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瀬戸内ハードコア自転車行④

9月12日(日)

 制服を着た少女が船着き場でたたずんでいる。時折、時間を気にする素振そぶり。もう日が暮れてずいぶんたった。


自転車ごと乗船して海を渡り、向こう岸から見たらあんなに明るく連なっていた光の中に、いま私はいる。こちらの尾道側からみると、私がこれまで通ってきた島々のなんとわびしいことか。港のわずかな灯り以外、深い闇に沈んでいる。

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その闇を背に「にゅうしまなみ」号が航行する。ものの数分でこちら側にたどり着いた。合図の汽笛をヴォッと鳴らして船が接岸する。舳先へさきの板が半回転し、船と地面をつなぐ足場になった。乗船客は背の高い若者ただひとり。

すると、海を背にしていた少女が、船に、若者に向き直った。そのはにかみ。
若者はゆっくりと船を降りる。交わされる甘い会話。ふたりは光の中へと歩き去ってしまった。私はベンチに座りあちらとこちらを何往復もする船をただ見る。穏やかな潮風。尾道三部作の、今は第何部?

 今日はたくさんの出来事がありすぎて、もう一歩も動けない――。



島巡りに多くの時間を費やしたかったため、午前8時すぎに西条市を出発、徳島県今治いまばり市のしまなみ海道の入り口まで来たのは11時ごろ。その時点ですでに30キロいでいた。

道路上の青線が「尾道まで約70キロ」と教えてくれる。親切なサイクリングロード。あとはこれに沿って行けばいい。

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螺旋らせんを描きながら上る緩やかな坂。波にさらわれたりしないよう高い位置に橋を建造したのだろう。理屈はわかるが自転車も私も疲れ果ててなかなか進まない。ひと漕ぎひと漕ぎ体重をかけようやく橋の始点に来た。その景色に息をのむ。

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かすみに煙る空と島影しまかげ陰鬱いんうつなほど濃く広がる海面。真下を一隻の漁船がしずしずと進み、白い波の跡を残す。

しばらくはただ呆然と立ち尽くしていたが、フッとおかしさが込みあげてきた。カンベンしてくれよ、自然。やることないからってこんなに広がりやがって。
嫌でも人間存在の矮小わいしょうさを感じずにはいられない。いつも何かしら悩んでいる私たち。しかし、その自然に挑んで巨大な橋を架けたのもまた人間だ。吊り橋を支える塔の真下で、首を限界まで上にひねって見上げる。そびえ立つ塔、そこから伸びるケーブルやハンガー。どうなっているのだこの世は。バケモノだらけか。

 橋の始点より少し進んだ場所に海道についての看板が設置されていた。じっくりと読む。何の知識もなかった私は、今治から尾道まで巨大な1本の橋が渡されているのだと思っていたが、実際には、今治から瀬戸内の6島、そして尾道までを結ぶ7つの橋があり(自転車で行けるのは6つ目の橋まで、最後の島から尾道へは船)、橋と橋の間はもちろん島内を通ることになる。

絶景の橋を渡り、ひとつ目の島、大島おおしまに入った。市街地に出るまでは野性味あふれる細い道を曲がりくねりながら下る。

坂が終わると、すぐに道の駅が見えてきた。「よしうみいきいき館」。日曜日なので結構な人出である。家族連れやカップル、お年寄りの集団に交じって自転車乗りたちの姿も数多い。広い駐輪場にはサドルを乗せるだけの便利なサイクルラック。自転車にやさしい観光地にえあれ。

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 海を眺めながら名物のハモカツバーガーを平らげて、出発。

のどかな国道314号線を突っ切り、次の橋が見えてきた。橋までの上り坂。と、その上り口にパトカーと救急車が。私は無実である。横目で警官と消防隊員が集まっている方を見ると、横ざまに倒れたままの自転車。よく見ればアスファルトに赤黒いシミが。「まずは処置してから……」と警官が話す声が聞こえた。

自転車事故に間違いない。この螺旋の坂は今治側から行く私にとっては上りだが、尾道側から来る人にとっては下りであり、中央線もないエンドレス急カーブ、道の両側は鬱蒼うっそうと茂る林、さらに原付まで通るという要注意スポットだ。今一度、気を引き締めて進もう。

2島目に降り立つと、いきなり目の前に広がる砂浜、伯方はかたビーチ。塩で有名な伯方島はかたじまか。天気も回復して暑くなってきたので少し泳ぐ。海水をなめて、うん、さすが伯方の塩だ、マイルドだなあ、と一人芝居。寂しさを通り越してきた感じはある。

続いて、3島目の大三島おおみしま。右側に海、左側に人々の暮らし。農作業に精を出すおばあさん、玄関先で談笑するお年寄り。なんとなく雰囲気の良い島だな、と漕ぎながら思う。先ほどの2島とくらべるとチェーン店の数も少ないようだ。

のほほんと進むと、前方の海へと続く路地からゆっくりと現れたヴィンテージ・ロードバイク。ブレーキレバー上部から飛び出すワイヤー、少し塗装がげたクロモリフレーム。乗っているのは、長い白髪に豊かな口髭、サングラスにキャップ、赤いポロシャツに短パンという恰好の、ほとんど仙人のようなオールドマン。私が進む道の前方を姿勢正しく横切っていく。急がず、着実に。

その瞬間、私の脳裏に啓示けいじにも似た直感がはじけた。ああ、おれは将来、こうなるだろう。


この島で、この気候で、この景色の中、この速度で自転車を漕いでいることがたまらなく幸せだと思った。生き残ったセミの鳴き声が響いた。

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 次の橋への上り坂。遍路へんろ用の三角笠をかぶった徒歩の若者が杖をつきながら上る横を、「がんばれよ!」と左手で拳を作り応援しながら通り過ぎる。なんだかそんな気分だったのだ。

4番目の生口島いくちじまに着き、またも私を誘惑する海、「瀬戸田せとだサンセットビーチ」という看板。「サンセット」と「ビーチ」という言葉に私は弱い。また寄り道および休憩、時刻は午後5時近く。

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砂浜に座りながら残りの距離を確認すると、尾道までまだあと30数キロある。この疲労のたまった脚では2時間はかかる。最近は日没がだんだん早くなって、午後6時半にはもう暗くなるだろう。ということは、暗闇の中、あの街灯のない細い坂道を通る? いや、橋へ向かう坂道だけでなくそもそもこのしまなみ海道、山道も結構あるぞ……。

事の重大さに気がつき、首筋のあたりが冷やっとした。フジ子(愛車)についているのは100均のライト。海に沈む夕日などを待っていたら、残りの30キロがどんなに恐ろしいものになるやら。田舎の夜をなめてはいけない。

ペースを上げて急ぐ。漕いでいる間にも思考はループ。急がなきゃ、疲れた、いや、不安になるのが良くない。普通に漕ごう。道は整備されてるんだから大丈夫。いざとなれば各島から尾道まで出ているフェリーに乗れるみたいだし。いや、でもその船着き場も時刻表もわからない。充電は? なぜ10%しかないんだ? 少しでも距離を稼ごう。いや、でもこんなところでパンクしたら……。

5番目の島、因島いんのしまの途中で完全に日が沈んだ。まだ残照で少しは明るいが、それもどんどん黒く変わってゆく。今治からずっと続く、地面の青いガイド線も見えづらくなり、島の出口を間違えて高速道路に入りそうになる。怖い。引き返してまた橋への坂道を上る、街灯はない。

 と、なにやらうごめく大小さまざまの影。

あるいは道路を素早く横切り林の中へ消え、あるいは道路の真ん中で目を光らせこちらをにらむ。イノシシだ! 私は慄然りつぜんとして立ち止まった。7、8匹はいる。その中でひときわ大きい個体は母親か。こいつを刺激したら確実に無事では済まないだろう。しかし、このまま立ち止まっていたらそれこそ標的になりそうだ。蛮勇ばんゆうでもなんでもいい、体に指令を発して動き出す。立ち止まっている母イノシシの横を、いま、なんとかすり抜けた!

平静を装いしばらくそのままゆっくりと、橋の始点に出てようやく灯りが。自転車から転げ落ちそうなくらい大きな深呼吸を繰り返した。汗が噴き出す。おれは死ぬところだった。

そして、今治を起点としたしまなみ海道としては最後の橋、因島大橋いんのしまおおはしの上で、東西南北に頭を下げた。橋の照明を映す暗い海、濃紺の空、黒い輪郭だけの島々。お世話になりました。また必ず来ます。今度もきっと計画なんぞは立てないでしょう。


尾道に一番近い最後の島、向島むかいしまを北上する。中心部には、街灯はもとい、スーパーやコンビニなども増えてきた。もう気を張らなくても大丈夫だ。


 エネルギー補給のため「フレスタ」というスーパーに入る。ビールとエビのから揚げを持ち、会計へ。レジ担当の、純朴そうなうら若き女子アルバイト店員に尾道への行き方を尋ねてみる。だってスマートフォンの充電3%くらいしかないんだもん。しょうがないね。
「あの、尾道までの船? は何時まで出てるんですか?」
「え、あ、夜10時くらいまでずっとあるんで、大丈夫ですよ」マニュアル外のイレギュラーな会話に少し戸惑う彼女。
「そうなんですか。あ、自転車も乗せられるんですよね?」
「はい、自転車も大丈夫です」
「えっと、道はこの通りを行けばわかりますかね?」
「はい。乗り場はまっすぐ行けばわかると思います」
「どうもありがとうございます」
「あ、ありがとうございます。……あの、お箸はご利用になりますか?」
「いらないです。ありがとう」

異郷いきょうの風を吹かせて颯爽と去る私。背後から彼女と同僚との話し声が少し聞こえた。「ねー、なに話してたの?」その声に少しからかう様相。「え、あの、船について……」恥じらう彼女。わ、若い。キャピキャピしおって。まあ無理もなかろう。平和だけど刺激の少ないこの島。平凡な日常にやってきた、ミステリアス旅行者……。


より主人公感を高めた私は船着き場に着いてからもなかなか乗船せずに、夜風に吹かれながらビール片手に素手でエビをせっせと口に運ぶのだった。

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