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人に馬鹿と言ってはいけないが、言ったほうが社会にとってプラスではないか

SNS、特にTwitterを使っていると、明らかに知能が低い人、つまり日本語の読み書きが正しくできないような層が存在することに気づくでしょう。こういった人たちのことを「頭が悪い人」「日本語が不自由な人」「論理的に物事を考えられない人」「理屈と感情を切り分けられない人」など、様々な言い方がありますが、ここでは便宜上「馬鹿」と一括りにします。

このような馬鹿と接触したとき、基本的にはその人に対して「馬鹿」と言ってはいけないとされています。「人に向かって馬鹿とか言うな」という感じですね。

しかし、本当に馬鹿と言ってはいけないのか、言わないほうがいいのかについては、一考の余地があると思います。馬鹿と言ってはいけないというのは、あくまでも個人個人の話に限られます。橘玲さんが著書で書いているように、馬鹿の特徴は「馬鹿であることを自覚できない」点にあるとされており、私もその通りだと考えています。

したがって、馬鹿に対してお前は馬鹿だと言ったところで、自分が馬鹿であることがわからないわけです。言うだけで何も効果がないにもかかわらず、言った側が他人を批判したり差別したりしているような人間だと見なされ、イメージや印象が悪くなってしまいます。結局、言ったところで相手の状況は改善されることがないので、言うだけ無駄というかマイナスの影響しかありません。そのため、馬鹿と言ってはいけないということになっている。

しかし、これは個人個人のミクロな話であって、もう少し視野を広げて、マクロの範囲や社会的な視点で考えると、本当に馬鹿と言ってはいけないのかという疑問が出てきます。

社会的な視点、マクロな視点で「馬鹿と言ってはいけない」のが必ずしも正解ではないと考えられる理由は、先ほど述べた「馬鹿は自覚がない」という点に関連しています。その自覚を持てない原因となっている部分もあるので、そこを説明します。

馬鹿が馬鹿であることを自覚できない流れは、ざっくり以下のようになっていると思います。

まず、頭の良し悪しや知的能力は、トレーニングや訓練で向上させることもできますが、遺伝的なものや生まれつきの才能的な部分が非常に大きいです。これは運動神経の良し悪しや、音楽、芸術の才能などと置き換えて考えるとわかりやすいでしょう。

基本的に、小学校や中学校の時点で、才能がない人間は、自分なりに努力する余地はありますが、もともと才能がある人に肩を並べたり追い越したりするのは非常に難しい。例えば、100メートル走を20秒で走る人が努力して18秒や16秒まで向上させることはできますが、10秒台で走れるようになるのはほぼ不可能です。10秒台で走る人間は、すでに中学校の時点で14秒台で走っているような人たちです。

したがって、頭の悪い人は小学生や中学生の時から、他の人たちと比べて知的能力や学力があまり優秀ではないポジションにいたはずです。この時点では、自分はそんなに賢い方ではないという自覚はできるはずです。

それでは、どのようにして自覚ができない馬鹿になるのでしょうか。

小中学校は大体、受験をしない限り自分の家のエリアに属している公立の学校に通うことになります。しかし、高校生になると、学力別に自分の学力や希望に応じた進路に進むことになります。すると、馬鹿な人は馬鹿が行ける高校にしか行けないので、周りが全員馬鹿になるのです。

この時点で、小学校や中学校で自分が馬鹿側であったことを忘れてしまいます。周りがみんな馬鹿だから自分は普通だというように認識を書き換えてしまうのです。もともと馬鹿なので、小中学校の時に頭が悪かったはずなのに、それを忘れてしまい、自分はみんなと同じだから、これが普通だと考えてしまう。

その後、高校を卒業して大学に進学するとしても、いわゆるFラン大学や馬鹿でも入れるような大学や学部に進むことになります。ここでも当然、同レベルの知的能力を持つ人々が集まるので、「自分は周りの人間と同じだけの知能がある」というように錯覚が起こってしまいます。

ここで完全にバイアスがかかって、自分の知能を誤って認識することになるのですが、頭のいい人であれば、当然そのバイアスを自分で取り除いて客観的に評価することができると思います。しかし、もともと頭が悪い人は、そういうバイアスを取り除いて思考することができません。あくまで自分の経験や目の前にある物事だけで情報処理してしまうので、客観的なデータや自分が見ていない範囲にある情報を踏まえて考えることができません。

では、大学を卒業した後はどうなるでしょうか。もちろん知的産業には就けません。頭が悪いため、頭を使うような知的労働ではなく、肉体労働や単純作業など、それほど頭を使わなくてもできるような仕事に就くことになります。すると、さらに同じように、周りにいる人たちは同じ知的能力の人たちが集まるコミュニティーで生活することになるので、当然自分は頭が悪いと自覚できないのです。

社会人になれば、自分の職業だけでなく、いろんな仕事の人と関わることもあるかもしれません。しかし、その時に頭のいい人は頭の悪い人と普通に接することはないのです。もし接することがあっても、頭のいい側が頭の悪い側に合わせて話す内容のレベルを落としたり、ペースを落としたりして、頭の悪い人にでもわかるように話したり説明したりするので、いったん社会人になる年齢になったら、もう自分が頭が悪いということを自覚するチャンスは一生訪れないのです。

ここで出てくるのが「人に馬鹿と言ってはいけない」という話です。日本人の皆さんは人が良いというか、他人に暴言を吐いたり、批判したりするようなことはなかなかしないので、馬鹿を見つけても「あなたバカですよね」というように言わないのです。優しいからです。

これは最初に説明した通り、個人的な立ち振る舞いとしては、馬鹿に対して馬鹿とは言わないというのが最適な選択肢ではあります。しかし同時に、この馬鹿に馬鹿と言わない親切心が、馬鹿を自覚させない原因にもなっているのです。

では、馬鹿を自覚させないまま放置しておくのが社会的に有益かというと、そうではありません。馬鹿が自分の馬鹿さによって何かしら損失や被害を被るのであれば問題ないのですが、集団の中に馬鹿が存在することによって、その他の集団全体にも悪影響を与えることは多々あります。馬鹿が何かしら事故を起こしたとして、自分だけで済まないことが多いのです。周りの人や社会にも迷惑をかけてしまいます。なので、できれば馬鹿に馬鹿と言ってはいけないのですが、馬鹿は自分のことを馬鹿だと自覚してもらった方が、社会的にはプラスになるのではないかと思います。

これは知能以外の部分、例えば運動や音楽の才能などでも同様です。例えば、非常に運動神経が悪い子供が危険なスポーツにチャレンジしたり、リスクがある環境で遊ぼうとしていたら、「お前はそこに行ったら危ないからやめとけ」と注意するでしょう。また、非常に不器用な人が包丁を使おうとしたら、「危ないから、指を切るからやめておけ」と事故が起きないように周りが本人の能力を踏まえた上で注意し、事故が起こらないように気を使います。

しかし、なぜか馬鹿だけは放置されてしまっているのです。本当であれば、社会的には馬鹿はちゃんと馬鹿だと自覚した方が、本人にとっても社会にとっても無駄なリスクが発生せず、安全ではないかと思うことがあります。

ただし、ここで言いたいのは「お前はバカだから賢くなるように努力しろ」とか「頑張れ」といった話ではありません。先ほど申し上げたように、もともとの才能や遺伝的な部分も大きいので、努力してどうこうなるものでもない場合があります。大事なのは、馬鹿だからバカじゃなくなるようにしろという話ではなく、自分の知能や知識レベルを自覚しろという話です。

泳げない人が泳げないということを自覚していれば安全なのと同じです。泳げない人が「俺は泳げる」と思って、いきなり波が高い海などに入ったら危険です。だから泳げない人には「お前は泳ぐ能力がないからやめときなさい」とちゃんと教えてあげた方がいいのです。

同じように、馬鹿には時々「お前は馬鹿なんだから、SNSで余計な口を開くな」と言った方が、社会のためになるのではないかと思うことがあります。

ただし、こうやって言ってしまうと、言った側である私の方が他人を馬鹿にする、ひどい人間だとか心ない人間だというふうに批判されるので、個人的になかなかやりにくい部分はあります。しかし、「馬鹿を見かけても馬鹿と言わないようにしよう」というのがスタンダードになっているせいで、社会全体で見たら馬鹿が放置されている状況になっているのではないでしょうか。

ということで、基本的に私もあまり人のことをバカとか頭が悪いとか言わないようにはしていますが、たまに「お前は頭が悪いんですよ」ということを自覚してもらうために、人のことを馬鹿と言ってしまうことがあります。私が人に対して馬鹿と言っているときは、まあそういう意味です。

ある意味、これは優しさだと考えています。本人だったり、社会のリスクを軽減するために、その本人が自覚していない能力値を外部から指摘してあげるというのも、一つの方法ではないかと思うのです。

これについて皆さんがどのように考えているのか、非常に気になります。馬鹿と言ってはいけないという社会的な規範と、馬鹿を自覚させることで社会全体のリスクを軽減できる可能性のバランスをどのようにとるべきなのか。この問題について、皆さんの意見も聞いてみたいと思い、今回の文章としました。

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