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二重否定と肯定と

 自分の意思を伝える時、できるだけ素直な言葉をすっと口から発するように心がけている。でも、素直な感情を載せた言葉が必ずしもそのままの意味で相手に伝わるとは限らない。相手を傷つけないように、必要以上の優しさのようなものによって。僕の言葉は防護カバーをかぶせられたようになってしまっているのかもしれない。中の言葉が見えにくいぐらい丁寧に包装されて。

 肯定的な表現を用いることが苦手だ。それは「好きです」とか、「頑張ってね」とか、「できます」とか。僕自身はどの言葉を言われても嬉しいし、その言葉をそのままの意味で受け取ることができる。ただ、自分が使用するとなると少しだけ躊躇ってしまう。迷惑なのではないか、重いのではないか。言葉以外の部分に肯定以外の力が宿るような気がするからだ。その力が相手に負の力となって届いてしまう可能性を、僕は恐れているのかもしれない。

 そんな僕は二重否定の表現に依存しがちだ。物心ついた時からそうなのかもしれない。自分の意見を述べる時、他者からの相談を受ける時、何気ない会話の一コマ。シンプルに肯定すればいいのに。自信がない、曖昧にしたい、依存心が強い、理想が高い…そんな心理背景が二重否定依存の原因だと自分なりに分析している。

二重否定とは、否定の言葉を二度重ねて肯定の意味を強めたり、その肯定を婉曲に表したりする語法のことである。

goo辞書より 

 二重否定が完全に悪いとは思ってはいない。ただ、相手の解釈次第で自分の意図した意味と違って伝わってしまうときがあった。後悔が残った場面をいくつか思い出してみる。

ホテル清掃アルバイトのとき

「タケル君、〇〇号室の清掃もいける?」
『時間あと少しですが、できなくはないです』
「あ、そうなんだ。じゃ他の人に任せるわ」

 自分に課せられた部屋分の清掃があと少しで終わるが、終業時間までまだ余裕がある時だった。別にサボりたいわけでもなかった。なんで素直にできますって言えなかったんだろう。任せてください!って言えた場面なのに。

友達との電話で相談されたとき

「あたし、これからの人生大丈夫なのかなぁ」
『大丈夫じゃないことないよ、気にしすぎ』

 大丈夫だよ、と伝えたかった。向こうも大丈夫だよって後押しの言葉を求めていたのかもしれない。でも、無責任に大丈夫だよとは言えなかった。相談の悩みも「それで〇〇はどうしていきたいと考えてるの?」と反芻させるだけで、僕は意見を述べられなかった。もしかしたら聞き役だけで十分だったのかな。

だいぶ前に彼女と話していたとき

「タケルは私のことは嫌いなの?」
『好きじゃないわけないじゃん』
『話してて居心地もいいし、楽しいし』
「回りくどい表現は嫌だよ」
「ちゃんと想いは伝えてほしいな」

 別れてだいぶ経ってから不安にさせてしまっていたんだなと気付いた。好きだから付き合っているわけだし、言わなくても伝わると思っていた。本人を目の前にしても照れくさくてストレートに言えなかった。もっとシンプルに、素直な感情を伝えていればよかったんだろうな。気づけなかった自分が情けない。

 このように、二重否定の表現でそのまま伝わらずにうまくいかなかったことがたくさんあった。今も気を付けているが、これからも誰かへ言葉を伝える時に二重否定にならないように気を付けていく。もう回りくどいことで面倒な思考に発展したくないから。

 僕が二重否定を使ってしまう原因に、僕の人間としての芯の弱さがある。自分にそれほど自信がないこともだが、自我の弱さでもあると思う。何事にも否定で入るから素直に物事に取り組めない。でも持ち前の諦めの良さでその否定すら、すぐに否定してしまう。

 例えば宿題やりたくないなと思っても、やらないわけにはいかないからなとすぐに思ってしまう。こんな感じで自分のポジティブとは言えない思考と変に諦めの早いプライドのなさが相まって、二重否定が加速してしまっているのだと個人的には分析している。

 でも、二重否定が全部悪いわけではないと僕は思っている。否定に否定をする行為は普通よりも強い肯定になることだってあるのだから。自分を動かす原動力としては誰にも迷惑をかけることはないので、二重否定の自分にこれからも頼っていこうと思う。否定を否定することで、僕はうんと頷くことができる。他人にはストレートな表現で、自分には回りくどくても正しい選択をできるように。

 僕にやれないことなんかないのだから。

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