厳しさからウィリアム・ウォーレスらが抵抗運動を激しくさせた。ウィリアム・ウォーレスは捉えたものの、スコットランド民の反乱は抑えられず、スコットランド王ロバート1世によってスコットランドの存続が実現した。

西の大公達

 ブルゴーニュ 1407~1431年

 百年戦争ジャンヌダルクのブルゴーニュ視点。
 当時のフランスにはいくつかの諸侯が国王と共に政治を運営していた。そこでは政権争いも度々発生していた。ブルゴーニュ公ジャン1世は「ブルゴーニュ派」を形成し、政権を得るべく活動した。対してアルマニャック公ベルナール7世も「アルマニャク派」を形成し、ブルゴーニュ派と内乱のような激しい政権争いをすることとなった。
 両派閥はイングランドに軍の増援を要請した。当初は消極的な反応だったが、ヘンリ5世が即位するとイングランド軍のフランス侵攻が再開され、休戦中だった百年戦争が再開、アザンクールのような大敗をフランスは味わうこととなる。これを受けてブルゴーニュ公ジャン1世はイングランド側につくことを決めた。この方針は次期公位フィリップ善良公に引き継がれる。
 その後、イングランドとブルゴーニュはオルレアンを包囲、一時期ジャンヌダルクに返されるも、コンピエーニュ包囲戦でジャンヌダルク確保した。フランス王家及びアルマニャック派と休戦協定(アラスの和約)を結び、ブルゴーニュ優位の環境を作り出した。

 アラスの和約はブルゴーニュとイングランドの同盟を解消するものであった。これを機にフランスは力を蓄え、リシュモン元帥などによって、フォルミニーやカスティヨンで大勝し、イングランドを追い返すことに成功した。
 戦時中の両国での農民反乱、戦後の薔薇戦争や宗教戦争などにより、両国は封建制から絶対王政へと移行する。

(wikipedia、2022/4/21時点の内容)


ロベルト・イル・グイスカルド

 シチリア 1047~1140年

 オートヴィル家のロベルト・イル・グイスカルドが、弟のルッジェーロ1世や甥のルッジェ―ロ2世と共に両シチリア王国を建国する話。オートヴィル家はバイキングとしてノルマンからシチリアにやってきた。当初は傭兵だったが、だんだん南イタリアやビザンツ帝国領などを征服していくようになり、力をつけていった。その力を見たローマ教皇は、神聖ローマ帝国との戦いに備えてロベルトらに領地を与え、味方につけた。ルッジェーロ2世は両シチリア王国を建国した。


Dawn of the Dukes

アルギルダス&ケーストゥティス

 リトアニア 1345~1382年

 現在のベラルーシ辺りに存在したリトアニア大公国、その大公(王のようなもの)であった兄弟アルギルダスとケーストゥティスの話。彼らは、大公だった弟ヤヴーヌティスを追放し、2人で東西に分割統治をした。アルギルダスは東でモンゴルと戦い、ケーストゥティスは西でドイツ騎士団と戦った。
 アルギルダスはノヴゴロド共和国(バイキング)と手を組んで、キプチャク=ハン国を攻撃した。バルト海、黒海、モスクワなど、広大な領土を手にした。モスクワ大公国に侵攻したモスクワ・リトアニア戦争には敗北したが、キプチャク=ハン国との戦いである青水の戦いでは大勝した。
 ケーストゥティスはドイツ騎士団に対抗するべく、軍事整備や外交交渉に力を入れた。ドイツ騎士団は現在のバルト三国の辺りに存在していて、勢力拡大を狙っていた。ケーストゥティスはローマ教皇の力を借りようとしたが、仲介者のポーランド王カジミェシュ3世大王がリトアニアに侵攻し、計画が頓挫した。この対立に際して、ハンガリー王ラヨシュ1世騎士王が自国優位の和約を結ぼうと持ち掛けたが、ケーストゥティスは拒否。逆にドイツ騎士団と友好的な関係を築こうと寄り添ったが、拒否された。最期は自国で甥のヴワディスワフ2世ヤギェウォに絞殺された。

 ヴワディスワフ2世ヤギェウォはポーランド女王ヤドヴィガと結婚してポーランド王ともなり、リトアニア=ポーランド王国ヤギェウォ朝が成立した。タンネンベルクの戦いでドイツ騎士団に勝利し、ポーランド黄金時代を築き上げた。

(Wikipedia、2022/4/22時点の内容)


ヤドヴィガ

 ポーランド 1383~1410年

 アルギルダス&ケーストゥティスの続編。ポーランド女王ヤドヴィガの話。高度な教育を受けており、6ヶ国語を話し、美術、音楽、中世科学の素養を身に着けており、信心深く聖女と慕われ、後にローマ教皇に列聖された。
 彼女はヨガイラ(ヴワディスワフ2世ヤギェヴォ)やヴィータウタス(ケストゥティスの子)と共に、ポーランド=リトアニア王国を治めた。ヴィータウタスは父をヨガイラに殺され、その時にプロイセン(チュートン)に亡命しているが、後に1384年にヨガイラと和睦して帰国した。

 1370年、ポーランド王カジミェシュ3世が後継ぎのいないまま死去したため、ハンガリー王ラヨシュ1世がポーランド王を兼任し、ポーランド=ハンガリー同君連合が成立した。その次の王位について、ハンガリーでは娘マーリアが継ぐこととなり、夫のジギスムント(神聖ローマ帝国の帝王)と共に統治することとなった。しかし、ポーランドの実権を実質的に握っているマウォポルスカ地方の貴族たちが、彼らがポーランドを統治することに反発した。貴族たちはマーリアの姉ヤドヴィガをポーランド王に迎えるを主張し、1383年にヴィエルコポルスカ内戦に発展。結果、ヤドヴィガがポーランド王となり、ハンガリーとの同君連合は解消された。当時、ヤドヴィガは10歳だった。
 1385年、ヤドヴィガとヨガイラが結婚し、ポーランド=リトアニア連合王国ヤギェヴォ朝が誕生した。主な国政はヨガイラが行い、ヤドヴィガは文化事業、慈善事業を行った。私財を使って、多くの著述家・芸術家の後援、病院建設、リトアニアのキリスト教化、大学生への奨学金支援、大学の復興などを行った。1390年には個人的にドイツ騎士団と和平交渉をしたりもした。

 ヴワディスワフ2世ヤギェウォ(ヨガイラ)は、ハールィチ・ヴォルィーニ戦争(1387年)でハンガリーに勝利した。リトアニア統治に関してはアルギルダスの息子スキルガイラに権力を与えたが、これにたいしてヴィータウタスが憤り、内戦が勃発(1389~92年)。オストロフの和約で、ヴワディスワフ2世ヤギェヴォはヴィータウタスにリトアニア統治権を与えた。が、ヴィータウタスはすぐにリトアニア独立を求めだす。形だけの和睦だったか。(´・ω・`)
 長期にわたってリトアニアとドイツ騎士団は争っていたが、1398年のサリナス条約で一旦休戦、協力してノヴゴロ遠征をすることとなる。しかし1399年、ヴィータウタスとキプチャク=ハン国はヴォルスクラ河の戦いでティムール朝(タタール)に敗北。リトアニア独立の主張は控えるようになった。

 1399年にヤドヴィガが亡くなり、ヴワディスワフ2世ヤギェウォは単独統治することとなった。ドイツ騎士団とは約束を交わして終戦していたが、1408年に再び開戦することとなる。互いに工作活動をしつつ、宣戦布告、タンネンベルクの戦いでリトアニア=ポーランド王国が勝利する。

(Wikipedia、2022/4/22時点の内容)

ヤン・ジシュカ

 ボヘミア 1405~1424年

 ヤドヴィガの続編。1419年のフス戦争の英雄、ヤン・ジシュカの話。ボヘミアの小貴族であり、タンネンベルクの戦いでもポーランド王国側として戦った。チェコスロバキアの紙幣にも載っていた。
 当時ボヘミア(現チェコ西部)はルクセンプルク家支配下にあり、カレル1世(神聖ローマ皇帝カール4世)がカレル大学を設立して、ボヘミアに学問を根付かせた。ウィクリフやフスがキリスト教の新説を展開したが、異端とされ処刑された。
 これに対してヤン・ジシュカはフス派の住民を率いて反乱を起こし、神聖ローマ皇帝兼ボヘミア王ジキスムントに対してフス戦争を起こす。ボヘミア南部に城塞都市ターボルを建設し、新兵器「マスケット銃(城主砲撃手)」「フス派戦車(戦闘馬車)」や信仰による厳格な軍紀で他軍を圧倒した。最期はペストにやられた。

(Wikipedia、2022/4/25時点の内容)


Dynasties of India

バーブル

 タタール、ヒンドゥスターン 1526年

 第3のモンゴル帝国、ムガル帝国を建国したバーブルの話。ティムール朝がウズベクに滅ぼされた時に、王族のバーブルがインドに逃れた。

ラージェーンドラ

 ドラヴィダ 1016~1044年

 チョーラ朝全盛期の王、ラージェーンドラ1世の話、だと思う。
 父ラージャラージャ1世はインド南端のパーンディヤ朝、東岸の東チャールキヤ朝などを支配下に置いた。また、アラブ商人に対抗したり、世界遺産ブリハディーシュヴァラ寺院を建設したりした。
 そんな父に対して、息子ラージェーンドラ1世はガンジス河や三仏斉(現インドネシア)に遠征したり、インド洋から中国までの制海権を確保して貿易圏を確保したり、大きな寺院を建てたりした。

(Wikipedia、2022/4/25時点の内容)


ディーバパーラ

 ベンガル 

 パーラ朝全盛期の王、ディーバパーラの話。
 7世紀後半にインド北部の大きな国、ヴァルダナ朝が滅亡、戦乱の中でパーラ朝が建国される。インダス地方のプラティーハーラ朝(グルジャラ)、デカン高原のラーシュトラクータ朝(ドラヴィダ)と並んで主要三国となる。
 8世紀末頃、ヴァルダナ朝旧王都のカウナジをめぐって激しい争いが繰り広げられた。当時のパーラ朝の王ダルマパーラは一時カウナジを占領するも、後にプラティーハーラ朝に奪われる。
 これに対して、次の王ディーバパーラは東インドでの統治を強固なものにした。そしてプラティーハーラ朝が弱っている隙をみて、北インドの覇権を取り返した。また、東南アジアとの貿易や交流も活発に行った。

 公式の告知動画では、このキャンペーンと思われるシーンでブリトンやゴートが敵国として出てくるのだが、一体どういうことなのだろう。

(Wikipedia、2022/4/25時点の内容)